2018-09-16

【週俳8月の俳句を読む】おもたくてどこまでも俳句 淺津大雅

【週俳8月の俳句を読む】
おもたくてどこまでも俳句

淺津大雅


本稿を書くにあたって、最近の週刊俳句の記事を少し拾い読みした。特に面白いと感じたのは、第591号の「週俳7月の俳句を読む」として掲載された浅川芳直「作者は死なず」である。浅川は次のように、己が俳句を読む際の姿勢を糺している。

>もちろん佳い句は、どんなに表現が奇妙でも、内容が特殊でも、その人の芯がありさえすれば伝わる。しかし良い句を見逃さないようにするには、自分の俳句理念は括弧に入れ、頭ではなく胸で作品にぶつかる作業が必要だと思ったのである。

かくありたい、と思わされる読み手の姿勢である。私も一旦凝り固まった脳をほぐしてから、句と向き合いたい。俳句観の違いといったものをただ脇に追いやるのではなく、それを意識しながら、最終的には何か「胸に来る良さ」のある句を、良しとしたいものである。
もちろん、ただ感想を並べ立てるだけでは済まされない批評者としては、その良さの湧いてきたるところの淵源へ深く潜っていくことがゴールである。


堀田季何について語るのは正直とてもどきどきする。それは今回の連作「ニンゲンけダモノ」から、不条理に対抗する意志や、人類への批判性を帯びた緊張感といったものを感じ取ったから(後述するが決してそれだけの作品ではない)でもあるし、それが作家論へと導かれる形で語られなければいけないものだと思わされるからでもある。しかし、とにかくこの連作と向き合ってみることにする。なお以下、執筆上の必要から掲載順とは異なる順序で引用するが、ご容赦願いたい。


塀一面弾痕血痕灼けてをり
ひとりでに地雷爆ぜたる夜の秋

上記二句は、いわゆる戦争のイメージと合致するもの――塀一面の弾痕・血痕、地雷の爆発――を句に取り入れている。ここで気になるのは、「これらの句にとって季語、定型はどういうものか」である。「灼けてをり」、「夜の秋」と書く意味はなんなのか。定型に収める意味はなんなのか。無論、俳句だからだ。俳句の懐は深い。しかしやはり問わずにはいられないのである。こう問うこと自体が平和ボケである、と自戒しながらも。

一句目。「塀一面弾痕血痕」のなまなましさは、「灼けてをり」と書かれることでどうなるか。人間が人間を虐殺するという事実は、「平和の国」に住む私の感覚として、どうしても、時間的、空間的に隔たったものである。しかし同時に、絶対に無視すべからざるものであり、主体としてかかわらなければならないものである。それは、抽象の戦争概念ではない。今のイスラエル-パレスチナ紛争の、あるいはシリア内戦の、あるいは不安定化するアフガニスタンの現実。そして何より、隣国・北朝鮮と日本も含めた周辺諸国との緊張関係。絶対に避けて通れない、現在進行の具体的問題である。
「灼けてをり」と書かれることで、私ふくめ、低緯度から中緯度に住む人間なら誰もが知っている太陽の熱が想像される。あの真夏のぎらぎらとした日差しが、コンクリートや煉瓦の塀を、触れられないほどに熱するというその事実が、弾痕・血痕という空想を受肉させるに至る。そこまでは良い。問題はそれが「何を語ろうとするか」であるが、一体、俳句という最短定型詩において何を語り得ようか。こうして考えすぎると、自縄自縛の観がある。俳句は明示的に語らない。ただ余白において暗示する。主体化の契機としての季語、という役割は、果たして季語にとって重荷であるのか否か。それは結局、この句をスッと読めるかということであろうし、この句にありありと活きる定型感覚がそれを担保している。書きすぎることはもとよりできないが、書かないこともできない、そういう切実さがある。

二句目。夜の秋、秋の訪れの予兆としてある夏夜の涼しさにおいて、ひとりでに爆ぜる地雷を聞いた(あるいは見た)という句意である(※)。ただしそれが定型で書かれている。
定型は私達に、内容以上の何かを与えてくれるように思う。例えば掲句では、はっきりそう書くのは野暮でしかないのだが、まるで何らかの超常の存在が地雷を踏んだかのごとく感じられる。実際、なにもない場所で突然地雷が爆ぜれば、それは驚くことだろう。だが、はっきりと「夜の秋」と断じられ終わらせる定型の力のせいだろうか。そこから始まる警戒、巡回といったことまで頭は及ばず、ただ夜の秋に放り出される。リアルの戦場の緊張感は推して知るべくもないが、「夜の秋」は私達読者を、確かな空気と実感のある場所に強引に立たせる。

