2017-12-17

【週俳11月の俳句を読む】八王子から 鈴木茂雄

【週俳11月の俳句を読む】
八王子から

鈴木茂雄


栗の秋八王子から出て来いよ  西村麒麟

俳句をいくつか同時に発表する際にタイトルを付けるが、その付け方にはふた通りのタイプがある。ひとつは、その作品の主題となる言葉をタイトルにする場合。いまひとつは作品の中から無作為に選んだ語彙や季語をタイトルにする場合である。

ざっと読んだ印象では、この「八王子」というタイトルは後者のようだ。ゆえに一読して引っ掛かったのは「八王子」ではなく冒頭の「栗の秋」。野菜や果物など他にもいろいろと豊富に出回っている季節なのに、なぜ「栗」なのかと立ち止まってしまう。

ひょっとしたら「信州の秋、栗の里」というようなニュースでも目にして、栗といえばこの友人のことが、というふうに八王子という街(「八王子」というと東京都の近郊しか思い浮かばない)に住んでいる友人のことが思い浮かんだのだろうか。

そうすると、友人の里などの栗を連想していることになるが、この散文的な文面から類推すると、「実りの秋、栗もたくさん採れた。ひさしぶりにうちに遊びに来いよ。」というふうにも読める。すると、この栗は作者の側にあるものということになる。

瑣末なことを詮索するようだが、俳句という短い詩形の中に置かれた言葉は、このように一語一語の意味を追うことになる。置かれた位置にも注視して想像することになる。一句の中心的存在となる季語となるとなおさらだ。「栗の秋」とは土地の名産品を賞でる言葉に他ならない。だとすると、これほど率直で分かりやすい挨拶句もないだろう。

林檎の実すれすれを行くバスに乗り  同

この句も極めて散文的だが、上句と中句の間に生じた切字によって、一句は辛うじて抒情的空間を形成する。「すれすれを行くバスに乗り」という情景描写には、林檎の木の枝の先にぶら下がっている「実」に、読者の目を釘づけにさせるデッサン力がある。葉ずれの音が聞こえる。林檎園の間を縫って走行するバスの様子が、鮮やかな映像として浮かび上がる。車窓を眺める作者の横顔まで見えてくるようだ。

我のゐる二階に気付く秋の人  同

最初、「八王子」十句に目を通して漠然とではあるが、この作者は季語派の人だと感じたが、そう確信したのはこの句に出会ったときである。俳句だから作品に季語を投入するのは当然だろうと言われるかもしれないが、そうではなく季語の扱い方にそう感じたと言おうとしている。かつて高柳重信はこう言った。

「早々と俳句に仕立てあげるために、常に一回かぎりの完璧な表現を指向する言葉の意志に逆らってまで、安易に季語を投入したり、強引に五七五の形を整えるようなことは、絶対に許されないのである。」『現代俳句案内』飯田龍太他(編)立風書房
揚句の「秋の人」という表現が安易だと言おうとしているのではない。このことを承知の上で作者の西村麒麟は、なぜ「安易に」と思えるほどのこと(「秋の人」という極めて俳句的ではあるが、散文では大いに違和感を覚える表現)をしたのか、ということについて考えようとしていたのだが、繰り返し読むうちに、その安易にと思えることをあえてしたのではないかというところに、解答を見出せるような気がしてきた。

それは作者が「表現を指向する言葉の意志」に従ったからに他ならなかったからではないか、ということだ。「春」でもなく、「夏」でもなく、ましてや「冬」でもない、「〜に気付く秋の人」とはそういう把握なのだろう。

一ページ又一ページ良夜かな  同

この「一ページ」には何が書いてあるのだろう。それより何のページなのだろう。本だろうか、日記だろうか、それともただのノートなのだろうか。なぜ「また」ではなく「又」という漢字を使ったのだろうと、ここでも引っ掛かる。固いというか、しっかりとページをめくるイメージから考えると、これは本に違いない。

ページをめくる、そしてつぎのページに移る。めくったページ自体が「良夜」のようなものなのだろうか、それとも本を開くと良夜になるのだろうか。いずれにせよ書物と呼ぶに相応しい堅牢な本が月光に浮かぶ。読書家にとっては至極の時間と空間、その感慨を「かな」で示す。

