【句集を読む】
山田耕司句集『不純』第5章「山田耕司vs山田耕司」で
小久保佳世子さんと太田うさぎさんに旗を挙げてもらいました
山田耕司『不純』p61~70「山田耕司vs山田耕司」の章は、1ページに赤白2句が並んで掲載され、読者が勝ち負けを決めるという趣向。特集「山田耕司『不純』を読む」の興奮さめやらぬなか、小久保佳世子さんと太田うさぎさんに判定を下していただきました。
●
進行:西原天気▼
最初の取組は「白魚」です。
赤 白魚やがさりとラジオ黙りたる
白 青春の飲む白魚のやうなもの
それぞれ、どちらかが勝ちか、旗を挙げてください。
小久保佳世子(以下、佳世子)◆
《赤 白魚やがさりとラジオ黙りたる》です。
太田うさぎ(以下、うさぎ)◆
私は《白 青春の飲む白魚のやうなもの》。
進行▼
分かれましたね。
佳世子◆
《赤 白魚やがさりとラジオ黙りたる》の「がさり」という音には荒っぽい容赦なさがあります。その為、その後の沈黙には一方的に切られた電話の後のような痛みすら感じます。白魚のロマンもまたそこで非情に遮断されてしまったような。
うさぎ◆
不思議な句です。「白魚のやうなもの」と言っているので実際に飲んでいるのは白魚ではありません。
ですが、それが何にせよ、踊り食いのようにピチピチと犇めく生命を臓腑に落とし込むのが青春期というものか、とも思いました。青春の文字に隠れた青と白魚の白のコントラストもいい。どことなくエロスを感じるのは私の妄想でしょう。
進行▼
佳世子さん、うさぎさんが妄想とおっしゃる「エロス」という点、いかがですか?
佳世子◆
「しらうおのような指」と女性のしろく細い指を言ったりすることから、女性への憧れのようなものを感じました。ですから掲句にはエロスの生々しさより、むしろ初々しさを感じました。
進行▼
次は「末黒野」です。
赤 末黒野や知らない家族また出てくる
白 さびしさの末黒野を出てなほ道たる
うさぎ◆
《赤 末黒野や知らない家族また出てくる》。
枯草を焼いて新芽の生長を促すのが野焼き。焦げ臭い野原から家族が出て来る。「知らない」と言いながら家族だとの認識は何故かある。家族の再生とも解釈できますが、シュールな光景です。「また」がじわじわ来ます。
佳世子◆
私も赤です。
消えてはまた出てくる家族なんてゾンビのようでちょっと不気味。知らないけれど、意識下では知っている家族のような気もします。「また出てくる」ことを、もしかして懐かしがっているのかも。家族という言葉にはある温みがあるからでしょうか。背景が末黒野ということは原始からの累代の家族が描かれているのかもしれません。
うさぎ◆
末黒野は最初、《白 さびしさの末黒野を出てなほ道たる》だったんですよね。でも見直していたら赤の方が段々よく見えてきて……。
佳世子◆
末黒野は荒涼とした景なので「さびしさ」は言わずもがな。そんなこと分かっているにちがいない作者なので、そこに興味があります。
進行▼
「白魚」2句と「末黒野」2句は、「や」切れと喩がセットになっているということで、この見開きは合わせ鏡のようです(「末黒野や」の「や」は一物っぽいですが)。佳世子さんは、「白魚」「末黒野」ともに、「や」切れの句に旗を挙げた。うさぎさんは、「白魚」では喩の句を、「末黒野」では「や」切れの句をお採りになった。
うさぎ◆
上五を「や」で切る句の場合、読み終わった余韻の中に上五の言葉がぼやーんと反響している感じがあるのが好きです。白魚の句ですと、ラジオが黙るという事象に対して白魚がどう関わるのかが私にはちょっとピンと来ませんでした。末黒野の句は、「また出て来る」……そんな末黒野であることよ、と始まりに戻っていくのが面白いです。
喩の句はその象徴するところに読者がどれだけ感興を催せるかにかかっていると思います。「さびしさの」は「道」にどの程度の深みを汲み取るべきなのか、測りかねたところがあります。
進行▼
なるほど。次に行きましょう。
赤 丸腰を蛍のせゐにしてをりぬ
白 蛍衰へたどりつきたるハムエッグ
どちらも一筋縄では行かない句ですね。それでは旗をどうぞ。
佳世子◆
《白 蛍衰へたどりつきたるハムエッグ》。
源氏蛍、平家蛍と名付けられたり、古くから死者の霊魂に見立てられたりしてきた蛍。もののあわれという美意識の代表のような蛍ですが、それを支える共同体が衰退し、蛍がたどりついた先はなんとハムエッグという味気ない和製英語。都市のホテルで鑑賞用に飼育される蛍などが思われます。現代の蛍の滑稽と哀れを痛烈なアイロニーで描いた一句です。
進行▼
蛍にまつわる観念や情緒の歴史性を思えば、「アイロニー」が読み取れるというわけですね。そのあたり、うさぎさんはいかがですか?
