【週俳6月の俳句を読む】
雑文書いて日が暮れてⅢ
瀬戸正洋
関東甲信越地方が6月に梅雨明けするのは初めてのことだという。台風7号が沖縄本島地方にかなり接近しているとテレビのニュースは報じている。(7月2日現在)
ゴミを出すために外へ出たらすっかり真夏の太陽になっていた。まだ、鶯は鳴いている。蝉の声は聞かない。
絶頂へ叫ぶボーカル夏立てり 浅川芳直
風も空も夏に向かって気持ちの整理をするころ、野外ステージでは、歌い手が声のかぎりに叫んでいる。歌い手は、自分のことしか考えていないのである。他人のことを考えることは堕落であると信じて疑わない健全な精神の持ち主なのである。
数十年後、この歌い手は、あいかわらず自分自身のため声のかぎりに叫んでいる。大衆は、円熟味を増した歌唱であるなどと訳のわからぬことを言う。数十年前と何も変わっていないことなど気付こうともしない。歌い手は孤独なのである。
ひと雨の予感に栃の花が降る 浅川芳直
どんなことでも肯定的に考えるひとがいる。どんなことでも否定的に考えるひとがいる。どちらのひとも、自分自身で、折り合いをつけて右に行くか左に行くかを決める。
「予感」とは、前もってなにかを感じることである。つまり、経験がものをいうのだ。ポジティブに考えるか、ネガティブに考えるかで「予感」は変わっていくのだ。
栃の花が降ることは単なる自然現象である。ただ、それだけのことなのである。
あめつちの爆発を見き昼寝覚 浅川芳直
全世界は爆発した。昼寝覚とあるから「夢」を見たのである。「夢」とは、現実ではないということである。「夢」とは、現実にはとどいていないなにかに、少しでも近づきたいと願うことである。
眼を逸らすことなく自分自身を見詰れば、全世界が滅ぶこと。それは、悪夢でもなければ凶夢でもない。当然の結末であることは自明の理なのである。
夏蝶へ潮騒とどく墓地のあと 浅川芳直
こんなことに出会ったことがあった。
親戚とのもめ事に嫌気がさしたのだろうか、誰にも相談をせずに墓を動かしたのである。年忌法要で集まった親族が影も形もなくなった墓の前で大騒ぎをしていた。施主から何の知らせもなかったが、お彼岸だから、とりあえず集まってみた。そんな感じであった。
海が見える。霊は夏蝶となり、ひらひらと飛んでいる。夏蝶のまえでは、施主の悪口を言わない方がいいと思う。
俊敏にうねる毛虫を犬不機嫌 浅川芳直
俊敏とは、頭のはたらき、行動がすばやいことである。うねるとは、おおきくゆるやかにという意味がある。つまり、この毛虫は天才なのである。天才を見ていた犬は不機嫌になった。あたりまえの感情だと思う。
凡人は凡人どうし傷を舐めあっていた方がいい。あるいは、ひとりで空を眺めていた方がいい。
夕焼の高台椅子の軋む音 浅川芳直
夕焼けのなかにいるのである。そこから、街が見渡されるのかも知れない。あるいは、村が見渡されるのかも知れない。
それは、安ものの背もたれのギシギシする椅子で、事務所で使われなくなったものが置いてあるのだ。座るひとも椅子も世の中から不要の烙印を押されている。
軋む音は、唯一、椅子の存在を主張し、その音を聞いた誰もが、不快な気持ちになるのである。
夕焼けのなかにいるのである。作者は自分自身を見詰めているのである。
死の話少しだけして冷素麺 浅川芳直
自分が死ぬ話である。誰もが、避けて通りたい話である。なぜならば、誰もが真剣に生きていないから。生きることから逃げ出したいと思うくらい真剣に生きていないから。そんな私たちにとっては、すこし話すくらいがちょうどいいのかも知れない。生きるために、冷やした素麺を、冷たい付け汁で食べる。おいしく食べるために、冷やした素麺を、冷たい付け汁で食べる。
田を闇に沈め一軒灯涼し 浅川芳直
灯がともされるころ涼しさを感じる。昼間の暑さから解放される。闇のなかに、田も、なにもかも沈んでいく。田は、その存在を消したのだ。解放されたのである。忘れることは大切なことなのである。
県道がある。県道に沿って川が流れている。その集落には、田があり、一軒の灯の点った家がある。
夏暁の渇きクリーム色の壁 浅川芳直
蜩が鳴いている。明け方は清々しい気持ちになる。心から余計なものが取りのぞかれたとき、自分の欲しているものに気付く。目の前には壁がある。クリーム色の壁がある。その壁を乗り越えるのか、避けるのか、引き返すのか、誰もが自由なのである。クリーム色の壁のまえ、どうするのかを考えればいいのだ。
