【週俳7月の俳句を読む】
作者は死なず
浅川芳直
マンモスの肋くぐりて涼しさよ 金山桜子
この句にほとほと感じ入った。といっても、その巧さではなく「涼しさ」に独特のものを感じたからである。俳人はさまざまなものにこの「涼し」という感覚を見つけてゆくが、マンモスの骨とはなんという自由さだろうか。博物館に大がかりな特別展がやってくるのは、およそ夏休み企画である。外の炎天下とは落差のあるひんやりした空気が、展示場はいわば死骸を飾る死の世界だということを否が応にも訴えてくる。おそらく目玉展示のひときわ大きな骨をくぐったとき、その空間のなかで抱く感覚は容易には表現できぬ不思議なものだろう。その万感を一切抹消しての「涼しさよ」である。大真面目でありながら肩の力の抜けた感覚が、いかにも等身大の人間を見るようで面白い。掲句には、生と死についての物思いも博物館で得た知識も、すべて飛ばしてしまうような作者の実感だけがある。しかしさらりとした表現の奥にはやはり、展示を見終えた万感が沈殿しているようだ。この巧まざる二面性はまさに自然体の句の面白さ、良さだと思う。作者の感じ方・物の見方に、黙って通じてゆきたい一句である。
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ところで今回「週刊俳句」の七月分の作品を読みながら、作句への姿勢・信条について少し考えてみた。というのもそこに無自覚だと、往々にしてつい自分好みの造りの句だけを不当に高く評価してしまう、逆に取り上げるべき句を見落としてしまう、といった弊に陥るからである。「俳壇は内輪褒め体質だ」といった論が最近生じているが、何のことはない、誰でも好みは偏ってしまうと思う。もちろん佳い句は、どんなに表現が奇妙でも、内容が特殊でも、その人の芯がありさえすれば伝わる。しかし良い句を見逃さないようにするには、自分の俳句理念は括弧に入れ、頭ではなく胸で作品にぶつかる作業が必要だと思ったのである。
たとえば俳句を「書く」という行為を自覚的に引き受けているか、そうでないか、という態度の違いは意識したいと思っている。山本健吉が指摘しているように、「書く」という行為によってなまの発話の場面から切り離された言葉は理念性・抽象性を帯び、それゆえに読者が「現実の池や蛙ではない、もっと真実な何ものかをそこに見る」(山本健吉『俳句の世界』、講談社文芸文庫版、p.116)ことを可能にする。こうした書き言葉の特性に強くコミットメントしようとする作者が内容よりもフォルムの点で新しさを追求すると、ときに難解という評価が加えられることもある。しかし内容以上に一句の雰囲気や表記そのものの面白さが、そうした作品の魅力ともなる。他方「書く」という行為の抽象化・理念化の働きに積極的になれない人(ないしそういった議論に無関心な人)は、感受性と直感をたのみに自分にとっての現実を作品化しようとする傾向をもつ。私などは「書く」ではなく「詠む」と言いたい派だが、表記の効果というよりも内容と音とのひびき合いを重視するようである。ときに古ぶるしい作品となる場合もあるかもしれないが、現場性を大事にすると言ってもいい。こうした創作の上での態度の違いが、ときに不毛な対立を生むようだ。「意味がわからない句はダメなのか問題」「ウソを詠んではダメなのか問題」などは、多分にこうした俳句観の違いが問題の背景にあるかもしれない。
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そうした意味で要注意の作品なのは、紆夜曲雪さんの「Snail's House」である。と言うのも人によって「わからない」と一蹴するか「素晴らしい」と絶賛するかが分かれる作品だと思うからである。この作者は今年まで筆者とはずんだ句会で遊んだ仲で「むじな」のメンバーでもある。だから筆者としては身内のつもり、手放しに褒めるのではなく、句会で批評し合うようなつもりで、一句友として短評を述べたい。
涼しさの火籠りの眸のふたつづつ 紆夜曲雪
優曇華や空き家よりこゑある日々の 同
睡蓮ににやんにやんとみづ湧くこゝろ 同
蟬茸の記憶の紐やかよひあふ 同
作者はかなり自覚的に、「書く」という行為にコミットしていると思う。筆者は氏が過去の俳人の文体をよく研究していたのを知っているし、今回の作品も直観に頼るというよりは、Snail's House(ミュージシャン)のミュージック・ビデオのまったりとした雰囲気にマッチするよう巧みに書き上げられた意欲作だと拝察する(勘違いだったら許されよ)。加えて表記にもの言わせるスタイルは紆夜曲雪さんの得意とするところであるが、句の内容について開き直った態度を取っているために、言葉を強くしようとしてギクシャクすることがない。