うさぎ◆
衰退の果ての変性という図式はアイロニカルというよりどちらかと言えばシニカルな印象を受けました。解釈のむつかしい句ですが、「螢衰へ」は枕詞的な使われ方なのかなと思ったり。夜が明けて朝ごはんに目玉焼きが出ました、実はそれだけのことだったりして、とも。「それだけ」というのは悪い意味ではなく、ありきたりのことを如何に書き表すかは誰もが苦心するところです。
進行▼
うさぎさんは、どちらの句を?
うさぎ◆
私は《赤 丸腰を蛍のせゐにしてをりぬ》です。
可笑しいです。やましいことがあったりすると、人って何かの所為にしたがるよねって。蛍に罪を着せた時点で即座に周囲から集中砲火を浴びそうな気がします。愛すべき人物です。《じゃんけんで負けて蛍に生まれたの 池田澄子》への遠くからの挨拶のようでもあります。
進行▼
次は「金魚」です。
赤 提げ歩く金魚赤赤黒茜
白 姿見に金魚きて去り去りはてず
佳世子◆
《赤 提げ歩く金魚赤赤黒茜》です。
色が際立つ句でかなり好きです。提げ歩く速度も思われ、その動きを「茜」で止めるあたり技あり。赤と茜の間にある「黒」は出目金か金魚の模様でしょうか、或いは存在しない何かの影のようで気になります。この黒があることによって赤も茜も鮮やかさを増すようです。
うさぎ◆
うーん。迷いました。「アカアカクロアカネ」の心躍るリズムもいいのですが、私は《白 姿見に金魚きて去り去りはてず》を。
水槽であれ金魚釣りのビニール袋であれ、姿見の細い幅を金魚が過った。鏡中から消えた後でも眼裏に鮮やかな姿態が揺らいでいる、「去りはてず」はそういう意味に受け取りました。姿見の前に立っているのは美しいお嬢さんでしょうか。涼やかな句です。
進行▼
あくまで「美しい」「お嬢さん」なわけですね。山田耕司さんじゃなくて。
うさぎ◆
うーん。姿見や金魚に女性のイメージを重ねるからでしょうね。男性と考えるとこの金魚はメタファー的な意味合いを帯びてきそうです。
進行▼
次は「西瓜」です。
赤 男手をわたりてきたる西瓜切る
白 西瓜に顔彫つて真闇へ向けにけり
うさぎ◆
《赤 男手をわたりてきたる西瓜切る》。
「男手を」と断るからには西瓜を切るのは女性でしょう。バケツリレーのように何人もの男性の手から手へ運ばれてきたというだけで、大きくてはち切れそうな西瓜が目に浮かびます。俎板の鯉ならぬ西瓜に刃を入れる様が頼もしい。「切る」の二字が爽快です。
佳世子◆
私も同じく赤。「男手をわたりてきたる」ことに焦点が当たることに何故か不穏を感じます。「西瓜切る」も読み方によって不穏さを引きずります。女手では手に負えない西瓜の大きさ重さをイメージすればよいのかもしれませんが、それだけではないような。男手に悪い感じを持ってしまうのです。悪い感じは決して俳句の魅力を損なうものではありませんが。
進行▼
6つめは「黄落」。
赤 黄落や触るるも見えぬ盆の窪
白 黄落にすべなき笊となりにけり
佳世子◆
《白 黄落にすべなき笊となりにけり》。
籠と笊の違いはよく分かりませんが、器の出来は籠のほうがよさそう。思えばザルという響きは何となく情けないものがあります。この句の笊はますます貧弱に見え、それに比して黄落の大いなることよ。「すべなき笊」という表現によって黄落の怖いほどのエネルギーが感じられます。昨今の想定外の自然現象まで思ってしまうのは読みすぎでしょうか?
