2018-06-03

【週俳5月の俳句を読む】雑文書いて日が暮れてⅡ 瀬戸正洋

【週俳5月の俳句を読む】
雑文書いて日が暮れてⅡ

瀬戸正洋


私の住むところは、住居表示でいえば「山田」である。山村の水田のあるところといったところなのだろう。散歩をすると「あまい」とか「にがい」とまではわからないが水の匂いがする。田に水を張ったからなのである。都会の子どもたちが観光バスに乗って田植えにやって来たりもする。

たまに、蛍が庭やへやの中にまでまぎれ込んでくることもある。六月になると蛍はいなくなる。農薬を散布するからだと思っていたが、他の理由があるからなのかも知れない。

お寺の鐘が鳴っている。「鐘を撞く時刻は決まっているのですか」と尋ねたことがあった。「日が暮れてからら撞くのです」と言われた。六十数年間、暮らしていて、はじめて、そのことを知った。

砂漠より怒聲と悲鳴花の闇  小山森生

どこにでも闇はあるのである。雪月花の代表であり花の主役でもある桜であっても、確かに闇はあるのである。それは、怒聲だけでは気付くことはできない。悲鳴だけでも気付くことはできない。砂漠からの怒聲と悲鳴が同時に聴こえてはじめて、さらに、その理由を考えなければ気付くことはできないのである。

そこにまた別の椿がひたと落つ  小山森生

椿の花を見ていたら突然そのなかのひとつが落ちた。椿の花の重さを感じた。そのとき椿のことを知ったのである。落ちるまえの花の美しさについて、落ちたあとの花の美しさについて。さらに、葉の美しさについて。何故、公園のベンチに老人がひとり座っているのかについて。

落椿重なり浅川マキ歌ふ  小山森生

とある街の男と女……。椿の花うえに椿の花が落ちる。あなたのうえにあなたが落ちる。にんげんのうえににんげんが落ちる。浅川マキのうえに浅川マキが落ちる。てのひらには、ぺらぺらの切符が二枚。

何故、夜が明けるのをひとりで待たなければならないのかについて考えなければならない。

金雀枝を斷つや波郷の肉と骨  小山森生

波郷に「金雀枝や基督に擁かるゝと思へ」がある。金雀枝から波郷は何かを感じたのである。金雀枝から作者は波郷の感じた何かを理解したのである。それには、金雀枝を断たなければならないのである。故に、波郷の肉と骨とは肉体のはなしではなく精神のはなしなのである。

浮氣女のやうに葉櫻の下をゆく  小山森生

男も女も誰も彼もが浮氣女なのである。つまり、誰もが浮氣女になれる可能性を持っているということなのである。もちろん、浮いてはいけないのである。浮かないことは正しいことなのである。だから、浮氣女であることも正しいことなのである。

蒲公英がそんなつもりはないと言ふ  小山森生

何故、誰もが誤解するのだろう。いくら説明しても解ってくれない。感情の問題だからというだけではないのである。わずかな「ずれ」から始まったものなのかも知れない。そのわずかな「ずれ」の原因について考えることを拒否したからなのかも知れない。野に咲く蒲公英のすべてが「そんなつもりはない」と言いはじめたら、にんげんは困ってしまうのである。

庖丁を差せし扉を閉づ立夏かな  小山森生

シンクの下の扉を閉じたのである。食器洗い機から包丁を取り出し片付けたのである。立夏といえばゴールデンウイークのころ。

休みも終わるのだから仕事をはじめようとする意欲が感じられる。夏を迎えようとする決意のようなものも感じられる。

枯死の枝を銜へ折る鳩夏霞  小山森生

枯れた枝を無造作に銜えている鳩がいる。その枝は鳩が折ったかのようにも思える。

単線の駅前広場である。バスの停留所があり、赤いポストがある。夏のはじめのころ、遠くの川も山も霞んでいる。赤い車がやって来てポストから郵便物を取り出す。いつの間にか鳩はいなくなり、ホームには上りの各駅停車が停まっている。

凹む日は毛蟲に道を横切らる  小山森生

毛蟲は嫌いだと言っている。何か不快なことのあった日は必ずといったように毛蟲が目のまえに現れる。愛するもの、好きなものが現れて欲しいのだが、嫌いなものばかりが目についてしまうのだ。横切っている毛蟲に対して「ポジティブに生きたいんだ」などと呟いたりしている。

