【週俳12月の俳句を読む】
鯨といういきもの
三宅桃子
なんだろう、くじら。
鯨というものは生き物を超越しているような、感じがある。宇宙といったら鼻につくが、生態系をまるごと飲み込んでしまっているような。
雌雄を超えた、中性的な感じもある。はっきり、下手に、なににも、分類されない。
言っていそうで、なにも言わないニュアンスもある。
そんな鯨の句を、私も、幾度となく詠んでいる。
週俳12月の福田若之「パサージュの鯨」を読んだ。あ、くじらがテーマだ。
夢ながら罪深くへ下りる鯨 福田若之
夢をみている本人が罪の深くへ下りていくのか、それとも鯨か。良いも、悪いも、そこにただ「いる」という圧倒的な存在感には勝てない気がする。それは救いのようなものだ。それが鯨だ。
のぼせると鯨が背景に軋む 福田若之
のぼせたときの精神のありよう(半分天に召されていくような感覚)が、茫漠と鯨に託されているが、「軋む」の措辞に、ソリッドな実感がある。たとえばフラッシュバックのようなもの。わたしの後ろで軋む鯨を見ている、わたし。
ひとつではない無表情の鯨の再来 福田若之
鯨に神性を見るとしたら、無表情は必然のように思える。「ひとつではない」を個体の数ととらえると、畏ろしい。「再来」の意味をじっと考える。
太陽の廃液に打たれる鯨 福田若之
凪いだ海原。鯨の肌を打った太陽光が、そのまますべりおちていく。太陽の廃液。日々廃液を垂れる太陽。鯨を通して、太陽の息づかいを感じる。日々、確実に、死に向かっている。例外なく太陽も。
欲する眼やがて鯨が尾をひねる 福田若之
ニターっと笑ったような、いやらしい目をする瞬間の、くじらだ。くじらの俗っぽさ。
触れたそのそれらをではなくす鯨 福田若之
触れたら、その、それらが、では、なくなる。
触れたら、その、それらが、では、なくなる。
鯨はあらゆる境界をなくしてしまう。でも、そもそも境界自体、あるようでないようなものなんだろう。私たち人間も、外界からの影響を受けながら細胞単位で刻々と変化している。5分前の自分と、今の自分はちがう。確固たる境界線なんて、初めから無いのだろう。鯨はただそれを知っているだけだ。
鯨その心臓がまだ柔く動く 福田若之
「まだ」は、今現在を「まだ」といっているのだ。「まだ動いている」「まだ生きている」。私たちはいつでも、「まだ生きている」
刹那的なものを常に感じている作者だ。そうした感受性を普段は伏せて生きているから、作品を通してそうした作者のありように触れ、どきりとした。
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