あとがきの冒険 第7回
恋・勇気・赤ずきん
小池正博『蕩尽の文芸-川柳と連句』のあとがき
柳本々々
折にふれて思い出している「あとがき」がある。次の小池正博さんの「あとがき」の一節である。
書物として完全なものではないが、未完成・未了性はのぞむところである。先へ進む精神を私は連句から学んだのではなかったか。小池さんは「先へ進む精神」を「連句」から学んだという。私はこれを〈換喩の勇気〉と名付けてみたいと思う。
換喩とは、なにか。それは〈くっついている〉もので喩えるレトリックである。たとえば、童話の「赤ずきん」は換喩であらわされた名前だ。彼女は赤いずきんをかぶっている。赤いずきんがくっついている。だから、「赤ずきん」と換喩であらわされた。ちなみに換喩(くっついているもの)に対して隠喩(似ているもの)であらわされた童話的主人公が「白雪姫」だ。肌の白さが雪に《似ていた》から。白雪姫は白い雪に似ているが、赤ずきんは赤いずきんに似ているわけではない。ただ《かぶっていた》のだ。それが隠喩と換喩のちがいだ。
換喩が隣り合ったものを介して横にズレていくのに対して、隠喩は似たものが重なりあいその場で深まっていく。換喩と隠喩にはそういう性質上の違いがある。
小池さんは「先へ進む精神」を「連句から学んだ」というが、これはまさに「連」なる「句」(隣り合った句)によって「先」へ進んでいくという換喩的思考ではないか。
隠喩のように深く同じ場所を掘り下げていくのではなく、換喩のように・連句のように隣り合った横へ横へとずれて滑走していく〈勇気〉。たえず〈越境〉することをためらわない〈勇気〉。
ジャンルの中での自己完成という誘惑は強力だから、気をつけていないといつの間にかジャンルに囲い込まれてしまう。……「連句」は「他者の言葉に自分の言葉を付ける共同制作」であるために、自己と自己の同一化がズレゆくような経験を孕む。自分とはこうである、という自分=自分を同一化させようとする隠喩的思考がズレざるを得ないのが「連句」なのだ。
他者の言葉に自分の言葉を付ける共同制作である連句と、一句独立の川柳の実作のあいだに矛盾を感じることもあったが、いまは矛盾が大きいほどおもしろいと思っている。
この「換喩」と「連句」をめぐっては思想家の中沢新一さんが井原西鶴について論じた文章でこんなふうに述べている。
数十秒に一句、という早業を実現するためには、西鶴の前頭葉のニューロンでは、ことばの換喩機構が、フル稼働していたはずである。数人が組んでおこなう連句の場合にも、前の人の詠んだ句のイメージを、換喩的に広げたり、ずらしたり、遠ざけたりすることによって、新しい句が新しい光景をつぎつぎに開いていく。……隠喩的思考が「過去」へ遡行していくのに対し、換喩的=連句的思考には「先」へ進む時間意識が胚胎している。たとえば小池さんは最近刊行した句集『転校生は蟻まみれ』の「あとがき」をこんなふうに書いていた。
ことばの隠喩的な用法がおこなわれているときには、時間意識の過去への遡行ということがおこる。ところが西鶴が挑戦していたような、換喩の高速稼働の場合には、いつも時間意識は、先へ先へと先送りされてしまう
(中沢新一「恋する換喩」『日本文学の大地』角川学芸出版、2015年)
「川柳」とは何か、今もって分からないが、「私」を越えた大きな「川柳」の流れが少し実感できるようになった。けれども、それは「川柳形式の恩寵」ではない。「川柳」は何も支えてはくれないからだ。「川柳」というジャンルと自己とを隠喩的に同一視しないこと。「川柳」に自身が支えられていると確信したせつな、その隠喩構造は「過去」への遡行をもたらすだろう。だからこそ、小池さんは「あとがき」においてこう書いた。「『川柳』とは何か、今もって分からない」し、「『川柳形式の恩寵』」はないし、「『川柳』は何も支えてはくれない」のだと。
(小池正博「あとがき」『転校生は蟻まみれ』編集工房ノア、2016年)
〈わたし〉を支えてくれる白馬の王子も七人のこびともいない換喩的存在として狼を撃ちにいくこと。それが〈換喩の勇気〉なのではないか。
小池正博を、西鶴を、赤ずきんを通して、今、私はそう思うのだ。
(小池正博「あとがき」『蕩尽の文芸-川柳と連句』まろうど社、2009年 所収)
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