2016-09-11

【週俳8月の俳句を読む】認識すること、輪郭を与えること、関わりあうこと 渡部有紀子

【週俳8月の俳句を読む】
認識すること、輪郭を与えること、関わりあうこと

渡部有紀子


祭より抜けて祭の音聞こゆ  進藤剛至

ある地点から離れて、あるいは時間を隔てて認識できる事柄がある。歴史上の出来事などはその良い例だ。ある事象が起こっている時、同時代の者たちはそれぞれの事情に基づいた活動や生活を行うのみである。その事象が何を意味するかは、後の世の者たちが事象の何を認識し何を認識しないのかを決め、評価し、「後世へ与えた影響」という意味づけを行って、最後に歴史となる。歴史は人為的なものだ。

この句の「祭の音」とは何か。その音の中にいる者たちには祭の音などわからないだろう。それは、個々に笛や太鼓の音であり、神輿を担ぐ人の声であり、その一つひとつに耳を傾けたとしても、「祭の音」などと絶対に総称しない。祭の騒ぎから抜け出て、ふと後ろを見たときに、あぁ、あそこでは祭があり、あそこから聞こえるのは祭の音だと認識する。もはや、彼の頭の中では、笛太鼓を奏でていた山車の上の子どもの顔も、神輿を我先に担ごうといきり立つ男たちの肉付きのよい背中も、すべてが祭の一風景という記憶にカテゴライズされている。経験は整理されることで、「祭の体験」として想起され得るものとなる。「祭の音」と大枠での名前を付けずには見聞きしたことを理解できない我々の認識の仕組みを、この句は突いている。

清水汲む零れぬやうにこぼしつつ  進藤剛至

更衣さびしき腕を組みかへて  進藤剛至

この二句を目にすると、つくづく俳句は短い私小説なのだと感じる。こぼしているのは誰の目にも明らかなのに、「零れぬ」ように努力と注意を払っていると作者は主張するのだ。軽やかな服装に変わったら、半袖から露わになった腕の素肌の感触があまりにも頼りなく感じて、慌てて組み直してみたと言うのだ。腕はいつも同じ方を上にして組む癖がどの人もあると聞く。己だけが知っている内なる努力や、内面に抱える空虚な気持ちといった捉えどころのないものを、いつも触れてきたはずの自己の肌の感触によって改めて自覚している。

九竅を伏せまくなぎを突破する  加田由美

まくなぎの無礙のかたまり尾を曳ける  加田由美

同じ捉えどころのないものでも、この作者の句では自分の外にあるものとして認識されている。「九竅」とは、口、両眼、両耳、両鼻孔、尿道口、肛門と言った、人体にある九つの穴を指す。これらを伏せるために筋肉を収縮させると、かえってその周辺の皮膚の感覚は鋭敏になる。まくなぎという実体のおぼつかないものを作者は全身で知覚し、「九竅」「無礙」といった漢語の視覚的な重々しさを与えることで、その輪郭を何とか留めさせようとしている。

おんおんと酸素を吸へば月の前  鷲巣正徳

「おんおんと」というオノマトペは、「おんおんと泣く」というように息を吐きだす時の擬音語として使うと思っていた。息を吸うのもおんおんと聞こえるのだと、この句の作者は言う。月明りの病室で酸素を吸わねばならぬほどの事態になれば、やはり半ば泣くような音を立てるのだろうか。「月の前」という措辞によって、必死で酸素を吸う作者の体躯が影となって見えてくる。

点滴のぽこと終はりぬ牽牛花  鷲巣正徳

前句同様に入院中に得た作品のようだ。点滴は最低でも一時間程度、長ければ半日以上の時間をかけて行われる処置である。その間、腕や手を動かすことは制限されるので退屈をしのぐのも容易ではない。輸液製剤のパックから最後の一滴が絞り出されて点滴が終わる際に、ぽこと音を立てた。おそらくそれは、本当にかすかな音であり、一瞬の出来事であっただろう。変化に乏しい入院生活の中でも、俳句の目や耳を持って過ごせる者は幸せだ。