(グェン)さんが舌を出すから五月晴  小山森生

舌を出した理由を考えている。馬鹿にしているのか。それとも、照れかくしなのか。それは、作者のように、阮さんのように、五月晴れの下で、舌を出してみなければわからないのである。

山宿は二階が良けれ夕河鹿  広渡敬雄

鄙びた温泉宿だったのかも知れない。宿の前には川が流れている。温泉に入りタオルを干す。窓を開けると、まだ、外は明るく耳を澄ませば河鹿の声が聞こえるたまたま、通された部屋は二階であったのだ。

これが二階でなくとも、このひとならば「良けれ」とすると思う。そのような人生を送っているひとだと思う。

軽暖や刺身蒟蒻うすみどり  広渡敬雄

すこし暖かくなってきたころのことである。宿の夕食に酢味噌で和えた刺身蒟蒻がでている。箸休めといったところか。うすみどりいろとしたことからも寒さが緩んできたことが感じられる。

旅も終わり日常の生活に戻る。ある日の夕食に、酢味噌で和えた刺身蒟蒻がでてきた。そのうすみどりから、一段と春めいてきたことを感じるのである。

雪折の笹踏んでゆく山女釣  広渡敬雄

天然ものの山女の旬は三月から四月頃だという。渓流に向かうために雪折の笹を踏みながら歩くのである。足腰はおぼつかなく老いたなと思う。だが、山女を釣るという楽しみがあるからこそ、渓流までの道なき道を歩くことに耐えられるのである。宿にもどれば囲炉裏で暖を取り熱燗で一杯という楽しみも待っている。

膨らんで来し山肌や峯桜  広渡敬雄

山のいただきから眺めている。春になると草木は芽吹き山肌がいきもののように膨らんでくる。山のいただきとは神聖な場所なのである。満開の桜は花ふぶきとなり下へ下へと舞い降りていく。

鹿の子も続いて沢を渡りけり  広渡敬雄

私の暮らす集落では、鹿、猪、猿、狸、ハクビシン等を見かけるようになった。まだ、熊を見かけたという話は聞かない。農作物を荒らすので駆除しなければならないのだが、原因を考えれば自業自得ということなのかも知れない。

鹿の親子連れが沢を渡っている風景を遠くから眺めている。旅人にとって鹿とは、益も害もない関係である。他人とは、このような付き合い方をしたいと思う。深く付き合うのは妻と子だけで十分だと思う。

木苺を含みつザック締め直す  広渡敬雄

途中で摘んだ木苺を口に含み小憩をしている。急に出発することになった。あわててザックの紐を締め直す。口中には木苺の甘酸っぱさが残っている。

子どものころ木苺に蟻がたかっているのに気付かず夢中で食べた記憶がある。口のまわりの蟻は指ではらい、口中の蟻は唾を吐いただけ。あとは、そのまま、家まで走って帰ったのであった。

源流を辿り雪渓壁をなす  広渡敬雄

源流を探し求めながら歩いている。渓谷は積雪で覆われ源流を見つけることができない。この作品のタイトルは「源流」ではなく「雪渓」である。作者は、真理よりもそれを遮るものが何であるのかについて興味があるのである。

雷鳥の潜る這松霧雫く  広渡敬雄

這松とは高山、あるいは、寒冷地に自生し、樹形は地を這うという独特なものである。雷鳥とは這松と同じく高山、あるいは寒冷地に生息し、冬は標高の低い森林帯に入ることもあるという。

作者は、這松に触れながら歩いている。這松に触れながら霧のなかを歩いている。雷鳥の鳴き声を聞きながら霧のなかを歩いている。

ケルンより離れて低き遭難碑  広渡敬雄

ケルンとは石を円錐形に積み道標としたものである。また、遭難地点に慰霊碑として作られる場合もあるという。

この場合のケルンとは慰霊碑であり個人的なものだと思う。遭難碑より離れて高いところに石が積み上げられている。恋人が積み上げたものなのだろうか。あるいは、両親が積み上げたものかも知れない。

雲海に朱の一点や右に富士  広渡敬雄

雲海の先、それも遠く右の果てに富士山が見える。雲海のなかに朱色の何かが見えた。富士山は誰もが視ることができる。朱の一点は、作者にしか見えないものなのである。朱の一点とは、まぼろしだったのか。それとも、作者にとっては、おろそかにできない現実であったのか。