虫籠に住みて全く鳴かぬもの  同

「住みて」に引っ掛かる。なぜ「棲みて」ではなくて「住みて」なんだろうと、自分の漢字の選び方との相違に引っ掛かる。ここは「(人ではなく虫だから)棲みて」とすべきだろう、と。「全く鳴かぬもの」の「もの」ってなんだろう。いつもこういう読み方になる。なぜ、なぜ、と何回も読み直す。そうしているうちに自然に解(ほど)けて来る。むろん解けずに感覚だけ受け取ることもある。

この句の場合でいうと、虫籠で飼っていたら全く鳴かなくなった虫って一体どんな虫なんだろうと、まずは極めて散文的なところから入ろうとする。それでは俳句を読んだことにはならないか。もっと俳句的なことを考えよう。虫籠の中の闇と虫籠の外の闇、その中にあるものとその外にあるもの、住みて=生、全く鳴かぬもの=死、などなど、と。

秋の夜の重石再び樽の上  同

夕方、樽の中のものを取り出すために退けた「重石」。元に戻すのを忘れていたことを思い出して重い石を「再び樽の上」に戻した。その感触は深夜まで手のひらに残る。季語「秋の夜」は重石を再び樽の上に戻したあとの時間の長さ。

初冬や西でだらだら遊びたし  同

「西で」に引っ掛かる。「だらだら遊びたし」はよくわかる。なぜだらだら遊びたいのかはわからない。「初冬や」と切字に託した作者の感慨がわからない。なぜ初冬だとだらだら遊びたくなるのかという疑問。しかもなぜ西で、という疑問。疑問だらけ。疑問だらけだが、謎だらけとは違う。それぞれひとつひとつは引っ掛かるのに、一句全体を繰り返し読むとそれほど疑問に思わなくなる。それどころかなんとなくわかったような気分になってくるから不思議だ。

蟷螂は古き書物の如く枯れ  同

「枯蟷螂」という季語がある。少し長いが全文引用する。
初冬に褐色のカマキリを見かけることがあり、昔の人はこれを蟷螂も草木と同様に枯れて緑のものが変化したと考えた。しかし、カマキリには緑色と褐色のものがあり、途中から色が変わることはない。「蟷螂枯る」という季語は事実に反するが、季節感を感じさせる言葉として今も使われる。『合本 俳句歳時記』第四版
「古き書物のごとく枯れ」の枯れは、みずみずしさが失われてその機能が衰えることだが、「古き書物のごとく」の方はその「書物」の形状ではなく、乾燥してやがてその機能を保てなくなるであろう紙の質感を色彩で語ろうとしている。そして、そのように「枯れ」と、季語「枯蟷螂」そのものを詠む。「(この)季語は事実に反するが、季節感を感じさせる言葉」をあえて詠む、季語の人。

焚火して浮かび来るもの沈むもの  同

「焚火」というものを見かけなくなってどのぐらいになるだろう。地面にじかにする焚火はむろんのこと、いまではドラム缶の焚火も見かけなくなった。むかしは家の前でもよくやったものだが、揚句は地面にじかにする焚火を詠んだものだろう。火の勢いが強くなると、焚いているものがふわっと浮いて燃え上り、やがて燃え尽きたものは白々として沈んで行く。焚べるものを継ぎ足してはこれを繰り返す。この句もまた季語「焚火」の形態そのものを詠んだもの。

水洟やテレビの中を滝流れ  同

「水洟や」とくれば即座に思い浮かぶのは芥川龍之介の「鼻の先だけ暮れ残る」だが、この句で引っ掛かったのは「滝流れ」の個所。滝は垂直に落ちるものという固定観念が頭にあるものだから、最後の「流れ」で立ち止まってしまった。が、よく考えると、岩を伝って横に滑り落ちて行くような滝があった。それならよくわかる。

揚句は、風邪気味の作者が炬燵の中で寒そうな映像を視ているという、何の変哲もない日常のひとコマだが、次々に映像が流れる「テレビの中」で、なぜ作者は「滝流れ 」を捉えたのかという疑問は、「流れ」という疑問が氷解したことによって、そのまま「水洟」へとあと戻りする。切字「や」でいったん堰き止められた時間の勢いが一気に下の句まで流れ、今度は上の句ヘと戻ることを余儀なくされる。戻る力学がそこに働いているからだろう。


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