捩花やバスが来ぬなら歩きだす 浅川芳直
公園や土手でよく見かける花である。このバスは、集落をつなぐような、日に数本しか運行するのではなく、日に何本も運行する都市を循環しているものなのである。バスを待つか、あきらめて歩くか、気楽に決断できるということなのである。捩花を見ていると歩き出したくなるような気がしないでもない。
みひらいてしづかにはづす花の枷 佐々木紺
誰もが持っている花に対する思い入れを「枷」といっている。それは、正しいのか間違っているのかはよくわからない。誰もがそうだからといって安心することなく疑問に思うことは間違ってはいない。日本人にとって「花」とは歴史のことである。少しでも、束縛されていると思えば反発すればいいし、それが間違いだと気づいたら自由に撤回すればいいのだ。故に、「みひらいて」「しづかに」という態度は正しいと思う。
少女また王子に変はり青葉騒 佐々木紺
読み手である少女はものがたりの世界にどんどん引き込まれていく。王子とは主人公であり、ものがたりの作者のことでもある。ひとりの読み手が、あるときは、ものがたりの書き手となり、あるときは、その読み手にもどる。書く苦労と読む苦労の両方を味わうことを読書という。青葉騒とはざわざわと風に騒ぐ青葉のことである。
パラフィン紙はりと裂けたる立夏かな 佐々木紺
パラフィン紙とはなにか調べてみると「原紙にパラフィンを塗るか、しみ込ませ、耐水性を付与したもの」とあった。
私が「原紙」だとしたら、余計なことをされたと思うに違いない。だが、パラフィン紙として生きていくしかないと思うだろう。「はりと裂け」たまま生きていくしかないと思うだろう。自分の力ではどうにもならないことを考えてみてもしかたがないのである。立夏とは、その苦しみを覚悟する一日でもある。
敗けつづけでゆく花いばら摘んでゆく 佐々木紺
敗けつづけていることを自覚している「花いばら」は偉いのだ。もしかしたら、自分は勝っているのかも知れないなどと思うことは間違いなのである。まわりに、そんなひとがいたら気を付けなければならない。「花いばら」とは、作者のことである。作者は、何の迷いもなく自分自身を摘んでゆくのである。
夏の星映画の半券を呉るる 佐々木紺
永六輔の唄が聞える。
「いつかあいさつしよう/そして名前をきこう/お茶を飲んで映画にさそおう/星の降る夜に散歩をしよう」(「いつもの小道で」作詞:永六輔 作曲:中村八大)野坂昭如、小沢昭一、永六輔、「花の中年御三家」の時代のことである。西暦1970年代のできごとであった。
映画の半券を手渡されたのである。それも、星の降る夏の夜に。映画の半券が大切なものであるのか否かは、その呉れたひとが大切なひとか否かで決まる。青春とは貴重なひとときである。時間があるということはうらやましい限りだ。老人との違いは、そこのところだけなのである。
洗ひたての鏡のなかにゐて涼し 佐々木紺
洗いたての鏡とは、鏡に映っている風景のすべてが洗いたてだということなのである。たとえば、野はらに鏡が立てかけてある。夕立のあと、その鏡の前に立つのである。野はらも雑木林も山なみも鏡も何もかもが洗いたてなのである。鏡とは歴史のことである。鏡とは、洗いたての鏡のなかにいて、涼しいと思っているひとの生きた軌跡のことなのである。
香水や脳は鼻腔に隣りあふ 佐々木紺
香料をアルコールで溶解すると香水になる。アルコールの働きは千差万別である。気がつくと、そこにアルコールは存在する。確かに、脳は鼻腔に隣り合っている。脳は鼻腔である。鼻腔は脳である。故に、香水はアルコールなのである。
短夜の圧かけて噛むナタ・デ・ココ 佐々木紺
楽しいことをしているとあっという間に過ぎてしまう。嫌なことをしているといつまでたっても終わらない。時が規則正しく進むなどということは「嘘」なのである。時は、不規則に、きままに、自由に進むものなのである。
夏の夜のナタ・デ・ココは圧をかけて噛むものなのである。悔しい時は、短夜の圧をかけて、唇を噛みしめなければならない。
稲妻に愛されてゐる異性装 佐々木紺
