【週俳12月1月の俳句を読む】
光の進む角度
三木基史
シュワキマセリ水中のもの不可視なり 生駒大祐
小学生の頃、日曜学校に通っていた。通学路にカトリックの教会があって友達も何人かいたから、すんなりと受け入れられたのかも。あるとき、聖書のワンシーンを子どもたちだけで演じる劇があって、その配役が嫌で逃げ出してしまった。それから十年。苦い思い出のある教会で、二十歳の私は祖父の葬儀に参列していた。まだ祖父の身体は近くにあるけれど、そこに祖父はもういない。祖父の身体がなくなってからは、そこに祖父がいる気がしてならない。例えば、水に沈めたガラス瓶が光の屈折で見えなくなる全反射ように、祖父の肉体は滅びても確かにそこに祖父はいる。以来、クリスマスだけはミサに出ている。「もろびとこぞりて」は日曜学校の頃から耳馴染みのある讃美歌だが、今でも《シュワキマセリ(主は来ませり)》というフレーズの意味をよく理解しないまま、光の進む角度を狂わせてくれる呪文のように唱えている。私を心から愛してくれた祖父の姿を探すために。
襟立てて深海魚として街へ 青柳飛
雑踏は嫌い。でも、生きるために街へ向かう。できれば静かなところを深く潜るように歩きたい。都会の風のないところを。
枯園に捨てたる息の空へ空へ 小関菜都子
呼吸を意識する。同時にそれは「生」を意識する。冬枯れの庭園で私に捨てられた息が、私の体温を持ち去るように膨らみながら散らばって空へ。空へ。
冬晴れて未来のやうな無人島 中村安伸
人類が絶滅した後に残るものを豊かさというのだろうか。
幻の君に謝るくしやみかな 西生ゆかり
目の前に君がいるときは素直になれないだけなんだよ。分かってほしい。
脱ぎ捨てたものがかさこそ鳴っている 瀧村小奈生
意識の外に追いやろうとしたものから、意識せざるを得ないことが起こる驚き。
2017-02-12
【週俳12月1月の俳句を読む】光の進む角度 三木基史
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