2017-11-05

肉化するダコツ② 桔梗やまた雨かへす峠口 彌榮浩樹

肉化するダコツ②
桔梗やまた雨かへす峠口

彌榮浩樹



俳句について大切なことは、すべて蛇笏に教わった(やや大袈裟だが)。
それをめぐる、極私的考察の2回目です。

掲句。出会って20年ほど経つが、何度読んでも陶然としてしまう。
いわば、僕にとって<完璧>な一句、だ。

その、<完璧>という印象は、どこから来るのだろう?

あれこれ考えてみて、結局、それは、<かたち>の見事さによるものだ、という結論になる。
というか、この句に限らず、蛇笏の名句群の放つただならぬ香気の、その核とは、句のフォルム・立ち姿の見事さ、つまり俳句としての<かたち>の<完璧>さ、なのだ。

その典型的な一句、それが掲句である。

もちろん、俳句作品(文学作品、芸術作品)において、<なかみ>と<かたち>とは簡単に二分できるものではない。
俳句作品の<なかみ>とは、<かたち>込みの<なかみ>だろう(だから、散文的に「この句はこういうことを述べている」と語るだけでは俳句の鑑賞としてまったく不十分だ)し、俳句作品が、ひとつひとつ意味を持つ言葉でできている以上、<なかみ>抜きの<かたち>のみを論じることもできないはずだ。

しかし、蛇笏は・・・。
極論すれば、<なかみ>は何であっても、俳句の<かたち>によって俳句美を屹立させることができる(たいへんな極論だが)。
僕は、それを、蛇笏に教わった(勝手に学び取った)のである。

これを、俳句の<彫刻性>、と呼ぼう。

「~や~」「~かな」等の措辞を強いアクセントとする、五・七・五の言葉のかたまりの<かたち>。
そのフォルムの輪郭や言葉の圧の強弱が読者に向かって放つ、えもいわれぬ香気。

「俳句の音楽性」といった言い方が流布しているが、蛇笏の句の魅力を評するにはそぐわない。この強く美しい<かたち>は、音楽に喩えても評しきれない(舞踊に喩える、のは悪くないかも・・・。これは、また別の回に考えたい)。

一句ぜんたいの<かたち>が一挙に目に入りつつ、ひとつひとつの言葉を・文字をていねいになぞるとそこに、細部の<かたち>の描線の起伏・テンションの強弱、等のさまざまな味わいがある。それを味わう体験とは、まさに<彫刻>作品を味わうことに酷似したものだ。僕はそう感じる。

掲句について。

「桔梗(きちかう)や」
と、花の名のきゆっと引き締まった名辞を<や>で括り、
「また雨かへす峠口」
と、より大きな景へと展開し、天候の形容・地理的名辞で、しっかりと完結させる。

立ち上がってくるイメージは、桔梗の可憐な蒼さ・姿形と、鈍色の冷え冷えとした山国の景、の重なりだ。

この句が、絵画とか写真とかではなく<彫刻>を思わせる、その核になる措辞が、中七の「また雨かへす」である。
この「かへす」は、とんでもない措辞(キラーワード)だと思う。
怖い。
この怖さは、<彫刻>的な<完璧>な<かたち>の中に「かへす」が蔵されていることによる。(ゆるい句の中では、「かへす」という言葉が怖いなんて印象を与えるはずがない。)

パラフレーズしよう。
この句を、「また雨(が)(ひき)かへす」と解すこともできる。
が、それだと、〔~や・・・名詞〕という俳句の典型的な<かたち>の”G(重力)”によって最後の名詞「峠口」へ圧がかかる、という<彫刻>的な力学による美しさが、やや曇る。
ぱらぱらしすぎ、だ。

この句の中七・下五は、「また雨(を)かへす」と解して「峠口」を主体として(いわば擬人法的に)解したい。そう解することで、一句の<かたち>が<彫刻>的に安定して完結する。

だから、「雨(を)かへす峠口」なのだ。
これは、怖い。あえていえば、霊的な、ダークファンタジーな怖さ、と言えようか。
「峠口」という境界は、元来、人間にとって不気味でもある場所だろうが、それが、「雨(を)かへす」のだ。結果として、この「雨」さえも聖的でもあり禍々しくもある気配を帯びる。(個人的には、僕はずっと山国育ちで、高校へも原付バイクで峠を越えて毎日通っていたから、「峠口」には、青春の懐かしさをも感じるのだが、それでも、この句の「峠口」は怖い。“畏れ”を感じる)

そこに、「また」がかぶさる。この<圧>、<駄目押し>感。
このへんの濃厚さには、辟易する読者もいるだろうが、これが蛇笏の持ち味だし、この<濃さ>こそが僕自身にとっては、俳句の醍醐味なのである。
わずか十七音だからこそ、言葉・イメージを凝縮して、強い<かたち>をつくりあげなければならないのだ。蛇笏の句の<完璧>という印象は、こうした<かたち>の強度からくるものなのだろう。
そして、この「また」や「かへす」は、絵や写真にたとえられる静的な情景ではなく、輪郭や彫線に動きを蔵した<彫刻>的なイメージの造型、このために機能しているのだ。
(だから、俳句の「写生」も、絵ではなく、彫刻としてとらえるべきだ、と僕は感じているのだが、これは別の回で改めて考えてみたい)

あるいは、次のような可能性を考えてみる。

a 桔梗やまた雨かへす峠口
b 桔梗やまた雨かへる峠口

たった一字・一音の違いだが、フォルムの美しさ(そこから来る怖さ)には雲泥の差がある。
bは、たるい。「る」で句がゆるむ。
aの「す」の静謐さ・冷たさ・清楚さ、そして他動詞であることの「す」の怖さ(「峠口」が「雨」を「かへす」のだ、というファンタジックなイメージ)。
それが、寸分の狂いもない「桔梗や・・・峠口」という俳句の<かたち>として、<完璧>に立ち現れる。

蛇笏の句は、だからこそ、怖い、のだ。
それは、俳句の措辞の力学からくる、他の文芸にはない特有の怖さ、だ。
もちろん、怖がらせよう、と意図して創られた句ではない。しかし、じわっと怖い。
<完璧>な<かたち>、<彫刻>性のダイナミズムによる、怖さだ。

くろがねの秋の風鈴鳴りにけり

この名句も、同様のメカニズムによって成り立っている。
この句の「鳴りにけり」は、とんでもなく怖い。
でも、「風鈴」が「鳴りにけり」なんて、ごくごく平凡な措辞のはずなのだ。
それが、一句の<かたち>の<完璧>な<彫刻>性によって、
霊的な、怖さが立ち現れるのだ。

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