装とは衣類などを着けて身づくろいすることである。身づくろいとは精神のはなしである。稲妻とは放電に伴って、そらを走る光のことである。つまり、自然現象のことなのである。自然は余計なものを排除する。自然はわがままを許さない。余計なものを排除することが愛なのである。わがままを許さないことが愛することなのである。稲妻がはしる、雷鳴、それが稲妻に愛されていること。
夏の果まで信号がぜんぶ青 佐々木紺
悩んだら立ち止まる。人生の鉄則である。ひとは些細なことであっても悩むのである。無意識のうちに行っていること以外は疑った方がいい。作者は悩んでいるのである。立ち止まりたいと思っているのである。だからいうのである。「夏の果てまで信号がぜんぶ青」だと。
さみだれや猫に齢のなきごとく 小山玄黙
ながながと続く雨のなかで、齢のない暮らしがいいのかも知れないと思う。ひととのふれあいのなかでも、ぼんやりと過ごしている時間のなかでも齢のない暮らしがいいのだと思う。さみだれのなか猫はあたりまえのように戻って来る。不思議なはなしなのである。
むし歯が痛み出した。机のひきだしからロキソニンをさがす。家のなかでじっとしていることは、私には似合っているのだ。ぼんやりとさみだれのなか戻って来る猫を待っていることも私には似合っているのだと思う。
鳥けもの出払つてをり葭屛風 小山玄黙
葭の茎で編んだ屏風である。「出払ってをり」とはなにも描かれていないということなのだ。余計なものがなにもないということは落ち着くことができる。屏風には鳥やけものが描かれたものが多い。葭屛風は、それら一切を拒否している。素材が、つまり、精神が拒否しているということなのだ。
六月の箒に残るうすみどり 小山玄黙
梅雨のはじまる月である。雨の降らないときもあれば、大雨となることもある。むし暑い日になったと思えば、寒く感じる日もある。雨に濡れた紫陽花はうつくしい。雨のなか風にそよぐ青田もうつくしい。買ったばかりの箒には、素材の色も匂いも残っている。あたりまえのことだが、うすみどりいろの残った箒はうつくしい。
髪に似て喪服褪せゆく水中花 小山玄黙
褪せていくのは思い出である。悲しかったことも、楽しかったことも、なにもかもが色褪せていく。考える必要などなにもないのである。髪は褪せていく、喪服も褪せていく、同じようにひとも色褪せていく。ひとのこしらえたおもちゃである水中花。色褪せていかない訳がない。
傷つけてみたきみづうみサングラス 小山玄黙
サングラスの男と女が湖畔にたたずんでいる。男は無性に女を傷つけたいと思う。男は無性に自分自身を傷つけたいと願う。他人を理解することなど不可能なことなのだ。自分自身を理解することなど、さらに不可能なことなのだ。サングラスとは眼を隠すためのものである。サングラスとはこころの奥底を隠すものなのである。傷ついたみずうみは、なにもなかったかのようにおだやかな表情をうかべている。
蠅帳や倫敦は雨後てふ電話 小山玄黙
蠅帳のある庶民的な暮らしがある。倫敦のともだちより電話入る。急用とか大事なはなしとかではなく、倫敦からの電話であったということだけ。ただ、それだけのことなのである。たわいもない話のあと、雨が止んだことを付け加えたりする。倫敦も東京もなにもかもが、蠅帳のなかの暮らしであるということなのである。
東京に夏木の丈の空がある 小山玄黙
ずいぶんと低い空である。自分の暮らしなど、この程度のものだと卑下しているのかも知れない。息のできぬほどの窮屈さを感じているのかも知れない。だが、空はある。低くても、東京に空は確かにある。生命力も感じられない訳ではない。
夕されば草笛はゆふぐれの音 小山玄黙
草笛は自由なのである。夕方になると夕ぐれの音となり、雨の日は雨の音となる。風が吹けば風の音となり、ひとが吹けば悲しみの音となる。草笛は考えるとは無駄であるということを知っている。だから、さりげなく夕方に寄りそうのである。ゆうぐれの音はひとのこころを惑わすのかも知れない。
噴水の梢を透かす高さまで 小山玄黙
噴水もどこまで水を押し上げればいいのか客観的な目安が欲しいのである。噴水も年老いてきたなと思っている。若いころはただひたすら水を押し上げていればよかったのである。最近、それでいいのかと不安を覚えるようになった。
とある公園の夕刻、噴水は灌木の梢を透かすあたりまで水を押し上げている。肩のちからを抜き、まわりの風景をながめながら水を押し上げている。
月涼し切符と切手すこし違ふ 小山玄黙