結局、これら二句にとっての季語と定型の役割とは、「俳句作品として読者に読まれるために要請されるもの」というきわめて通り一遍の事実であろう。そしてこれらの俳句作品が、(そうでない俳句と比較した場合には)きわめて密度の高い主張・思想とともに書かれていることは疑いようもない。そうしたものをただ発話するのではなく、一句に仕立てるということ。これも俳人の本領であると言わなければならず、掲出した句は、その力が発揮されている二作であると思う。


のびのびと手首の創をなめくぢり
葛水のいづれ炭水化物われ

これら二句は、身体に材料を取った作である。あくまで自己の身体として読んだほうが良いだろう。
一句目について、週刊俳句594号掲載の瀬戸正洋「雑文書いて日が暮れてⅤ」では次のように解釈されている。

>手首の傷というと物騒なことを思いうかべる。「のびのびと」とは、手首を動かすと創が伸縮すること。さらに、こころも落ち着きたいということなのだろう。

前半に関しては同意であるが、「のびのびと」に関しては、私は「なめくぢり」に係るものとして読んだ。手首にある創を、のびのびとなめくじが這っている。景としてはそのように読むほうが自然であるように感じる。(無論、切れの所在がはっきりとはしないゆえ、どちらに確定できるというものでもない。)
なめくじと手首の創、どちらがより自分にとって切実であろうか、と考えたときに、もちろん手首の創である、と即答してしまうのはやや幼い感覚であろうか。しかし手首に創を刻むということは、少なくともそれを自傷として解釈した場合には、病的で(語弊はあるが)幼稚な行いである。しかし、それを冷めた目線で見つめている自分も併存しているのが、この病理の恐ろしいところかもしれない。それはなめくじのぬめぬめとした肌触りを媒介されて、自分と世界の間の境界=創口を融かしていくものである。幼稚と達観の矛盾、痛みと肌触りの距離により、具体的な自己の肉体が、抽象的に再構成されている。

二句目に関しても、葛水という健康的な季語と、「いづれ炭水化物われ」という達観が共存している。今ここに生きていて、健康を志向するような生々しさと、化学物質として「われ」を見つめ直す反省とが混ざり合うことで、一度自己が解体されても、なお残る「われ」が立ち現れる。「われいづれ炭水化物」と「いづれ炭水化物われ」とでは、最後に自覚があるかないか、という点で根本的に異なるものであるように思う。

自分と世界、具象と抽象を媒介し、それでも最後にのこる曖昧なものをぽんと投げ出すような性質が、これら二句には共通している。「ニンゲンけダモノ」という、同一とも反対とも明示しがたい名詞ふたつを並べた本連作のタイトルにも、同様の匂いを感じずにはいられない。(もちろん、一文字だけひらがなで残された「け」――毛、だろうか――の存在にも注目せずにはいられないし、そこから立ち上る生のイメージに関しても、前に取り上げた人間の残虐性・野蛮さを抉り取った二句との関係を考えられると思う。)


裏切の水鉄砲を受けて立つ
自宅警備員駆けだす稲妻へ

「ニンゲンけダモノ」の中で、これらの句はある種の俳味を担っている。批判性や意志という難渋な性質のものだけで尽くされないところが、この連作の妙である。

一句目は水鉄砲の句であるが、そこに無邪気さはない。人間は裏切る存在であり、そこにはいろいろな原因が存在するのだが、とにかく最後は相手の意志である。それは突然自分に対して牙を剥く。もはや仲間は仲間ではない。説得は無意味だ。たとえ言葉が通じたとしても、「裏切」というきわめて重い選択をした相手は、そうそうその決定を翻すことはないだろう。だから受けて立つ。受けて立つ以外に、敢然と対応する方法はない。水鉄砲は子供の遊びにすぎないかもしれないが、子供の遊びは往々にして人間の醜い本質を顕にしてしまうものである。
こう読んでいくと非常に重たいテーマである。しかし、実際の景としては子供と子供の遊び、それ自体には何ら変わりがない。可愛らしさすらあるが、前後に並べた句の影響もあってか、深読みさせられてしまう。もしかしたら、裏切った方も、裏切られた方も、はしゃいでいるかもしれない。その出発点に思い至ったときに、なんて人間は面倒くさいのだろう、と自嘲の笑いがふとこぼれてくる。