しかし身内の心配性だろうか、ときに雰囲気だけで押し切る一面が気にかかるのである。おそらく紆夜曲雪さんは、内容・素材の力に頼らず、言葉だけでどれだけ一句に雰囲気を作れるかを工夫されているのだと思う。そういった理論的な面を勘案すればこれらの句は確かに成功しているだろう。ただし、本当の佳句とは主義主張や文学理論に関係がなく、一句読み下したときに胸にひびく句のはずである。作者の狙いは一度括弧に入れ、頭ではなく胸で作品を受け止めるべきではないか。かくしてここは私の感じるまま、私の鑑賞で突き進みたい。繰り返すけれども、本当に良い句は作句上の立場、文学理論上の面白さに関係なく、読者に訴える何かがあると思うからだ。
涼しさの火籠りの眸のふたつづつ 同
目が二つずつというのはわかりやすいくらいわかりやすいが、「火籠りの眸」という措辞は、果たして一句のなかで効いているのだろうか。火祭りか何かだと取ると、わかる・わからないという意味の問題以前に「涼し」の感覚に共鳴することが難しくなる。あるいはその不整合を諒とするかどうかに、作句姿勢の違いが現れるのかもしれない。しかしそれにしてもパッと読み下したときに全体が曖昧だと筆者は思うのだが、これは筆者の鑑賞眼の問題だろうか。
優曇華や空き家よりこゑある日々の 同
取り合わせの妙は相変わらず、さすがだと思う。内容の不思議さに面白さがないわけではない。しかしまあそれだけ、内容の突飛さのために作者の顔が見えてこず、訴える力に欠ける憾みがあると思うのだがどうだろう。
睡蓮ににやんにやんとみづ湧くこゝろ 同
読む側としてもまず頭で受け止めてしまうようなところがある。「にやんにやんとみづ湧くこゝろ」。好みを言えばだらだらと水の描写を伸ばさないで湧水をきちっと言い切ってほしい。もちろんそこを評価する向きもあろう。しかし季語に旧かなで「みづ」の字面を取り合わせて情感を作るのはもはや手垢の付いた常套手段となりつつあるし、水に心では言葉先行、擬態語のポップさも流行を取り入れた感があって、損をしているのではあるまいか。借り物の感覚という印象が生じて、素直な鑑賞を邪魔してしまうようでもある。そうそう、「むじな 2018」ではこんな句があったね。
木蓮にほほゑみはこゑ在らぬとき 同
古りし字ゆこゑこぼれ来し竹の秋 同
花林檎みづかがみへと日の手触る 同
筆者はこれらの句への賛辞を惜しまないが、今回の十句を見ると、「こゑ」「みづ」という表記から入っていく手法が、個性というより癖になっているのではないかとも思う。どうかこの点を考えてみてほしい。
少し手厳しく書きすぎたかもしれない。しかし筆者は、進歩し続ける君の意欲作を前にして「よかったね、いい句だね」とだけ言って終わらす気にはなれないのだ。紆夜曲雪作品の場合、「雰囲気しかない」ということはまさに作者の狙っていることであろうし、筆者の繰り言などつまらぬ難癖かもしれない。あるいは、筆者はうっかり「作者が見えてこない」と述べてしまったが、「これはもう俳句観の違いに訴えた難癖である。言語で何かを表現するということは、現実をコピーすることではない。〈ほんとうらしさ〉など作品にとってどうでもいいのだ。浅川は俳句観の違いから紆夜曲雪作品を不当に低く見積もっている」、と反批判を受けるかもしれない。
しかしここで本格的に文学論へ首を突っ込むことはしない。というのも筆者は、何も議論をして相互理解を深めることなしにでも、紆夜曲雪の作品の魅力をたとえば次のような句によって存分に感じ取ることができるからだ。
生きて会ふその風の世の籐椅子よ 同
すれちがふたびにほたるとなりにける 同
この二句はたとえフィクションであろうと、筆者の胸に訴えてくるものがある。その理由を考えてみると、やはり借り物ではない本物の紆夜曲雪さんの感性がしみじみと行き渡っているからではないかと思う。句を鑑賞するうえで、「実際の作者からして……」と言うのは禁じ手かもしれない。紆夜曲雪という号もなるべく生身の人間らしくない名前にしたいということで名乗っているそうだから、作者らしさ云々を持ち出すことは本人としても不本意だろう。しかしこの二句には、作句上の立場を超えた強い力があり、しかもそれは紆夜曲雪の心からの表現となっているかどうかの違いではないかと思うのだ。