あなたと私はすこし違う。月と太陽ともすこし違う。土と砂とはすこし違う。雨と風ともすこし違う。昼の暑さから逃れるために「月涼し」などという言葉をひとは探し出す。切符と切手の違いは誰にもわからない。切符と切手とは、本来、おなじものなのだと誰もいわない。
落花めまぐるしく彼方ときめく目 丸田洋渡
期待にふくらんだ目をしているひとたちがいる。なにかに急かされているように花が散る。人生を、社会を象徴しているような光景である。他人がときめいているときは、石橋をたたいても渡ってはいけないのである。
朧夜を港のように明滅せよ 丸田洋渡
港の灯は、ついたり消えたりしている。明るくなったり暗くなったりしている。誰もが、そのように生きなければならないのである。何故、そのように生きていかなければならないのかなどと考えてはいけない。万物がおぼろに翳む情緒にあふれた夜なのである。陽気に生きることを恥じる必要はないのである。陰気に生きることを恥じる必要はないのである。
葉は山に蝶は閃きぱたんと死 丸田洋渡
閃くことは罪悪なのである。気楽に閃いたなどとはいわない方がいい。ひとから「昼あんどん」と陰口をたたかれているくらいがちょうどいいのである。葉のおい茂った雑木林のなかでなんとか生きてきた蝶、閃いたばかりにぱたんと死んでしまったのである。
展翅うつくし蝶を永らえさせる針 丸田洋渡
展示されている蝶を、それぞれの思いでながめている。翅をとめる虫ピンのことを「蝶を永らえさせる針」といっている。翅をひろげることはうつくしいことなのだともいっている。
世の中に、植物派、昆虫派というものがあるのなら植物派に加担したいと思う。植物のうつくしさの方が「やさしさ」をより感じることができると思う。
序、夜鷹とその遠景の関係 丸田洋渡
道ばたで客を引く売春婦のことを夜鷹という。当然、昼間ではない。遠景とは、その夜鷹の人生ということになのだろう。さらに、その関係となると、ちょつとや、そっとの話ではない。だから、「序」なのである。さて、このものがたりの、はじまりと終わりとは・・・。
短夜の銃なら玻璃を狙える距離 丸田洋渡
銃がなかったらなんで狙うのだろう。狙うべきものはどのくらいあるのだろう。玻璃を狙わなければならない理由はなんであるのだろう。ものごとを考えるのは明るいうちがいい。暗くなって考えると、ろくなことにはならない。魑魅魍魎が近づいてくるからだ。たいせつなことは「距離」なのである。「距離」さえ間違わなかったら、人生はどうにでもなるのである。
翡翠を引用しては紙を飛ぶ 丸田洋渡
安易に引用することは間違いだと思う。だが、この場合は「翡翠を引用しては」であるから、お気楽に引用しているようだ。紙を飛ぶというのだから精神のはなしになるのだろう。翡翠を引用して精神について考えるということになる。幸せについて考えることになる。
太陽は水没しない螢籠 丸田洋渡
太陽は水没するというひとがいた。太陽は水没しないというひともいた。その晩、そこにいたひとびとは、太陽は水没するのかしないのかということで、退屈な時間が退屈でなくなったのである。
こんなとき「どちらも正しい」などといういい加減なひとが必ず現れるものなのである。その一言で、なんとなく散開となる。軒先に吊るされた蛍籠は誰からも忘れられていた。
水からくりいつも上からくる天使 丸田洋渡
水からくりとは水の落差を利用した手品である。したがって、いつも、何であっても、上から動きはじめるのである。
天使とは、ユダヤ、キリスト、イスラム教に登場する神の使いである。天使は空から舞い降りてくるものだ。決して地中から、海中から現れるものではない。天使とはひとが創造した手品なのである。
夏の君へ水ぶっかけて水彩画 丸田洋渡
他人に水をぶっかける行為は犯罪である。だが、「夏の君へ」となると、それほどのことでもないなどと思ったりもする。つまり、「君」が、作者のことをどう思っているのか、ただ、それに尽きるのである。
水を溶剤とする絵具で描かれたものを水彩画という。自分は「水」であるのか、ないのか、じっくりと考えてから、ことをおこさなければならないのである。
蟲の歯のうかびてなべて沼は夏至 八鍬爽風
