【週俳8月の俳句を読む】
雑文書いて日が暮れてⅤ
瀬戸正洋
谷口智行の「熊野、魂の系譜Ⅱ『熊野概論』」(書肆アルス刊)を読む。「石の心―スピノザと尾崎一雄」が面白かった。尾崎の短篇「石」は、「群像」昭和32年7月号に発表され、翌年7月の「親馬鹿始末記」(文藝春秋新社刊)に収録された。昭和33年といえば、谷口の生まれた年だ。発表直後、梅崎春生は「私小説家も、石を書くようになったら行きどまりだ」と書き、尾崎一雄は、それを読み喜んだ。谷口智行は、この尾崎の作品から「死に石」「生き石」について引用し、熊野を論じている。
熊野灘の大波小波によって砂利が発する声を終日聞いている谷口にとって「御浜小石」とはスピノザのことなのである。それで、十分であると思う。何も、尾崎の「死に石」「生き石」を引っ張り出し、再度、考えることなどない。だが、尾崎の短篇「石」を読み、谷口の頭のどこかに何かが引っかかったのだ。
谷口の引用したスピノザの「投げた石が自らを意識したなら、自分(石)は飛んでいると思考するだろう」が私の脳裏から離れない。離れないものを無理に離す必要はないと思う。だから、そのままにして、日が暮れるまで、この雑文を書いていこうと思う。
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塀一面弾痕血痕灼けてをり 堀田季何
真っ先に「灼」という文字が目に入った。漢和辞典で調べると「①やいと②あぶる③あきらか(灼然)④あつい」とあった。「灼然」とは、「神仏の利益や霊験などのあらたかなさま」のことである。「灼けてをり」とは、自分の力ではどうすることもできない何かに対しての怒り、あるいは、哀しみ。とどのつまりは作者の弾痕に対しての、こころの動きなのだと思った。
裏切の水鉄砲を受けて立つ 堀田季何
人を殺すには水鉄砲で十分なのである。殺したかったら殺したいと思えばいいのだ。これは、日常のなかのひとこまなのである。こんなことは毎日あるのだ。ひとは、無意識のなかで裏切るのである。堂々と受けて立てばいいのである。
もしも、裏切られたくないのなら家に引きこもっていることが肝要なのである。畳のうえに寝ころびながら苦吟でもしていればいいのである。
箱庭の小屋に潜伏切支丹 堀田季何
怠けもので日和見の私には、ただ、ただ、尊敬するだけである。「潜伏切支丹」というだけで十分なのである。私には、いのちを賭けてやるべきことなど何もない。
この場合「箱庭」が要なのだろう。「灼」「裏切り」「箱庭」と書く、作者は何かに迷っているのかも知れない。
蚊より人殺すのはヒト火を熾す 堀田季何
正気と狂気のあいだを彷徨っているのだと思う。殺すのは人ではない「ヒト」なのである。「ヒト」と表記したことで正気はまだ残っているのかも知れない。生きるとは綱渡りである。「運」がすべてなのである。だから、私たちは神さまに仏さまに祈るのだ。ただ、ひたすらに、自分だけ幸福になりたいと祈るのである。
さまざまな星に生まれて昼寝覚 堀田季何
誰もが自分の考えとは全く関係のない未来を持っているということなのである。昼寝から覚めたとき気弱になることがある。不快な夢を見たときなどなおさらである。だから、ひとつを選ぶことは、そのひとにとって全てなのである。自分は「運」を持っていることを確信することが大切なのである。あとは、ゆっくりと疑い深く歩いていけばいいのである。
葛水のいづれ炭水化物われ 堀田季何
葛水は旨いと思うよりも先に、からだのなかで、糖質と食物繊維とに分かれていくということが頭を横切った。このことは幸せなことなのだろうか。おだやかに生きていきたいと願う老人にとって知識などどうでもいいことなのである。むしろ、そんなことなど忘れて葛水の味を、ゆっくりと楽しみたいと思う。
