2018-07-08

器に手を当てる 宮本佳世乃「ぽつねんと」における〈風景〉の構図 小津夜景

器に手を当てる
宮本佳世乃「ぽつねんと」における〈風景〉の構図

小津夜景

『豆の木』第19号(2018年5月20日)より
転載(改稿あり)

俗に「オルガン調」と言われる俳句がある。

この呼称はきわめて気分的なもので、実際どれほどの内実があるのか検証されてもいないが、多くの場合、同人誌「オルガン」の中心的人物と見做されている鴇田智哉の作品との類像性ないし影響関係が感じられる句をそう呼ぶようだ。具体的な特色についてはいくつか考えられるが、その中でも確実と思われる一例を宮本佳世乃「ぽつねんと」から引用してみよう。

 くちなはに枝の綻びつつまはる

 ふくろふのまんなかに木の虚のある

もしも上の句が〈くちなはの枝に綻びつつまはる〉〈木の虚のまんなかにふくろふのある〉であれば話はかんたんだ。しかし宮本はそうは書かない。

ここでまず確認したいこと、それは文法上・論理上の語順を入れ替えることによって詩趣を生み出すこの技法が鴇田智哉の考案ではないという基本的事実である。この種のレトリックは俳諧の成立過程においてすでに存在し、具体的には杜甫の倒装法を芭蕉が真似たことに由来している〔*〕

 香稲啄余鸚鵡粒  香稲、啄み余す鸚鵡の粒、
 碧梧棲老鳳凰枝  碧梧、棲み老ゆ鳳凰の枝。
 (杜甫「秋興」)

 鐘消えて花の香は撞く夕べかな  芭蕉
 吹き飛ばす石は浅間の野分哉  〃
 海暮れて鴨の声ほのかに白し  〃

仮に杜甫「秋興」の頷聯「香稲、啄み余す鸚鵡の粒/碧梧、棲み老ゆ鳳凰の枝」を実際の光景である「鸚鵡、啄み余す香稲の粒/鳳凰、棲み老ゆ碧梧の枝」に戻すと、句の中心となる名詞が「鸚鵡」「鳳凰」に固定されてしまい、人間の目に世界が立ち上がる際の動態性が失われることがわかる。加えて句の内容が〈風景〉ではなく〈景観〉にすぎなくなるため感興にも乏しい。

〈風景〉とは体験である。それは客観的・科学的な〈景観〉や〈環境〉と異なり、心と感覚の働きに起因する個人的かつ一回性の出来事として文学および美学の領域で論じられてきた。ここで杜甫が行ったことも、読者の知性を前提とした上で語順を錯綜させて、意味における虚と実との大胆な共存を図りつつその交じわる点に一回性としての〈風景〉を出現させる試みとして捉えることができる。そしてまた芭蕉もこれに倣い、通常ならば〈鐘撞いて花の香消ゆる夕べかな〉〈石を吹き飛ばす浅間の野分哉〉と書くところを倒装法によって語の位置をアクロバティックに入れ換えたのだ。

また倒装法は「鍵となる語の交錯」と「修飾語の交錯」とのパターンに大きく分類されるが、芭蕉における後者の例としては〈海暮れて鴨の声ほのかに白し〉がわかりやすい。これを実際の光景に戻すと〈海暮れてほのかに白し鴨の声〉となる。ただしそれは「実」の景であっても「真」の景であるとは言いがたく、なにより現象を把握する折々に生じる五感の分かちがたさといった〈真に生きられた体験〉が抜け落ちている。そんなわけで芭蕉は〈海暮れて鴨の声ほのかに白し〉と書いた--のかどうかは今となっては正直推し量り難いけれども、少なくとも残された句は、理屈によって世界が整理されてしまう以前の純粋経験を描いたそれとなった。共感覚的風景を産み出すのにも便利な--ときに便利すぎることも否めない--この類の代換法(=転移修飾語)は漢詩文以外でも珍しくないレトリックの構文である。

