2018-05-06

【週俳4月の俳句を読む】雑文書いて日が暮れて 瀬戸正洋

【週俳4月の俳句を読む】
雑文書いて日が暮れて

瀬戸正洋


余生なのである。隠しごとは何もないのである。一つを選択すればいいのである。間違ったと思えば、また他を選択すればいいのである。

余生とは、俳句のことだけを考える時間があるということなのである。

うたごゑの天の高きを組み上ぐる  吉川創揮

抽象的なものを組んで積み上げていくと言っている。抽象的なものとは、うたごゑのことなのである。地上から天まで積み上げられたうたごゑを、私たちは感じなければならないのである。だから、うたごゑの天の高きを積み上げていかなければならないのである。

冬晴に靴音届く自転かな  吉川創揮

暖かい日もあれば寒い日もある。おだやかに晴れて日差しのあたたかい冬の日は幸福であることを実感する。

これは、例えなのである。靴音がとどくのである。どこに届くのかといえば自転している大地に届くのである。つまり、地球に届くのである。不幸であると思った瞬間に、すべての回線は絶たれるということなのである。要するに、幸福であると思った瞬間に、すべての回線は自由に、どこへでも、生き生きと繋がっていくということなのである。

牡蠣啜る太陽吊りて薄き街  吉川創揮

太陽は昇るものではないと言っている。それも、薄っぺらな街に吊らされているに過ぎないのだと。街が薄っぺらになったのは牡蠣を啜ったからなのである。つまり、街とはにんげんによって、どうにでもなるのだと言っているのである。だからといって、にんげんは、正しく生きなければならないなどと思う必要はないのである。

闇つうと蛇の鼻腔を抜けて春  吉川創揮

鼻腔があるのかどうかは知らないが、蛇も呼吸はしているのだろう。だが、「蛇の鼻腔を抜けて」と書いてあるから「ある」ということにした。春とは複雑で変わっているのである。闇が蛇の鼻腔をつうと抜けるのである。作者は、精神的な、何かとんでもないことを経験したのだと思う。

蝶の脚たんぽぽの絮乱さずに  吉川創揮

蝶が飛んだあと、たんぽぽの絮が乱れたのである。それは、蝶の脚が触れたからなのかも知れないし、そうでないのかも知れない。だが、たんぽぽの絮が飛んだのは事実なのである。たんぽぽの絮が飛んだのは何故なのかなどと考えることは無意味なことなのである。たんぽぽの絮の意志によるものなのだということは、あたりまえのことなのである。蝶は、たんぽぽの絮のことなど考えず、自由に飛べばいいのである。たんぽぽの絮も、蝶のことなど無視して自由にとんでいけばいいのである。

かなしみの耳の熱しよ紫木蓮  吉川創揮

紫木蓮のはなびらは、紫色の靴べらなのである。靴べらのないときは、はなびらを取ってポケットに入ればいいのである。耳が熱くないときは悲しくないときなのである。そんなときは、耳を掻けばいいのである。耳を掻いてかなしみに浸ればいいのである。靴を履いて庭を散策する。風の強い日の、紫木蓮の花は、ことのほか美しいと思う。

春眠やあこがれて鳥降りてくる  吉川創揮

朝寝、昼寝、宵のうたた寝、春の眠りは、どれもがここちよいのである。「春眠暁を覚えず、処処啼鳥を聞く」となれば、これは、夜が明けたことも知らずに鳥のさえずりで目が覚めたとなる。春の明け方の鳥の囀りはすざまじいもので、まるで囀ることに、すべてを賭けているようでもある。明け方、庭木に鳥はあらそって降りてくる。鳥は、いったい何にあこがれているのだろう。

水菜食む遣唐使船すずしく朱  吉川創揮

水菜とはたよりなさそうな、存在感のうすいすがたをしている。旬は晩秋から冬にかけてであり、耐寒性がつよく、ビタミンA、C、カルシウムなどが多く含まれている。作者は、遣唐使船の朱色に、派遣者のいさぎよさ、清らかさ、すがすがしさを感じ、何となく水菜をイメージしたのかも知れないし、そうでないのかも知れない。

遣唐使の目的とは中国の先進的な技術や文化、ならびに仏教の経典等の収集、および、政治体制など統治システムの習得であった。

牛りんと匂ひ立ちたる桜かな  吉川創揮

広い大地と大空がある。牛や馬が放牧されている。満開のさくらの下、あたりは、さくらいろに輝いている。牛のすがたは凛としている。馬のすがたも凛としている。牧童たちも凛としている。さくらいろに染まった何もかもが凛としているのである。

