肉化するダコツ⑪
月光のしたたりかかる鵜籠かな
彌榮浩樹
月光のしたたりかかる鵜籠かな
彌榮浩樹
蛇笏から学びとる、魅力的な俳句作品であるための秘技。
それをめぐる極私的考察の11回目。
蛇笏から学びとる、魅力的な俳句作品であるための秘技。
それをめぐる極私的考察の11回目。
ここ数回、蛇笏のヘンな句を取り上げてきたが、今回は、正統的なド蛇笏な句である。
なんとも美しく妖しい<耽美>の横溢する、蛇笏調の権化とでもいうべき句だ。
月光に鵜籠が照らされている。じつに単純な句意・景である。が、しかし、この句は、この世のものならざる妖しい気配を濃厚に発しているのだ。これは、なぜなのか?
もちろん、何と言っても中七の「したたりかかる」が眼目なのだが、この措辞は、上五「月光の」→中七「したたりかかる」→下五「鵜籠かな」の語順によって決定的にその機能を発揮している、ということにより一層の注目を注がなければならない。
上五の「月光の」が液体であるかのようなシュルレエルなイメージが中七「したたりかかる」によって立ち上がり、下五「鵜籠」に至って「ああ、鵜籠から滴っている水を月光が照らしているのだな」と納得・安心へと着地する。しかし、そのような理性的な実景への回収の後でも、「月光のしたたりかかる」シュルレエルのイメージは消えずに、夢の残滓のように読者の読みに纏わりつくのだ。結果としてこの句は、現実を踏まえつつ現実を超えている。こうした<俳句的構造・措辞の生み出す粘り強い「虚」のイメージの厚み・強さ>が、蛇笏の句の<耽美>の基本的なメカニズムなのだろう。この句においては、その鍵をとりわけ語順が握っているのだ。
鵜籠にもしたたりかかる月光よ ・・・a 改悪句
月光のしたたりかかる鵜籠かな ・・・b 原句
aはツッコミどころ満載のひどい改悪だが、ここで対照確認したいのは語順である。
「鵜籠」ではじまるaは、「鵜籠」の濡れたイメージを「したたりかかる」が保ちながら「月光」にまで読者の読みが届くために、「したたりかかる」のは「月光」なのだという妖しさはずいぶん薄れてしまう。
これに対し、原句bは「月光の」ではじまっているためにそれが「したたりかかる」妖しいイメージは、「鵜籠」で謎が解けたあとでも、体感の余韻・艶となって一句を覆っている。
山本健吉は、俳句の特質として「時間性の抹殺」「認識の刻印」等を揚言した。たいへん重要な指摘だが、しかし、abの差は、「時間性の抹殺」「認識の刻印」という文言からはすり抜けてしまう<俳句の十七音のほんのわずかな時間差の中でのイメージ造型の順序の機微>によるものである。蛇笏の掲句は、わずか十七音の中でも、<「謎」の提示→サスペンス(宙づり)の緊張感→いちおうの解決・納得・安心感>→<「謎」の余韻・残滓としての美しい張り・艶の発生>という<プロットのドラマ>が、イメージ形成に・読者の体感に強い影響を与えるのだ、ということを教えてくれる。
ところで、「月光」という光線を描写するのに液体の触感をあらわす「したたる」という言葉を用いるという<異種の感覚の融合>は、決して珍しい表現手法ではない。むしろ、こうした<共感覚><複合感覚>は、詩歌(文学的表現)の常套手段と言ってもよいだろう。
しかし、掲句が、単なる<共感覚>という常套を超えて、肉感的な妖艶な世界を現出するのは、「したたり」だけではなく「したたりかかる」とまで畳み掛けた表現の濃さ・執拗さ、強さによるものだ。
「したたり」までならば「月光」を甘く描写したに過ぎないが、「かかる」は「鵜籠」の物体としての量感にまで届く措辞であり、これが、遡及的に「月光」の物質としてのリアリティ、なまなましさまでも描出しえているのだ。
そして、(この連載でも何度も触れてきたが)、この妖しさ・迫真力は、文字表記や音の響きといった韻文としての<音象徴>によって増幅されている。
街路樹に旧正月の鸚鵡籠 ・・・ c 1月に挙げた蛇笏の句
bcともに鳥籠の句だが、両句ともに「g」音ではじまっているのが興味深い。「街路樹に旧正月の鸚鵡籠」も「月光のしたたりかかる鵜籠」も「g」ではじまり「g」で終わる。この「g」音は力強いメタリックな濁音であり、この音が、「鸚鵡籠」「鵜籠」の量感・存在感を、体感として読者に伝えるのだ。掲句bはさらに「~かな」でそれを別次元の言語空間へと押し上げてもいる。さらに、「したたりかかる」の「たた」「かか」の連続する音が動きを体感させ、(まるでダリの時計のように)液体と化した月光が籠にたらたらとかかっている、そんな感触まで感じさせるのだ。そして、「~り~る」音のなめらかさが工芸品の表面に塗られた釉薬のようにして一句の体感の艶になっている。何とも濃厚な<音象徴>の組み合わせである。
最後に、もう一つ。
この句は、「月光」の句なのか?「鵜籠」の句なのか?と問うのは愚問だろうか。
例えば、『飯田蛇笏集成』の「季題別全句一覧」では、この句は「夏・人事」の「鵜飼」の項目に分類されている。当然だろう。「月光」は一年中あるが「鵜籠」は夏の物だから。
しかし、この句の濃厚な魅力は、まさに「月光」と「鵜籠」との拮抗、絡み合いにあるのであって、ここに「季重なりという禁忌」などを持ち出すのはナンセンスだろう。一句のなかにイメージ喚起力の強い季語をふたつも入れるのは、十七音の言語世界の緊張感や調和を乱すことになるので避けるべきだ、というのはもっともだが、そうした初心者向けの入門的な指導と、こうした一流の作家の文学作品とは全く別の次元にあるのだということがよくわかる。そう、全く別、なのだ。つまり、この句は「季重なりだが例外的に素晴らしい句」などではないのである。
例えば、少年野球の選手には「ボールの正面に身体を入れて両手で捕球すること」を指導するが、プロ野球選手は逆シングルでの捕球、外野手の片手捕球が当たり前の動作だ。セオリーに反しているけれども大人のプロだから例外的にOK、なのではなく、プロにとっては逆シングル・片手捕球の方が理にかなっているのである。・・・とは、あまり適切な例えではないかもしれないが、ともかく、蛇笏の句を堪能していると、「一句には一季語だけ!」という(誰が言い出したのかもわからない)初心者向けの禁忌に、僕たちが縛られる必要など全くないのだな、ということがよくわかる。
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