ねずみかなにかの死骸があおむけに浮かんでいるのだろう。歯とは消化器系器官である。生きるための器官である。死骸であろうとなかろうとなんの意味があるのだ。一年中でもっとも昼が長い日に、歯は、ぷかぷかと沼に浮かんでいる。ただ、それだけのことなのである。
中庭も義肢製作所もすももの海 八鍬爽風
義肢とは、唯一無二のものである。ひとのこころが変わっていくように、ひとのからだが変わっていくように、義肢も変わっていかなくてはならないのだ。
すももがたわわに実っているのは中庭なのである。すももは、義肢製作所でたわわに実っているのである。紀元前古代エジプトでは、すでに木製の義肢が存在していたという。
道化恐怖症の少女 トマトを切る 八鍬爽風
自分の方が劣っているという意思表示は必要なことなのかも知れない。その行為のひとつに道化があるのだと思う。ある意味では、おべっかと同じことなのだと思う。
他人とうまくやっていきたいと誰もが願う。だが、それを繰り返しているうちに疲れてしまった。さらには、自分を見失ってしまったのだ。少女はトマトを切って口の中に入れる。青臭さと酸味が頭の中にひろがっていく。
三毛猫を蛆ごと抱きて石を売る 八鍬爽風
どこの町にも石屋はある。石屋が石を売るのはあたりまえのはなしなのである。どこの町にも三毛猫はいる。三毛猫が死んでいるのか生きているのかが問題なのではない。石屋のない町を想像してみればいい。三毛猫のいない街を想像してみればいい。ただ、それだけのことなのである。だが、蛆のいない町を想像することはできない。蛆の湧いていない精神を想像することはできない。
蝦蛄を剥く教祖の顔が義姉(あね)に似る 八鍬爽風
「教祖」がはじめて登場する。姉に似た「教祖」は螻蛄を剥く。このあと、百合を枯らしたり、勃つていたり、変わったことをする。それが「教祖」だといっている。この作品のタイトルは、「そうふうのはいく」である。つまり、「教祖」とは、「そうふう」そのひとそのものなのである。
美少年、蟻を、蟻を、食べつゝ 吐く 八鍬爽風
作者は美少年ではないのかも知れない。あるいは、美少年であるのかも知れない。ただ、「蟻を、蟻を、食べつゝ 吐く」ことが、美少年であるといっている。
Eテレで録画しておいたベートーベン:交響曲第7番(「クラッシック音楽館」)を流している。ベートーベンは、美少年ではなかったと思う。
教祖の右眼痙攣しつゝ百合枯らす 八鍬爽風
ひとは眼をいくつ持っているのだろう。数えあげたらきりがないのだ。痙攣とは筋肉がひきつることである。筋肉はいくつもある。そのなかの右の眼の筋肉がひきつっている。百合が枯れたのは、必然なのか偶然なのか。その答えは、教祖の痙攣している右の眼が教えてくれるはずだ。
麿赤兒、蛾、蛾を、蛾を、蛾を、を、蛾を 持つ 八鍬爽風
作者が待っているのは、「麿赤兒」「蛾」「蛾を」「蛾を」「蛾を」「を」「蛾を」である。何故、待っているのかは知らない。ただ、この七つのものが作者は好きなのだ。私には、わからないが、この「七つ」を標記したことは、他にも意味はあるのだと思う。
デパ地下の冷房 勃つてゐる教祖 八鍬爽風
デパ地下でなくても、どこでも、夏になれば冷房を効かせる。教祖でなくても、誰でも、勃つことはある。理由を問い詰める必要などないだろう。教祖とは、ある宗教のことである。また、宗派をひらいたひとのことをいう。つまり、ひとであるということなのである。
夏風邪の線路おぼゆるやうな愛 八鍬爽風
夏風邪をひいているのは愛に疲れた線路なのである。車両を誘導する二本のレールを線路という。この二本のレールは常に等間隔であり、決して交わることがない。とても、すてきな関係なのである。
線路とは線路のためにあるものではない。車両のためにあるものなのだ。誰も線路のことなど愛していない。だが、線路は運転手も車掌も乗客も車両に乗る誰もかれもを愛しているのだ。
小学校のプールから歓声が聞こえる。ときどき、異なった声が交じる。はじめ何故なのかなと思ったが、よく聞いてみれば教師の声なのである。ひまな私は、原稿用紙に、プール授業での教師が発する言葉をメモしてみた。
ここに、教師の言葉を書かない理由は想像の通りである。だが、子どもたちの歓声を聞きながら時間を潰すことは悪くはないひとときである。
青田のなかに、小学校と私の家はある。
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