うさぎ◆
私も白です。
かねてより笊には秋の季感があると思っています。季語認定して貰いたいくらい、と言うと大袈裟ですけれど。
黄落という終わっていくものと使い途のない笊とはいわゆる「即(つ)く」関係にあるのでしょうが、そこがいいというか。私は佳世子さんのおっしゃるエネルギーよりも諦念とか受容といったものをこの句から感じました。私という人間も所詮一枚の笊である、みたいな……。考えすぎかな。
赤の「触るるも見えぬ盆の窪」は確かにぃ~と感心しましたが、その発見がちょっと黄落の情緒に寄りかかってしまっているように思いました。
佳世子◆
同じ句に軍配をあげていても、西瓜の句にうさぎさんは、ある爽快さを、私は不穏を感じたり、黄落の句も、うさぎさんは黄落を終わってゆくものと見たけれど、私は怖いほどの大黄落という思いから離れられなくなっていたことに気付き、とても面白いなあって思いました。
うさぎ◆
ほんとうに。
一つの句でも受け取り方が違うものですね。黄落をエネルギーと捉えたことがなかったので、佳世子さんの鑑賞にハッとしました。
進行▼
ラス前は「柚子湯」です。
赤 恋おとろへ柚子に湯舟の広きこと
白 はらわたを暗さと思ふ柚子湯かな
佳世子◆
《白 はらわたを暗さと思ふ柚子湯かな》
英語のdarknessを調べると、暗さ、色の黒さ、秘密、邪悪、無知などと訳されていて、darknessのすべてが「はらわた」にもあるということでしょうか? 柚子の黄色と白い(とりあえず)素裸の表面的にはシンプルで明るい場面ですが、はらわたの暗さ重さがあるから、湯のなかに沈むのですね。「はらわたを暗さと思う」場として柚子湯はとてもふさわしいような気がしてきました。
うさぎ◆
同じく白に軍配。
句集にはほかに《はらわたは見えぬがよろし大どてら》《はらわたは温し遠しや曼殊沙華》があり、はらわたを単なる臓腑として以上に意識していらっしゃるようです。この句、「暗し」ではなく、「暗さ」であることが肝心だと思います。柚子湯に芯から温まりながら、自分の体内の暗黒に目を据えている。それでいて結語は「柚子湯かな」と平和。このちょっとした捻じれが面白いです。
進行▼
《蛍衰へたどりつきたるハムエッグ》は「衰へ」と漢字、こちらは「恋おとろへ」と平仮名。用字が変えてあるんですね。
佳世子◆
「衰へ」は、まだどこか頑張っているけど、「おとろへ」はちょっと諦めを感じませんか? そういえば、「蛍衰へ」の句には、三橋敏雄の有名句《 昭和衰へ馬の音する夕かな》をちらっと思いました。
進行▼
さて、いよいよ最後です。
赤 冬愁てふ季語無きことよ海鼠嚙む
白 ゆく雲を足裏と思ふ海鼠かな
佳世子◆
《白 ゆく雲を足裏と思ふ海鼠かな》
雲足はゆく雲の速度をいう言葉。その雲足とは足裏のことだと言われれば、だんだんそんな気がしてきます。地上の生き物は雲の上層部が見えないので。
初めは奇想と思えたことも何? 何故? と頓智を考えるように嵌ってゆく感じです。そこに海鼠。海鼠の目は見えないような気がしますが思考する生き物かもしれず、とやや強引に海鼠の気持ちに納得させられてゆく困惑と楽しさ。
うさぎ◆
同じく白……と思いましたたが、佳世子さんと同じ旗ばかり上げていても、ということで、《赤 冬愁てふ季語無きことよ海鼠嚙む》。
