【週俳8月の俳句を読む】
夏が終わる
瀬戸正洋
秦夕美は「葉」である。個人誌「GA」の表紙には「葉」が置かれている。あとがきには、その「葉」の名が記されている。個人誌「GA」が届くたびに、その表紙の「葉」が気になった。75号のあとがきには、
表紙に使う葉が、いつも庭の片隅で見つかり、七十五号まで一度も同じ葉を使わずにすんだことも……とある。こだわることは大切なことなのである。こだわりがなければ、ひとを感動させることはできない。そして、このこだわりが、ことばとは「葉」であることを私たちに教えてくれる。
更衣さびしき腕を組みかへて 進藤剛至
さびしいのである。さびしくなければさびしいなどという言葉は浮かんでこない。半袖のシャツを着て腕を組むのである。腕と腕とが、肌と肌とが触れ合っている。その触れ合っている腕を組み替えたとき一段とさびしさを感じたのである。
すべり込むやうに晴れたることも梅雨 進藤剛至
こころにもからだにも、「梅雨」という現象が居座っている。それほど不快なのである。この季節、太陽が輝くことは単なる自然現象ではない。太陽は太陽の意思をもって居場所を盗まなければその恵みを地上の私たちに与えることはできないのである。
炎天の裏にひんやりある宇宙 進藤剛至
炎天には裏と表とがある訳ではない。その裏には宇宙がありひんやりとしている。全てが、嘘なのである。だが、何となく、「そんな感じもしない訳でもない」とも思える。作者は、暑くてしかたがないのだろう。だから、「裏」という言葉に涼しさを求めた。
かたつむり世に無き地図を今ここに 加田由美
地図とは「地球表面の一部または全部を一定の割合で縮小し、記号・文字などを用いて平面上に表した図」とある。かたつむりが歩いたあとの模様のようなものを地図と見立て、「世に無き地図を今ここに」と見得を切ったのである。もちろん、かたつむりはひとより偉く神様と同等である。歩いたあとが地図になることはあたりまえのことなのである。
蓮の花福助人形二頭身 加田由美
蓮の花ほど美しい花はない。また、幸福を招き縁起のいい福助人形ほど愛されている人形はない。福助人形の由来、あるいはモデルがどうのこうのということはどうでもいいことなのである。二頭身であってもいいではないか。美しい蓮の花を愛で、福助人形を愛せば、それで十分、ひとは幸せに暮らしていけるのである。
理科室の鍵を返しに青葉木菟 加田由美
理科室の鍵を返しに職員室へ行く途中、廊下を歩いていたら青葉木菟が「ほっ、ほっ」と鳴いている。理科室には青葉木菟の剝製が飾られていたことを思い出す。その剝製が鳴きながら追いかけて来るのだと思った。理科室の鍵を返しに行くこと、青葉木菟が鳴いていることだけが事実である。だが、剝製は鳴かないと断定することは間違っていると思い直す。
追ひこさず追ひこされずに踊の輪 加田由美
輪の中で踊っているのである。追いこさず追いこされずに踊っているのである。だが、作者はどうしても追いこしたくなってしまったのである。この輪の中の誰もが、そう思っているのだと作者は気付いてしまったのだ。だから、作者は追いこされてなるものかと歯を食いしばって踊りの輪の中にいる。人生とは耐えることなのである。
点滴のぽこと終はりぬ牽牛花 鷲巣正徳
ぽことは聞こえたのではなく、ぽこと見えたのである。点滴の終る時は気になるものである。終りそうになる頃、看護師が速やかに来て取り換えてくれればいいのにと思ってしまう。何故か不安を覚えてしまうのだ。そんなこころの揺れに対して牽牛花の淡い色彩はふさわしいのである。
蟷螂の樋を登つて行くところ 鷲巣正徳
滑ることなく蟷螂は樋を登っていく。にんげんは、滑ると思うと、すぐに諦めてしまう。困難に立ち向かうことなど、真っ平御免だと思う。気楽な人生であることを願う。残業を拒み、汚い仕事を拒み、汗にまみれることを拒む。蟷螂には、にんげんと違って翅があるのだけれど。
秋めくことオルガンの鳴り止まぬこと 生駒大祐
秋めくことが人生なのである。オルガンの鳴り止まぬことも人生なのである。どこかでオルガンを弾いているひとがいる。一向に鳴り止む気配がない。オルガンを弾き続けているから秋めいてくるのである。オルガンを弾くことを止めたら、いつまでも夏なのである。オルガンを弾いているひとは何も知らずに移り行く季節を楽しむ。
オルガンのペダルなりけり秋の声 生駒大祐
オルガンで一番偉いのはペタルなのである。何故ならばペタルがそう思っているからである。蓋でもなければパイプでもない。ましては、鍵盤であるはずがない。耳はあらゆる秋の声を思い出として積み重ねていく。
仲良しの秋とオルガン何話す 生駒大祐
秋とオルガンは仲良しなのである。ふたりで話していることいえば小学唱歌のことである。秋は子どもたちに「あきのうた」を歌って欲しいと願う。秋はオルガンに「このうた」を弾いて欲しいと言う。すると、にんげんは「このうた」を弾きはじめる。にんげんは自分の意思で「このうた」を弾いているのだと思っているのだが、それは間違いなのである。にんげんは何も知らずに自分が決めたかのごとく「あきのうた」を弾いているのだ。
いることのまびわりかなし鬼やんま 田島健一