「心からの表現」ということで、筆者は何も「事実通りの事柄」といったものを意図しているわけではない。たとえばタイトルになったミュージシャンの音楽世界の借り物ではない、紆夜曲雪自身の詩性、といったことを意図しているのだ。〈生きて会ふその風の世の籐椅子よ〉〈すれちがふたびにほたるとなりにける〉。この二句は、たとえ本人が生身の人間らしさを離れた句を志向しているとしても、消しきれなかった「いかにもこの作者」という感覚が魅力の源泉であると思うのである。
生きて会ふその風の世の籐椅子よ 同
見方によっては、「生きて会ふ」はもってまわった言い方で嘘っぽいし、「その風の世」も曖昧である。一句として景を結ぶのは籐椅子だけだ。しかし世界に対する、あるいは風に対する紆夜曲雪のリアルな態度が、この観念的な表現を見事に基礎づけているように感じられる。ここまで吹っ切れてこそ句を「書く」人の句として一級の作だと思って瞠目した。
すれちがふたびにほたるとなりにける 同
すべて平仮名という特殊さがあるが、けっして不自然さを感じさせない。ずんだ句会のみんなで蛍狩りに行ったことを思い出すと、作者の歩み、蛍を待つ姿勢が、この一句のなかに結実しているようにも思える。作者は観念的・抽象的な句のつもりだろうが、それだけでなく事実の強みをも感じさせる。仁平勝は「日常ごく普通に使われている言葉が、俳句という定型に収められると、ある比喩的な効果が生まれる」(『シリーズ自句自解Ⅱ ベスト100 仁平勝』, ふらんす堂, 2018, p.113)と指摘し、これを「俳句的喩」と呼んでいる。掲句の「ほたるとなりにける」はおそらくはこれとは逆で、作者が蛍に変身しているという何かの比喩が俳句の形式に収まることによって、蛍が光ったという実景を喚起させるようにも機能していると言うべきだろう。これも句の背後に紆夜曲雪という人間の感覚がいきいきと働いていることの効果ではないか。多くの読者はたとえ作者を知らずとも、なるべく作者に寄り添って鑑賞しようとするものだ。そのときに強いのは、作者の芯から出て来た発想・表現だと筆者は思う。
以上、紆夜曲雪さんには、だいぶ失礼な言葉を吐いた。しかしこれは先ほど述べたように一句友の歯に衣着せない感想であり、誤解があればお教えいただきたいし、また反論も承りたい。切り捨て御免は筆者のもっとも嫌う批評態度だからである。今は仙台と東京で遠く離れてしまっているけれど、いよいよのご健吟を祈っている。
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この時点でだいぶ字数を食ってしまっている。このままでは「身びいき」の誹りを免れないので、七月の作品から私の琴線に触れた句を掲げ、その責めをわずかでも塞ぐこととしたい。
脳の襞さわぐ万緑かがみの間 加藤知子
湯浴みの時間蜘蛛たれさがる時間 同
〈脳の襞〉の観念。万緑の映る鏡のかがやき。コントラストの印象鮮烈である。〈湯浴みの時間〉とは、昼の風呂か。「時間」のリフレインが印象深い。ケの日常の中のハレを切り取る視線である。
コイントスの表裏炎天漂へり 吉田竜宇
コイントスをスローモーションで捉えるおもしろさ。「漂へり」の思い切った主観が、炎天の空気を表現して余すところがない。
馬群れてゐる幻や麦の秋 西村麒麟
「幻」。甘く浮きがちな言葉だが、その甘さを抑えた何気ない詠み方は尋常でない。幻の馬、なんと素敵な、ゆったりとしたひびきだろうか。黄金色に輝く風まで感じられるようだ。キルギス映画に出て来るような、颯爽と駆ける馬ではない。田舎の駄馬だ。道端で馬がのんびりと馬ングソこいていたような時代が目に浮かぶ、ノスタルジックな一句である。
ねばりとかがんばりとかと夏を病む 紀本直美
草いきれふつうに家族いる暮らし 同
平常心ということを強く感じた一連。本当はもっと多くの字数を当てて触れたかった。生活に密着して素朴に詠出された作品群。「夏を病む」という小さなひとひねりが新鮮である。「ふつうに家族いる暮らし」というつぶやきにも共感した。
汗の子のかうべ重たく梳る 金山桜子
前掲の〈マンモスの肋〉同様飾らぬ実感。軽いと思った赤ん坊の体感を言い留めて巧みである。この作者、風景よりも人間の生活が大きい。いや人間よりも「私の感覚」が大きく出ている。
職やめる決意ぐらりと夜の蟻 秋月祐一
「ぐらりと」は夜の蟻の動作ではなく、職をやめる決意であろう。茶化すような言い差しが、かえって離職の決意の強さを印象づけている。ユーモラスな味わいの中に、骨組のしっかりした、まじめな句である。
2018-08-19
【週俳7月の俳句を読む】作者は死なず 浅川芳直
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