のびのびと手首の創をなめくぢり 堀田季何
手首の傷というと物騒なことを思いうかべる。「のびのびと」とは、手首を動かすと創が伸縮すること。さらに、こころも落ち着きたいということなのだろう。だが、何か、ちぐはぐさを感じる。目の前のなめくじりに、塩をかけるかかけないかは、このひとにとっては、いちばん大切なことなのだろうと思う。
手を叩く音聞けば手を叩く夏 堀田季何
こんな人生が理想なのかも知れない。誰かが手を叩いたから何も考えることなく手を叩く。これは日和見とは真逆の行為なのである。事の成り行などどうでもいいことなのだ。何も考えない。ただ、手を叩く音に魅かれてしまって手を叩く。今年の夏は暑い、暑過ぎる。この暑さが、思わず手を叩かせてしまったのかも知れない。
ひとりでに地雷爆ぜたる夜の秋 堀田季何
季節の変わり目が何かを感じたのである。故に、夜の秋が事を為したのである。ひとには見ることのできない何かが地雷を作動させたのである。悪意を持てば、このようなことは日常茶飯事なのである。ひとは「悪」である。生きるとは「悪」を垂れ流していくことなのである。だから、「悪意」は、注意深く拒むことが肝要なのである。故に、無理をしてでも、誰にでも微笑まなくてはならないのである。
自宅警備員駆けだす稲妻へ 堀田季何
これは何かの象徴なのだ。日本国中の自宅警備員は駆け出すのである。どこへ向かって駆け出しているのか誰にもわからない。ただ、駆け出した自宅警備員だけは、当然のことながら、その理由を理解しているのである。自分が稲妻に向かって駆け出さなければならないことの理由を理解しているのである。
水母拾ふ海の一部のこぼれけり 森尾ようこ
水母を拾うことができたのは海がその一部こぼしたからなのである。それが解っているからこそ「拾う」ということばが出たのである。世のなか、自力で何かをしたなどと思うことは自惚れなのである。生かされていることを自覚し、うつむきながら歩く。そして、恥ずかしそうに何かを言わなくてはならないのである。誰も聞いてくれないからこそ、恥ずかしそうに何かを言わなくてはならないのである。
圏外と思ふ水母の体内は 森尾ようこ
圏外とはある条件の枠の外のことなのである。つまり、ある条件とは何であるのかが問題なのである。そこで、それを考える取っ掛かりは「水母の体内」なのである。体内の反対語は対外である。体内は圏外のことであり、対外は圏内のことなのである。それを理解することで、はじめて、水母もひとも面白く生きていくことができるのである。
いいねするたびにくらげのうまれけり 森尾ようこ
気に入ったものを評価して他者に知らせる。それが「いいね」なのだという。気に入ったものはそう思えばそれがすべてであり他者に知らせる必要は感じない。この考えが「老い」ということなのである。だが、そうするたびにくらげが生まれるなら、老人は、それについてとやかく言ってはいけないと思う。
寿命あと一年ほどの闘魚かな 森尾ようこ
毎日をおだやかに、そして、平凡に過ごしたいと願う老人にとって寿命など知りたくはない。知りたくないことを知らないで過ごすことは幸福なことなのである。それにしても、闘魚とは勇ましい名前である。寿命があと一年と知った闘魚の闘争心は、さらに磨かれていくのか。それとも鈍ってしまうのか。そんなことしか考えることのできない愚かな老人なのである。
金魚進む金魚の糞もつづきけり 森尾ようこ
しかたのないことなのだと思う。金魚の糞とは後悔のことなのである。ろくでもない人生の付けが死ぬまで続くということなのである。思い出したくないことばかり。さらに、この先も、馬鹿々々しい暮らしの繰り返しなのである。目の前に道は開けるなどと思うことは愚かなことなのだ。ひとは金魚と同じように、限られた水槽のなかをぐるぐると回ることだけしかできないと観念した方がいい。