指先に蝶お尻には蒙古斑  藤田亜未

かわいくてしかたがないのだろう。蝶に触れている子どもがいる。そのしぐさがかわいいのだ。その子のお尻には蒙古斑がある。もちろん、蒙古斑もかわいい。その青黒いあざはおとなになるにつれて消えていく。この幸せは、消えることなく、永遠に続いていって欲しいと願っているのだ。

スノーフレーク風に名前を尋ねたり  藤田亜未

スノーフレークの花は下を向いている。その白い花がうつむきながら、風に名前を尋ねたのである。スノーフレークの花言葉は、「汚れなき心」「純粋」である。スノーフレークとは子どものことなのである。風も子どものことなのである。幼い子ども同士の会話を、すこし離れたベンチに腰掛けて聞いている母親がいる。

お早うもお休みも風に言う五月  藤田亜未

言葉を覚えたのである。だから、誰に言うでもなく言葉に対して、自分自身に対して、繰り返し言っているのだ。開け放たれた窓からは五月の風が入ってくる。夏のはじめのさわやかな風に向かって「お早う」「お休み」と言う。子どもの成長をながめることは、このうえなく楽しいものなのである。

小手鞠に風は囁く『お腹空いた!』  藤田亜未

『お腹空いた!』と言うのではない。囁くのである。それも、小手鞠に向かって風が囁くのである。これは、母と子の夕方の風景なのである。日が暮れれば、誰もがお腹が空いてくる。もちろん、日が暮れれば、小手鞠も風もお腹が空いてくるのである。

若葉風乗せて走りぬサイドカー  藤田亜未

若葉のころ、サイドカーが通り過ぎる。サイドカーには誰も乗ってはいない。誰かを送りとどけた帰りなのかも知れない。乗っているのは若葉の神さまに違いない。風の神さまに違いない。だから、若葉のころのサイドカーは慎重に走らせなければならないのである。

大粒の涙とあくび花は葉に  藤田亜未

子どもが泣き止んでほっとした気持ちと、泣いている顔をもっと見たかったという気持ちとが交錯しているのだ。それは「花は葉に」からも理解できるだろう。子どもが大泣きをしたのである。そして、泣き疲れたあとにおおきなあくびをひとつしたのである。

じゃんけんは三回勝負風光る  藤田亜未

子どもと接する場合は常識を基準とすることがふさわしい気がする。一回勝負は忙しない。五回や六回の勝負だと緊張感が薄れる。母と子のじゃんけんあそびをする場所は、ベランダか、庭か、それとも、公園か。母と子にあかるい日差しが降り注いでいる。

だるまさんが転んだ綿毛風に乗る  藤田亜未

「だるまさんが転んだ」とは、そのような掛け声を出してする遊びである。

たんぽぽの綿毛が風に乗っていっせいに舞い上がる。そんな中で、子どもたちは、「だるまさんが転んだ」遊びをするのである。いつの間にか、子どもたちも、たんぽぽの綿毛となり風に乗っていっせいに舞い上がるのである。

絵描き歌思い出せずに金魚玉  藤田亜未

ひとの名まえとか、歌詞とか、思い出せないことは多々ある。そんなときは、最後まで思い出そうと努力しなければならない。絵描き歌は、視覚、聴覚の二方向から思い出すことができるので、容易いことのように思うが、そうでもないらしい。

金魚玉では金魚が気持ちよさそうに泳いでいる。ひとは金魚になるために絵描き歌を思い出さなければならないのである。

手遊びはおしまいまたね天道虫  藤田亜未

天道虫は、その名のとおり太陽に向かって飛んでいくのである。あんな小さな虫なのに勇敢なものなのである。手遊びが終わったあと「またね」という。そのとき、天道虫は飛んでいったのである。それも、ふらふらと飛んでいったのである。とても、太陽に向かって飛んでいったとは思えなかったのである。

くちばしに愛嬌の草夏の鴨  川嶋一美

鵙のはやにえを見たことがある。畑の栗の枝に昆虫が刺さっていた。五十センチくらいの高さだった。「こんなに雪が積もったら困る」などと思ったりしたが、そこまでは積もらなかった。

動物食である鵙がくちばしに草を銜えているのを見たときに「おや」と思ったのである。それを鵙の愛嬌であるとした。おだやかな心もちだったのだと思う。だから、そのとき、愛嬌ということばが浮かんだのだと思う。