エリック・サティのメロディーが記憶からこぼれはじめる。ことばを外しているのだ。「まびわり」とは交わりのことなのだろうか。ひととひととが交わることは哀しいことなのである。鬼やんまも哀しいのである。どちらも孤独なのだから。大勢のひとたちに囲まれているときほど孤独を感じることはない。だが、一番興味のあることは、作者が、何故、ことばを外したくなったのかということなのだ。威風堂々と鬼やんまが目の前を通り過ぎる。
蜩は胴がブラウン管である 鴇田智哉
かなかなのこゑの数だけある画像 同
蜩の鳴き声を聞いていると蜩の容姿を思い浮かべるということなのである。つまり、蜩は鳴き声よりも容姿が肝要であり、鳴き声など二の次であるということなのだ。さらに、「こゑの数だけ」あるとは、鳴いている蜩の全ての画像があるということだ。ひとは、日常、それを見ることはできないが、現実には確かにそれは「有る」はずだ。
揚羽蝶からわらわらと紐が出て 鴇田智哉
揚羽蝶から一本の紐が出るのではなく「わらわら」と出るのである。破れ乱れてばらばらになった紐が出るのである。それでもそれは紐なのである。不思議なはなしなのである。不思議な揚羽蝶なのである。
『オルガン』2号 テーマ詠「超能力」
夕涼み暇だしUFOも呼ぼうよ 福田若之
夕刻、縁側で浴衣などを着て団扇を持ち寛いでいる。何もすることがない。話題も尽きた。「暇だしUFOも呼ぼうよ」と誰かが言う。この場合、未確認飛行物体というよりも異星人の乗る宇宙船。つまり、異星人も呼ぼうということなのである。人生について語り尽してしまったにんげんたちは、異星の「人生」について異星人の話を聞きたくなったのかも知れない。
『オルガン』1号 テーマ詠「芭蕉」
記された夢の桜が消えて在る 福田若之
芭蕉の「夢の桜」の作品が何であるのかは知らない。調べることもしない。だが、その芭蕉の桜は既に地上には存在していないのだ。墨で記されたものは千年以上も残る。だが、にんげんの記憶は数十年が限界なのである。もちろん肉体が滅べば魂も滅んでしまうと仮定した場合のはなしなのであるが。
耳は目を追いかけてゐる川に月 宮本佳世乃
川面に届いている月のひかりの音を聴こうとしているのである。「目は耳を追いかけている」という場合は、何かが先に聞こえて、その現象を目で確認しようとするとき、目も耳も追いかける必要のないときは、それが同時の場合なのである。
月のひかりの音を聴くことのできないのはにんげんだけなのかも知れない。野山に暮らす動物たちは月の出とともに月のひかりをしずかに聴きはじめるのである。月の夜の野山が異様に美しく感じるのはそのためなのである。
かなかなと油絵の具の混ざりたる 宮本佳世乃
耳と目が混ざっている状況ということなのだろう。鳴いているかなかなを見ているというならば日常である。油絵の具のなかにかなかなの鳴き声が沁み込んでいくのだ。ひとは、かなかなに命じられるままに画布に向かって、その油絵の具を使いかなかなを描く。もしかしたら、その状態のことを無心というのかも知れない。無心とはひと以外の何らかのちからにより操られていることをいうのかも知れない。
市場には林檎の赤の透けてをり 宮本佳世乃
林檎の季節なのである。林檎が好きなのである。市場では林檎の競りが行われている。美しさと美味しさは正比例する。林檎は林檎の赤が透けるほど美しいのである。林檎は林檎の赤が透けているように感じるほど美味しいのである。
そのうちに終り焦がれる花火かな 岡野泰輔
花火のはじまる前は待ち遠しく思う。はじまると、はやく終わらないかと思うようになる。勝手といえば勝手な感情だが、何となく微妙なひとの感情を突いているように思う。
定家忌のパンを焦がして待つをとこ 岡野泰輔
不器用なひとだと思う。来訪の時刻を見計らってパンを焼く。それを焦がしてしまう。それでも女はやって来ない。恋い焦がれている男にとっては、パンが焦げてしまうことなどどうでもいいことなのである。何故ならば、自分自身が焦げてしまっているのだから。
蜩や森に大きな鏡立て 岡野泰輔
蜩の鳴きしきる森に等身大の鏡を置く。鏡は自分を視るためのものなのである。自分の背後にあるものを視るためのものなのである。鏡に映さなければ見ることのできないものは世の中にいくらでもある。だから、誰もが鏡の世界に憧れるのだ。森の中では蜩が鳴いている。等身大の鏡とにんげんは、いつのまにか森と同化している。
「一日をていねいに生きれば、手を洗うことも詩である」西欧の詩人が言っている。ざわざわした日常の雑音や現象に惑わされることなく生きていられる老後のありがたさ。テレビや新聞は見るものの、次元が違うと思ってすぐ忘れる。そう、忘れても生活できるなら、楽しいことを考え、美しいものを見、素敵な音を聞いていたい。(『個人誌「GA」75号』「あとがき」秦夕美)こころに沁みるということは年の功のおかげなのかも知れない。確かに年には功がある。碌でもない人生の積み重ねであっても、それなりの「功」は蓄えられていくようだ。
娘が私に「最近、怒らなくなったね」と言った。「へえ、そうかい」と答える。しばらくの間、日本を離れる娘のために、自宅から歩いてすぐの道祖神に旅の安全を祈願する。家族水入らず、老妻とさんにんで暮らした一カ月のあいだは、ひとつの夏の思い出となる。
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