2017-12-17

煤払といえば我輩も猫である古狂歌の世 robin d. gill(敬愚)

煤払といえば我輩も猫である古狂歌の世

robin d. gill(敬愚)


紙袋あたまへ着せりや煤掃に跡ずさりしてふき回る猫

A paper bag pulled o’er her head, backing from the room,

our pussy hissed and swept about faster than a broom!*

破睡軒辻丸の1812以前の上方狂歌は、単なる描写。想像の目で見る以外に、現在ほとんど毎日ウエブに出くわす可笑しい猫のビデオと変わらない。脚韻をどう踏んでみても、シッと吹き=拭きの機知たる同音が無ければ、気違い猫に過ぎない英訳の負けだ。2018年は毎週あちこちでブログなど投稿して世に宣伝する「名歌にしたい無名歌」の仲間入りまでも甲斐ある狂歌ではなかろうが、たまたま猫の玉が人間も紙袋を鎧に替わって被った徳川の泰平を感謝していた初期江戸の「寄煤払祝」の狂歌の概念的なもじりにもなると思えば、それなりの自然傑作という評価もありうる。因みに、中期江戸にも蕪村の俳友と玉の俳文集『鶉衣』の著者也有(1702-83)にも「寄煤掃祝」の狂歌がある。

豊なる代にすみながら煤掃の今日は身一つ置所無し

In this affluent age, we enjoy a bounty of time & space,

but on Dusting Day, alas, an old man can find no place!

住みながらに煤と縁ある墨も連想するが、「今日は」を「きょうか」(今日が=狂歌)と掛けたくなる敬愚は悪いか。政治的な問題で狂歌の大田南畝が四方赤良としての活動を止めた間もなく、「鶉衣」を刊行したためか、後期江戸の狂歌集にも上記の祝いながら嘆く歌を再掲載した。一茶の句帖に似通った嘆きもあるが、記憶が正しければ老猫と松の本を避難所にしました。米を自分で植えないと罰が当たると自白した句が多かったくせに、煤払を遠慮なくさぼった。敬愚は煤払いに対する気持ちは複雑。工作舎に雇われた年年、大掃除に編集長まで参加する平等は、米国の不平等より高く評価したいが、歌ったり、或いは音楽と共に働く文化人類学で調べたら人間の常なるやり方を忘れて、沈黙の中で必死に肉体労働する事が最低しかも危ない。大掃除中、はじめて下背中がぎっこち腰になった。当の怪我ないし不調を終に直し、しかも防ぐ運動までも開発し発明できたから、長めに見て有難い体験になりましたが、読者諸君に牛の小便より長い道草を食わしては悪かった。

※英訳。「古狂歌」の四冊の本にある狂訳と上記のそれが少々異なる。原歌を読み直す度ごとに翻訳をやり直す。改良になりがちと思いたいが、他人の意見を聞かないと自信多少あるとも確信こそありません。 

※狂歌と俳句。現在は狂歌を諧謔、風刺、落首の類と見なされているから、俳句に携わる人の99%も食わず嫌いだ。芭蕉も愚に返る年まで生き長らえたら、宗長同様に見事の狂歌を詠んだはずです。老化しながら頭の働きというか遊びを保つがための薬で、作句も助かるぞ。週間俳句の読者諸君、please spread the word!  狂歌は本来俳人も好んで詠んだ、つまらない文学ではなかったし、天明の天才一人の異常現象でもなかった、誰でも楽しく接近できるジャンルだ。


  

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