割れて窓光なりけり燕  吉川創揮

燕の飛ぶさまは、たしかにひかりのようでもある。それは、窓硝子の割れたひかりなのである。それは、割れた窓硝子そのものなのである。すばやく、迷うことなく、低空を切るように飛ぶ、燕と割れた窓硝子。

ものの芽に足をとられてしまひけり  三輪小春

懸命に生きようとしている若者に足をとられてしまった。そんな老人の哀しみを「ものの芽」が象徴しているような、そんな気がした。老人も懸命に生きているのである。だが、社会の仕組みについていけない。新しい何かに挑戦することが億劫なのである。若者は決しておとしいれるために、老人の足を取ったわけではない。弾ける若さに老人は足を取られてしまったのである。

クレーンの何も摑まず初音とも  三輪小春

何も掴ませなかったのは、にんげんである。クレーンは試運転をしていたのかも知れない。視覚と聴覚との違いはあるが、試運転と初音とは同じようなものだと思ったのかも知れない。初音とは、虫や鳥類のその季節最初の鳴き声のことをいう。

振りむくとも振りむかぬとも蝶の息  三輪小春

野原を歩いていたら何かを感じた。振りむけば蝶が舞っている。これは、蝶の息なのかも知れないと思った。はじめての経験であった。気がつけば、そこかしこに蝶が舞っている。

何ゆえ、蝶の息に気ついてしまったのか考えている。

片方の肘より冷ゆる沈丁花  三輪小春

冷たさを感じるのは、いつも肘からなのである。ホームで電車を待っているとき、停留所でバスを待っているとき、片方の肘が冷えを感じたら、からだが全体が冷えていく合図なのである。

ぼうたんの散りぎは猫のゆき止り  三輪小春

ゆき止まりとは、一切の発展が望めない状態のことをいう。牡丹が今にも散ろうとするとき、猫は手詰まりであるということなのである。牡丹の散ろうとする気迫に押されて猫は身動きが取れなくなってしまったのである。こんなことは、私たちも、よく、経験することなのである。猫のうしろには牡丹の花が咲いている。

蝶の昼鏡の奥へ背をくるり  三輪小春

鏡に向かっていた蝶が反転した。鏡から離れていくということなのである。鏡から離れていく蝶が反転した。鏡に向かっていくということなのである。鏡を見ているのは蝶ではなくにんげんなのである。不思議なことと出会うのは真夜中ではなく昼間なのだ。にんげんが、動きまわっている昼間の方が不思議なことと出会う確率が高いのはあたりまえのことなのである。

シリアの子大き眼や春の星  三輪小春

七年目を迎えているシリアの内線。作者は「シリアの子大き眼」をどこかで見て作品に仕上げた。私は何も知らないし何も考えてはいない。そんな私がとやかく言うことではないと思うから何も言わない。ただ、かなしみの、そして、不安気な「眼」であることは何となく理解できる。誰もが、春の星に救いを求めているのだと思う。

にんげんの本質は「悪」だと思う。もちろん、私は「悪人」である。

塩充たす八十八夜の塩の瓶  三輪小春

塩の瓶に塩を補充したということなのである。それも八十八夜の塩の瓶にである。八十八夜とは立春から数えて八十八日目の日であり五月の初旬。気候の変わり目であり、生活の変わり目でもある。にんげんは、変わり目があるたびに再生したいと考え、新しい何かをする。時間は連続しているのだが、それでも何かの励みになると思い区切りをつける。

行く春の豆腐の角をくづさぬやう  三輪小春

豆腐の角は崩してはいけないのである。何があっても崩してはいけないのである。立秋であろうと立冬であろうと、もちろん、立春であろうと、豆腐の角は何があっても崩してはいけないのである。

ひきがへる鳴いて夕べの白き皿  三輪小春

テーブルのうえに白い皿が置いてある。どこかでひきがえるが鳴いている。庭に白い皿が置いてある。どこかでひきがえるが鳴いている。どれも日暮れの光景なのである。

だが、ひきがえるには何かが宿っているのだと思う。ひきがえるの鳴き声を聴きながら、今までの何もかもを、反省しなければならない。ひきがえるの鳴き声は、深く、そして、低い。

転んでしまった。いちどは、道路につま先が引っかかり、にどめは、酔っぱらって平衡感覚を失い。そのたびに、からだは宙に浮き、アスファルトのうえに落ちる。足の筋力が落ちてつま先が上がらなくなるから転ぶのである。たった、数センチ上がらないために、膝をすりむき、肘をすりむき、一週間ていど、からだじゅうのあちこちが痛む。

足を上げて、胸を張って、歩くことは、老人には疲れるのである。



【対象作品】
三輪小春 行く春 10句 ≫読む

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