2017-09-24

【週俳8月の俳句を読む】喩喩しい 大塚凱

【週俳8月の俳句を読む】
喩喩しい

大塚凱


毎年のことのように思うが、八月は喩が濃い。

殊に喩を感じたのは三宅桃子さんの作品「獏になり」。詩の言語そのものがあらゆる喩である、という捉え方はできるが、もっと単純な意味の、技巧としての喩で構成された10句である。喩に言葉を尽くしすぎるのは滑稽というか、逆説的、皮肉なことに感じられるので、簡潔に。

  爪を切るあいだ背中にある泉  三宅桃子

もろに隠喩。この比喩は、清潔だ。生命と泉の関係を見どころにしてしまっては陳腐そのものだが、この句の技巧は「あいだ背中」にある。爪を切り終えてしまったその「あいだ」以後に泉は消滅する。泉は、爪を切る意識そのものである一方で、しかしながら、背中が粘膜のように、爪を切る主体の意識と泉との臨界になっている。構成的な多重の喩。

  ひまわりやコップの下の水たまり  同

の「水たまり」や、

  獏になり氷菓を舌で受けとめる  同

の「獏」はシンプルな喩のパンチ。後者の句は、「受けとめる」が憎い。読み手によっては、上五に加わる下五のひねりでやや胃もたれするかもしれないが、下五の描写は感覚として獏という動物のゆるやかさ、その舌の動きのイメージと呼応しているので説得力がある。「読み手の志向」と「この書き手らしさ」は、それぞれが別の正義だと思っている。説得力さえあればいい。

  ろくろ目をなぞる指から秋の風  同

「ろくろ目」から立ち上がる回転体の像。それが指を媒介にして秋の風に転嫁されるような展開。秋の風は、なぞる風だ、と腑に落ちる一瞬に、言語野で再構成された世界を追体験する。

  豊年の真ん中犬の紐余る  同

「豊年」は概念であって実態ではないから「真ん中」という言葉は不適切だという(悪く言えば揚げ足取りに感じられてしまう)問題が、綿々とあると思う。でもきっと、「豊年」という季語から、すでに豊年として象徴される野畑の空間を既に嗅ぎとっているはずだろう。生活の季題で人間を指呼するような換喩と、パラレルな構造である。

 一方で、

  くちびるで風を送りし金魚かな  同

  宝物殿のような檸檬を手がえらぶ  同

は、イメージが飛びきれていない印象を受けた。

  花野の隅にオレンジ色の日付つく  同

「日付」がなにを訴えるのか、それともナンセンスさで勝負していくのか、もう少し手がかりが欲しいのが正直な読後。もしもこのオレンジ色が斜陽だと読めば理に堕ちる。花野から日付への展開は可能性を感じるが、この作風は基本的に喩の仕立て方の次第が句を左右する傾向にあるだろう。

喩の八月。殊に灼けつく地面と南中の静けさは、僕たちの歴史における深い意味を孕んでしまう。僕の目や耳や肌が知らない、“僕たち”の八月の意味。しかし、深い意味はさまざまな言葉に匿われ擬態するがゆえに、安易に使うことができてしまう。俳句においても、いくつかの定まった単語、とりわけ固有名詞を使えば、そのような意味を与えるのは簡単だ。そんな喩はつまらない。



第537号
岡田耕治 西瓜 10句 ≫読む
樫本由貴 緑陰 30句 ≫読む
三宅桃子 獏になり 10句 ≫読む
山口優夢 殴らねど 10句 ≫読む
矢野公雄 踊の輪 10句 ≫読む

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