2018-07-08

【句集を読む】上田信治句集『リボン』で「や」「かな」「けり」を数えてみた 西原天気

【句集を読む】
上田信治句集『リボン』で
「や」「かな」「けり」を数えてみた

西原天気


むかし数えてみたのを思い出して(≫記事:2008年11月23日)、数えてみたわけです。上田信治句集『リボン』(256句収録)において3種の切字「や」「かな」「けり」がどんな頻度で出てくるのか。

結論。

「や」 24句 全体の約9.4%

「かな」 24句 同9.4%

「けり」 2句 同0.8%

3つの合計 50句 同19.5%

これを過去に数えた結果と並べてみますね。



3つ合計の頻度(19.5%)が近いのは、今井杏太郎「海の岬」(24.6%)と波多野爽波「鋪道の花」(17.3%)。小川軽舟『現代俳句の海図』が取り上げた〈昭和30年代生まれ俳人〉10人の平均(27.4%)よりも低い。

「や」の頻度(9.4%)が近いのは、波多野爽波「鋪道の花」(7.1%)と〈昭和30年代生まれ俳人〉10人の平均(7.4%)。

「かな」の頻度(9.4%)が近いのは、〈昭和30年代生まれ俳人〉10人の平均(10.8%)。

「けり」の頻度(0.8%)は極端に低く、比肩するのは高浜虚子「七五〇句」(2.4%)、波多野爽波「鋪道の花」(3.1%)あたり。


どうでしょうか。こう比べてみて、『リボン』の作風、上田信治の作家性を分析・解明する鍵が見つかりそうでしょうか。あんまり見えてこない? そうかもしれませんが、まあ、切字の頻度を見たくらいで、作風・作家性がわかるわけはない。先に言っておけば、この記事にたいそうな結論があるわけではありません。

でもね、頻度を並べてみて、私自身は、なとなくふわーっと把握したことがあって、口吻・口調の点で、『リボン』は、虚子、爽波の柔らかさを受け継いでいる、〈昭和30年代生まれ俳人〉からは意外に遠い、という感じがしています。「けり」の少なさとかね。

「けり」が少なかった虚子、爽波(2.4%、3.1%)から、〈昭和30年代生まれ俳人〉では平均で9.2%と上昇。これは「や」の頻度(7.4%)より多い。雑駁にいえば。「けり」で締めた句は、柔らかさから遠く、毅然としまよね。


それぞれの切字について、もうすこし詳しく見ていいきましょうか。

上田信治『リボン』の切字の用法には、ふたつ特徴があります。

1 「や」の位置

2 「かな」が受け止める語

ひとつめ。

「や」の位置は一般に上五の最後が多い。『リボン』で例をあげれば、《睡蓮や浴槽に日が差してゐる》など。ふつうこの位置が圧倒的に多い。ところが、『リボン』に「や」の出てくる24句のうち8句が中七の最後、2句が中七の途中(いわゆる句跨り)です。

例えば、

石投げて池に氷や白く撥ね  上田信治

ふくらはぎ伸すや日の照る冬の海  同

この頻度(24句中10句が上五の位置にない)はかなり特徴的です。ちなみに、小川軽舟に印象的なかたち(例えば《ことば呼ぶ大きな耳や春の空》)。小澤實にも多いかも(調べてください)。

ふたつめ。

「かな」の直前にある語は、季語がまる多い。「朧かな」とか「枯野かな」とかね。季語でなければ、3音の名詞(『リボン』でいえば《タクシーを降りれば雪の田無かな》とかね)。

『リボン』で「かな」が出てくる24句のうち、季語は9句。これはかなり少ない。さらに、その9句のうち3句は、中七から音が続いてきたもの(句跨り)。《くつしたのくたくたの月明りかな》《けふは降る雨ののうぜんかづらかな》。

この中七からずるずるのパターンはかなり多く、季語以外の語の句跨り+「かな」(例《雲光るはつふゆ中華料理かな》)は5句を数える。

また、『リボン』で「かな」句24句には、助詞/副助詞/動詞を「かな」で受ける句が4句を数える。《夜の海フォークの梨を口へかな》《新しい駅が夏から秋へかな》《鯊の秋チョコレート色ばかりかな》《ひな祭もうすぐ犬の休むかな》。これはかなり変則。

「かな」の使い方がかなりヘンタイ的。

前項と合わせると、柔らかい声音で、ときどきヘンな口調が交じる。これって、上田信治句の口吻面・口調面の特徴だと思いますよ。


さて、今回、切字の用法に焦点を当て、それが内容に作用するのではない部分、つまり口吻・口調を見てきましたが、俳句では、内容や描写のための彩よりも、ときとして、声音・口調が重要だったりするものです。そこにこだわる人とこだわらない人がいますが、上田信治は、あきらかに前者。

だって、もう一度、掲げますが、《けふは降る雨ののうぜんかづらかな》なんて句、内容はごくわずか。ないに等しい。声音と口調で成り立っている句です。

で、これもまた、俳句的愉悦・俳句の素晴らしい領分のひとつと、私は信じているのですよ。

(表面上の/字義上の)無内容がこれほどまでに許され、快楽されるジャンルって、俳句のほかにないと思うのですよ。

最後、話がちょっと逸れましたが、切字の使い方ひとつとってみても、句集『リボン』は、俳句の書き手たる上田信治には、ユニークな操作と奇妙な成果が見出せる。この私の確信は、もともとの予感ではあったのですが、数えてみて、あらためて、という種類のものでもあるようです。

というわけですが、この『リボン』については、あと1回くらいは書いておきたい所存であります。いつになるかわかりませんが(この記事も、前回からずいぶん間があきましたしね)。

ではでは。



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