話を最初に戻すと、俗に「オルガン調」と言われる方法の内のひとつはこの倒装法のヴァリエーションであり、その意味で冒頭に引用したふたつの句も俳諧の伝統をすこやかに受け継いでいる。すなわち、ここにおいて宮本が描こうとしたのは、風景が生成する過程における意識の動き、つまり作者が実際に生きた時空そのものの描写であるため、あのような語順が妥当であったのだ。

その他「ぽつねんと」で目につく特徴といえば切れ字の少なさで、全30句のうち〈雪晴や器械から音楽の出て〉と〈十六夜の髪にこぼるる鋏かな〉の2句にあらわれるのみである。代わりに宮本は切れ字以外の方法で一句を構造化することを目指すのだが、そのひとつが今説明した倒装法によって句に〈虚実の奥行き〉を付与する方法と、もうひとつが〈器〉ないし〈扉〉のイメージによって句の〈内外の奥行き〉を演出する方法だ。

 うすばかげろふおとうとの肺に棲む

 こゑ新しくあぢさゐに閉ざさるる

 湧いてくる闇武蔵五日市のダリア

 蜥蜴一本かほより岩へ入る

 ふくろふのまんなかに木の虚のある

ここでは「うすばかげろふ」「こゑ」「闇」「蜥蜴」「ふくろふ」がそれぞれ「肺」「あぢさゐ」「ダリア」「岩」「木の虚」といった〈器〉を出入りする様子が描かれており、後の語群と前の語群との間には包含の構図が存在する。〈ふくろふのまんなかに木の虚のある〉については「ふくろふ」という〈器〉の中に「木の虚」があると読んでも差し支えない(今重要なのはふたつの語が包含関係にあるということだから)。こうした構図は「ぽつねんと」のいたるところに溢れている。

 ふれてみし冬の泉の割れて櫛

 ゆふがたを紋白蝶の溜まる息

 雪晴や器械から音楽の出て

 瓶を持つ手のふたたびの霧の中

 金網のおほかた錆びてかひやぐら

ここでは「泉」が「櫛」を、「息」が「紋白蝶」を、「器械」が「音楽」をそれぞれ包みこんでおり、なかでも〈ゆふがたを紋白蝶の溜まる息〉は紋白蝶をたくわえた息の質感がえもいわれぬ詩趣を発して心地よい。またまた「霧」や「かひやぐら」は、先の〈湧いてくる闇武蔵五日市のダリア〉において「闇」が「ダリア」から湧いたように、「瓶」や「金網」から湧いていると読むこともできる。さらに、

 古代より来し青鷺の部屋の前

 遊びたる鶴うつりたる自動ドア

ここにも「青鷺」が「部屋」を、また「鶴」が「自動ドア」を出入りする構図が隠されている。この2句については「古代より来し/遊びたる」および「部屋の前/うつりたる自動ドア」など意味も似通っており、共通の構図のみならず共通の機微の下で書かれていることがわかる。「ぽつねんと」にただよう沈潜的な香りは、こうした〈内外の奥行き〉によって生み出される潜在的領域を一句がさりげなく隠し持つことで実現されているようだ。

 手を当てるとき数学はからすうり

「数学」とは形而上学、すなわち純粋経験そのものであり、掲句ではその「数学」が「からすうり」という小さな〈器〉に包含される(あるいは全く同等である)と語られる。このささやかな神秘。そのひっそりと奥深い美しさ。思うに「からすうり」に「手を当てる」とは、おそらく〈真に生きられた体験〉としての〈風景〉がそのつど〈器〉の中に潜在していることを祈りつつ信じる仕草なのだろう。


【註】
〔*〕芭蕉以外の俳人による倒装法として、蕪村〈夜やいつの長良の鵜飼かつて見し〉を例に挙げる。この句の実の形は〈いつの夜や長良の鵜飼かつて見し〉となる。

【参考文献】
・佐藤信夫『レトリックの意味論―意味の弾性』 講談社学術文庫
・芥川龍之介「芭蕉雑記」
https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/23_15267.html
・久保忠夫「芭蕉の発句と倒装法」 『連歌俳諧研究』1956年1956巻12号p. 61-68 https://doi.org/10.11180/haibun1951.1956.12_61

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