「ない」ことを考えるとき、大概はその存在を意識しているものです。とすればなにがしかの憂いがふと胸を過ったのでしょう。でも、そこが俳人根性といいますか、「春愁、愁思はあるが冬愁は季語にないなあ」とそちらへ考えが行ってしまう。いや、あえて物思いに真っ向から挑まずにスライドさせたのかも。海鼠が大人の味わい。でも、顎が疲れそう。
進行▼
俳人根性! すごい言い方! 俳人魂、俳人の性(さが)ということですね。
うさぎ◆
柚子湯に戻るのですが、読み返してふとわからなくなりました。
○○を△△と思ふ□□かな
は一つの型としてありますよね。よく知られたところでは攝津幸彦の《露地裏を夜汽車と思ふ金魚かな》。『不純』にも
瓢箪をわが子とおもふ鯰かな
ゆく雲を足裏と思ふ海鼠かな
があります。いずれも"思う"のは金魚であり、鯰であり、海鼠であると何の疑念もなく受け取りました。
ですが、《はらわたを暗さと思ふ柚子湯かな》の思う主体は〈私〉。金魚、鯰、海鼠という生命体ではなく、柚子湯は〈場〉だから、自然と「柚子湯にいて~思う」という流れで読むんですよね。読み返して一瞬あわてたのは、これはもしや、柚子湯が思っている句なのでは? 私は誤読したのでは? と。よく考えればあり得ないのでしょうが、そそっかしい性格なもので。
見開きに同じ型で解読が異なる句を載せたのはやはり作者の意図なのでしょうか。
佳世子◆
私も「……を……と思ふ……かな」という言い方には攝津幸彦句のパロディを思いました。とくに海鼠の句は、攝津句を強く感じました。でも、柚子湯の配合はパロディから離れてゆく感じがしました。「もの思う柚子湯」とは露ほども思いませんでした。
見開きにあえて載せたのは、読者サービスかもしれず、柚子湯のところは少しずらしたあしらいだったのかもしれませんね。
進行▼
これでひととおり旗を挙げ終えたわけです。さて、赤対白、どちらが勝ったのか。句によって好悪が分かれたケースもあるのですが、合計点は、佳世子さんもうさぎさんも、4対4のイーヴン。これ、作者の山田耕司さんが仕組んだ結果だとしたら、すごいですね。
あるいは、赤と白の配分で、読んだ人の俳人としてのタイプがわかるとか、性格がわかるとか。この句集には、その手のことは書いてありませんが、どこかで仕掛けが明かされるかもしれません。あるいは、仕掛けなど、ないのか。
おふたりには、もうすこしだけお付き合いいただきます。この句集『不純』をひとことで人に伝えるとしたら、どう表現されますか?
佳世子◆
軽やかならざるものを抱えつつも、人を喜ばせようと意匠を凝らし才気あふれたサービスをしてくれたような句集。
うさぎ◆
ひとことですか。おっぱいの真ん中に置くならこの一冊、とでも。
進行▼
ありがとうございます。最後に、もうひとつだけ。句集『不純』から一句選ぶとしたら?
うさぎ◆
ありすぎて困りますけれど、敢えての一句なら
うぐひすや順番が来て巴投げ
無性に好きです。前進する線がある地点でクルリと回転するという運動の永久のリフレイン。天上には伸びやかな鶯の鳴き声。説明の出来ないところが魅力、なんて逃げているようですが、とにかく読んでいてとても楽しくなります。
佳世子◆
私は、
挿す肉をゆびと思はば夏蜜柑
エロチックな描写に違いないけれど、騙し絵を見ているように知覚が刺激されるところがあって、句集『不純』への期待感が否応なく高められる奇妙な巻頭句だと思います。
進行▼
ありがとうございました。たいへんおもしろい話をお聞きできました。
0 comments:
コメントを投稿