不安のある暮しであっても、怒りを覚えることがあっても、おだやかな生活を送りたいと思う。

弟に怒られてゐる天瓜粉  川嶋一美

弟が兄に対して何かを言っている。それがあたかも弟が兄を叱っているように思えた。弟も兄も裸で天瓜粉まみれなのである。

数十年のち、弟が兄に対して何かを言っている。弟が兄を叱っているのだ。弟も兄も裸であることを捨てた。天瓜粉は、どこにも存在していない。

みどりごの天上天下素つ裸  川嶋一美

生れてまもないこどもは素っ裸であるということを、天上天下という大げさなことばを使い表現している。よく考えてみればあたりまえのことなのである。少年も青年も中年も老年も服を着ていることは間違っているのである。忘れてはいけない。誰も彼もが、天上天下、素っ裸なのである。

台ふきん固く絞れば夏うぐひす  川嶋一美

春よりも夏に、うぐいすの声を多く聞くようになった。うぐいすも熊や猪と同じように山から里に下りて来たのだろう。食事も終わり、後片付けも終わり、台ふきんを固く絞る。やれやれと思ったとき、うぐいすの声に気付いたのである。あとは、台ふきんを干せばいいのである。

そら豆のその青ほどの祝ひごと  川嶋一美

そら豆を家族で食べることの幸せ、祝いごととは、その青さほどのことだとしたのだ。その青さほどのこと。それで十分であるということなのだ。

だが、そら豆はゆでても焼いても青ではなく「みどりいろ」なのである。だが、「青」であっても違和感がないことが面白い。「信号」とか「葉」とか、生活の中にも、そのようなことはよくあることなのである。

小満や木はそれぞれの白咲かせ  川嶋一美

小満といえば、ちょうど今頃の季節。そういえば、白い花が、そこここに咲いている。それにしても「それぞれ」とはいい言葉である。特別でなくてもいいのである。誰もが自身の白い花を人知れず、こころのなかに咲かせばいいのである。

線描の猫のねむりやソーダ水  川嶋一美

ソーダ水といえば数十年前は歌詞にも書かれたほどの洒落た飲みものであった。それが、現在だと、ずいぶんとマイナーな飲みものになってしまった。だから、観光地のレストランなのである。

とあるレストランの壁に猫の画が飾られている。客はひとり、ソーダ―水を注文する。マスターは窓の外をながめている。うたた寝をしていた猫は、ひと鳴きすると起き上がり、額の線描の猫の中へと戻っていく。ソーダ水の泡はストローにはじけている。

琉金の鈴鳴るやうに寄りきたる  川嶋一美

琉金のすがたから鈴をイメージした。ひとが近付くと餌がもらえるのだと思い琉金は寄ってくる。その様子から鈴鳴るようにという言葉が浮かんだのだ。作者の視覚は聴覚を刺激したのである。そのとき、確かに、作者は鈴の音を聴いたのであった。

揺り椅子の揺れのこりゐる柚子の花  川嶋一美

柚子は単独に植えてあることが多い。柚子畑で柚子を収穫するなどということはあまり聞いたことがない。この柚子の木も庭に植えられたものだと思う。

柚子はしっかりとした棘を持ち、白く清楚な花を咲かせる。揺り椅子というものは揺らせて座るためのものではない。前と後ろに揺れる気配を楽しみながら座るものなのである。座るひとのわずかな動きにより、たまたま、前と後ろに揺れてしまうものなのである。柚子の花言葉は「恋のため息」である。

父の日やビニールハウス蒼く暮れ  川嶋一美

父の日は、母の日に比べてマイナーな感じがする。父の日を祝ってくれるのは、娘ではなく嫁の方なのかも知れない。嫁のうしろには息子が隠れている。また、「蒼」には何か弱々しいような負のイメージがある。

だが、一家を支えているのは父なのである。父の複雑なこころの動きを、蒼く暮れていくビニールハウスが象徴しているのかも知れない。

山のお寺では住職が鐘を撞きはじめた。


小山森生 浮氣女のやうに 10句 ≫読む
第577号 2018年5月13日
広渡敬雄 雪渓 10句 ≫読む
第578号 2018年5月20日
藤田亜未 風に乗る 10句 ≫読む
第579号 2018年5月27日
川嶋一美 蒼く 10句 ≫読む

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