二句目には、「自宅警備員」というなかなか俳句では見ることのないネットスラングが用いられている。ひきこもりの人々が、ネット上で自分の職業を語るときに冗談めかして使う言葉であったが、コミックマーケットでは、まるで機動隊のような格好をした「自宅警備員のコスプレ」をした人々が登場するのが習慣化していたりもする。まずその言葉選びに気の抜けた感じがするのだが、それが稲妻へ駆け出してしまう。滑稽と同時に物悲しさもあるが、それを今の社会と結びつけたときには、痛烈な社会批判の句へと転じると思う。もはや彼らには、稲妻へ駆け出す以外の選択肢がないのではないか。そして、私は彼らであったかもしれないし、これからもそうなりうるのである。いずれは我々すべてが、あの稲妻の落下地点へと導かれていくのかもしれない。


手を叩く音聞けば手を叩く夏

国民性を表すジョークで、難破船から脱出するために乗客を飛び込ませるために船長がどのような発言をすべきか、というシチュエーションにおいて、日本人に一番効果的なのは「みんな飛び込んでますよ」と言うことだ、というものがある。右ならえ右というか、付和雷同的に、周囲がやっているからその意味や帰結を想像することなく自分も同じ行動を取る、というのは、日本人に特有なのかはさておき、私達が日常的に体験することである。周りが笑っていれば笑うし、手を叩いていれば手を叩いてしまうのである。
賛辞を送ったり、讃えたりするときは、自分から率先して手を叩いてしかるべきかもしれないのだが、どうも私達は最初の一人になるのをためらいがちである。大半の人は、周囲の音が次第に大きくなってきてようやく手を叩く。なにかの表彰式か、あるいは演説か。大してエールを送るつもりもないのだが、周りがやっているからなんとなく手を叩いている。そういう群衆を俯瞰するものとして「夏」がある。
一句の出口として用意された「夏」は、何を意味しているのだろうか。今年の夏は非常に暑かった。隣の人も自分も汗だくで、同じ場所を見つめ、耳を傾けているのに、手を叩くことについてはまるで乗り気ではない。わざわざこんな暑い日にこんな場所まで出てきているのに、自分の意志もはっきりしない。「夏」とはっきり言われて読後に残るのは、途方もなく大きな不安だ。それを向ける先が、自分なのか、他の誰かなのか。あるいは群れで生きる「けダモノ」でしかない「ニンゲン」なのか。


普段、呑気に生活や身辺や動植物をうつしとるだけの俳句を作る自分を顧みて、そこになんらかの意志があるのか。ただそういうやり方に則っていれば、それなりの句が生まれてくるからそうしているのか。厳しい目線を自分へと転じるのは、はっきり言ってかなりの不快感を伴う行為であり、どこか刺されるような感じのある連作であったと思う。だがそこに「ぎこちなさ」はなく、内容の鮮烈な句というだけで収拾をつけることはできない句たちだ。
俳句形式をこれだけ活かしながら(むしろ活かすからこそ)、こういうことが言えるのだ。重厚なテーマを上にのせていても、これらの句からはかろみが失われていない。そういうところに深い驚きを覚えた。


※地雷の誤作動として読んだが、一応「ひとりでに」爆発する地雷があるかどうかを調べてみた。ピースボートのHPにある、地雷の基礎知識(2016年版)によると、

>6.スマート地雷
自己破壊装置、または自己不活性化装置付きのためスマート(かしこい)地雷と呼ばれます。一定時間後に自爆したり、爆発しないようになります。しかし、これが正しく動作する確率は7割以下という報告もあり、本当に無力化しているかどうかは爆発させてみないと分かりません。

こういったものが存在するらしい。ただ、誤作動にせよスマート地雷にせよ、作品の解釈にはさほどの影響を与えないのかもしれない。この作品に有るのは、「踏まれて爆ぜるはずのもの」が「ひとりでに爆ぜている」という事実、そしてそれへの驚きであるからだ。




堀田季何 ニンゲンけダモノ 10句 読む 
森尾ようこ くらげ 10 読む
池田奈加 少年 10 読む
浜松鯊月 君の背に 10 読む

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