オルガンのペダルなりけり秋の声  生駒大祐

あいさすと色鳥うすびへるしんき  田島健一

かかりさるともだちいんび秋まつり  田島健一

タイムマシンにたくさんの管風が鳴る  福田若之

冷蔵庫→孤独→クローン、でおしまい  福田若之

かなかなと油絵の具の混ざりたる  宮本佳世乃

ひかる絃肺胞がひらきゆく霧  宮本佳世乃

蜩は胴がブラウン管である  鴇田智哉

透かしみる羊に青いされかうべ  鴇田智哉

同人誌「オルガン」のメンバー五人の作品をまとめて鑑賞することをお許しいただきたい。また、上記に作品を挙げた作者の順は、「週刊俳句」八月二十一日号「オルガンまるごとプロデュース号」に掲載されたのとは若干異なるが、これも作者名を五十音順に並べての掲載と理解した上でのことと予め断っておく。

楽器のオルガンは、踏み込まれたペダルによって空気が送られ音が鳴る。生駒大祐の句によってオルガン内部の「間」へ送り込まれた空気は、田島健一の平仮名の妙味とも言える句の音を鳴らし(筆者は特に、「へるしんき」がこんなに面白い響きの音を持っている言葉なのかと気づかされた)、福田若之のタイムマシン(映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のデロリアンを想起した)に取り付けられた無数の管を通って冷蔵庫の中へ入り、冷気となって孤独と自己増殖、自己完結の象徴とも言えるクローンへと帰結した。冷気は宮本佳世乃の作品によって、開いた肺胞に深く取り込まれた霧に姿を変え、再び金属的な蜩の音となった後、混ざった絵具の色の光となった。この光は信号として蜩の胴を通じて画像を結び、羊の頭蓋骨の青さを映しだす。鴇田智哉が結社無所属となるきっかけは、句集に無季の作品を入れたことだったそうだが、「メメントモリ」を彷彿とさせるこの澄んだ佇まいの作品もまた無季である。

福田若之は、「週刊俳句」八月二十一日号で「僕たち五人がオルガンという名で呼び、あるいは、呼ぼうとしているもの」と題して、同人誌「オルガン」の立場を次のように表明している。「(他の結社誌、同人誌とは違いは何かとの問いに対し)僕は、オルガンは無調だ、と答えたい。もちろん、無調の音楽にも調性らしきものが感じられることがあるように、オルガンもまた、何らかのまとまった感じを与えることがあるだろう。けれど、それは、並んだ音が結果的にそうした感じをもたらしたというだけのことだ。オルガンの色は、そんなふうにして、ぽっかりとあいている」―今、筆者がしたように、メンバー五人の作品を関連づけて読むことは、もしかしたら作者らの望まない読み方なのかもしれない。しかし、福田若之も述べているように「並んだ音が結果的にそうした感じをもたらした」のである。ここに同時代の若手俳人が集い、その作品をまとまった形で提示されることの意義を感じる。俳句は一句独立とは言え、やはり作品群となると、作者の意図や作者の属するグループでの互いへの影響を、どうしても読み解こうとしてしまう。

定家忌のパンを焦がして待つをとこ  岡野泰輔

藤原定家の「来ぬ人をまつほの浦の夕凪に焼くや藻塩の身もこがれつつ」に取材したのだろう。妻問婚が定着していた定家の時代にあって、この歌も待っているのは当然女なのだが、掲句では男が待っている。藻塩であろうとパンであろうと、我が身を焦がす恋の炎は容赦ない。

稲妻のテント芝居にしきりなり  岡野泰輔

裸火の頂にいま秋の風  岡野泰輔

このテントの中ではかつてのアングラ演劇が上演されているのだろうか。稲妻は、単に劇中の照明効果とはせず、テントの外でも稲光が空を走り、今にもテントめがけて落ちてきそうだという景でとらえたい。テントの尖った頂きは、ちらちらと揺らめく裸火の先端、一番消え入りそうで一番鋭い輪郭を見せる炎の頂きにつながって、そこへ秋の涼しい風が吹いている。




第485号2016年8月7日
進藤剛至 清水 10句 ≫読む
第486号 2016年8月14日
加田由美 引き潮 10句 ≫読む
鷲巣正徳 ぽこと 10句 ≫読む
生駒 大祐 読む 
田島 健一 読む 
鴇田 智哉 読む 
福田 若之 読む
宮本佳世乃 読む
岡野泰輔 焦げる 10句 ≫読む

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