2018-06-03

肉化するダコツ⑨ 死火山の膚つめたくて草いちご 彌榮浩樹

肉化するダコツ⑨
死火山の膚つめたくて草いちご

彌榮浩樹



蛇笏の句からしゃぶりとる、俳句が俳句であるための秘密。
それをめぐる極私的考察、その9回目。

初めてこの句に出逢った時に感じた”初々しい可憐さ”は、二十年経った今も、まったく色褪せていない。こんなリリカルさもまた、蛇笏の句の魅力の一つだ。

この句から学びたいポイントは、いくつかある。

まずは、「死火山」と「草いちご」との、色・大きさ・質感の、対照。

さらに、「膚」という表現。
「山肌」という言い方もあるように、地表を「膚」と表わすのは珍しくはない。けれど、この句では「膚」が「つめたくて」の体感と組み合わされることで、常套句を超えて、「膚」にいのちが通う感じまで与えている。しかし(しかも)、それはすでに「死」んでいるのだ。だから、「つめたくて」に納得するのだが、総合的に「死火山の膚つめたくて」には、「膚=生」を核とする「死→生→死」の起伏・屈折があり、単なる地形の描写ではない、霊性さえ感じさせる措辞になっている。

そして、何といっても、この句のキモなのは、「て」の可憐さである。
この句の、とりわけ「て」の甘酸っぱさには、何度読んでも悶絶しそうになる。これまで無数の作家によって生み出された無数の俳句作品、その中の無数の「て」の中で、この「て」こそが最も可憐な「て」だ、と僕は思っている。

いつものようにヴァリエーションを検討してみよう。

a 死火山の膚のつめたき草いちご
b 死火山の膚つめたくも草いちご
c 死火山のつめたき膚よ草いちご
d 草いちご死火山の膚つめたくて
e 死火山の膚つめたくて草いちご (掲句)

ざっくり言えば、句の意味内容・立ち上がる映像イメージは、どれもほとんど変わらない。しかし、原句eの可憐さ・リリカルさは、a~dのどれにもない。(あえて言えば、aが次点だろうか、でも、eにははるかに及ばない)。この印象の差は、どこから生じるのだろうか。

dとeの違いは、わかりやすい。
僕たちがdを読む時、まず「草いちご」のイメージが立ち上がる。そこに「死火山の膚つめたくて」のイメージが続き、それを無理に前者のイメージの背景として置くことになる。この、近景→背景(?)の読み取り・イメージ構成の操作には、かなり無理がある。そうした風景構成の段取りの悪さが、「つめたくて」の「て」の気品を削ぐ。ベチャッとした下品さ・投げやりさ、さえ感じさせる。
対照的に、原句eは、「死火山の(遠景・大景・背景)」→「膚つめたくて(中景・やや接近・体感)」→「草いちご(近景・接近・詳細)」と、僕たちが読みながら自然にイメージのドラマを体感できる、有機的な順序になっている。
しかも、「死火山の膚つめたくて」という「死→生→死」の起伏を帯びた魅力的な描写がまずあるために、それにつづく「草いちご」のイメージがいっそう魅力的な輝きを帯びつつ立ち上がるのだ。(Jポップの<Aメロ→Bメロ→サビ>の構成にも似て)。

しかし、a~cとeとの印象の差異は、上記のようには説明できない。「死火山→膚つめたい→草いちご」というイメージ形成の順序は、a~cもeも同じなのだから。
eとa~cの差異は、「て」の<順接関係の明示>の有無、という意味理解の次元にもあるだろうが、最終的には「の有無から生じるのだ、と僕は考える。つまり、原句eは「の響き触感によって可憐さが匂い立つのだ、と。

音声学に〈音象徴〉という概念がある。俳句の秘密を探るためにたいへん重要な概念だ。例えば「あ」音と「い」音には印象の「大」「小」の違いがあり、「ゴジラ」と「コシラ」には迫力の「強」「弱」の違いがある。そうした〈音象徴=音の印象によるイメージの違い〉は、その音を発する際の、口の開き方や舌・喉の使い方という肉体の動きの感覚の反映だ。「あ」は口蓋を大きく開けるが「い」は小さい。濁音の発音の際は、清音にくらべて口蓋に負担がかかる、その苦労・面倒が、濁音の「強さ」「濁り」「凶悪」等のイメージを生むのだ。

「て」の子音「t」は、破裂音&舌頂音であるために(共鳴音&鼻音のn音・m音等の柔らかさに比べて)硬質であるが、しかも(破裂音&舌背音のk音に比べると)接触感もある。だから、俳句の「て」は、前後の時空をそれぞれ確かに纏めつつ、そこで断絶はしない触れ合いの余韻を感じさせる。また、「て」の母音「e」は、口を大きく開く「a」「o」でも口を小さく開く「i」「u」でもないニュートラルな発声だが、「e」の発音の際には舌が前に出る(ここはiに近い)ために、空間的な狭さ、接近感をもイメージさせる。
eの「て」止めは、こうした「て=te」の発音の際の肉体感覚が、イメージの空間的形象化に寄与している。結果的に、「草いちご」と「死火山の膚つめたく」とが、それぞれ別個の存在でありながら触れあってもいる、その“清潔なもたれかかり”とでもいうべき感触が、この「て」の切ない甘さ・可憐さとして感じられるのだろう。

十七音全体では、「シカザン・ノ・ハダ」と「クサイチゴ」とは、(対照的な映像イメージに反して)近しい音の響き(カ行音・サ行音・濁音)だ。それを、「ツメタクテ」という澄ました硬質なクールな響きが繫ぐ、その音韻の起伏の快感。この「て」は、その後の「草いちご」の可憐さを引き立てる<ツンデレ」とでも称すべき「て」でもある。

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