結婚記念日金魚の口の奢りやう 森尾ようこ
金魚の餌にランクがあるのかは知らないが、この金魚は、口が奢っていて普通の餌には目もくれないのである。ひとも、結婚記念日くらいは贅沢な食事をと思ってみても、決められたものしか食べることができないのだ。血圧、血糖値、さらに、他の数値等々気にしなければならないことがやまのようにあるからである。
新涼の何か逃げ込む蛙股 森尾ようこ
秋になり涼しさを感ずるようになったので、神社(寺)にお詣り(お参り)に行こうと思ったのである。蛙股のあたりを何かが動く。猛暑のころには、こころに余裕などなかったので気付くこともなかった。こころに余裕が生まれたからこそ、何かが逃げ込むような気配を感じたのである。
来年も、この暑さがやって来るのだと思うとうんざりする。山村のくらしでは、冷房など不要であり扇風機で十分であった。ところが、今年の夏は扇風機を回すと体温より暑い空気が動く。体温より低い空気が動いてはじめて涼しさを感じることを知った。体温より高い空気が動いても不快なだけなのである。
矮星を見失ふ夜の芋嵐 森尾ようこ
恒星のなかの特に小さいものを矮星という。宇宙好きなひとは、巨星よりも矮星好きの方が多いような気がする。芋嵐とは、さといもの葉のうらおもてを見せるほどの強い風のこと。ややとぼけた野趣のある俳句的な呼び名であるという。
そんな強風に気を取られて矮星を見失う。見失ってしまうと不安を覚えるものだ。さらに、強風は不安を連れてやって来る。不安とは、何にでも連れられてやって来るものだ。新聞を読めば不安になる。テレビを見れば不安になる。ひとと話せば不安になる。誰とも会わなければ不安になる。死んでしまえば・・・・・・・。
龍淵に潜むけはひの空家かな 森尾ようこ
龍は、「春分に天に昇り」「秋分に淵に潜む」のだそうだ。「龍淵に潜む」とは、秋の季題である。何となく感じられることを気配という。空き家とは、ひとの住まなくなった家のことだが、そこに龍が潜む気配がした。「水を深く静かにたたえているような様子の空き家であった」などと澄まし顔でことばにしてみる。
とろ昆布のやうな星雲秋に入る 森尾ようこ
掛けそば、あるいは、掛けうどんのまんなかあたりにとろ昆布を置く。まだ、暑さも厳しく天ぷら、きつね、コロッケよりもさっぱりしているので食も進むのだろう。箸を割り、七味をふりかけたとき、星雲のようだと思ったのである。とろ昆布のそこから、だし汁がしみてくる。割り箸で混ぜあわせて思い切り啜れば、この暑さから解放されるのももうすぐだと思うのである。
蟬生まる十八歳の境界線 池田奈加
他者との境界線とは、基本があり、その先は、好き嫌いで変化していくものである。この場合は内なる境界線ということなので、経験、加えて、そのときの精神や肉体の調子も関係するものだと思う。
「蟬生まる」から、はかない生命などとお決まりの台詞をまじめな顔をして言うつもりはない。十八歳にもなれば、生きることの哀しさ、難しさ、馬鹿々々しさなど十分に経験したはずだ。これから先は、ひとの笑顔に恋い焦がれて生きていくしか方法はないことを知るべきだと思う。
弟に背を抜かされて見る花火 池田奈加
小さかった弟が自分よりも大きくなっていたということに驚いた。花火は見上げるもの、弟も花火のように見上げることになってしまった。親が子どもの成長をよろこぶということではなく、姉が弟の成長に対する複雑な感情を持ったといったところか。まいねん、同じ場所で花火を楽しむ家族なのだろう。
ベランダの影は散り散り夏の果 池田奈加
ベランダの影とは、その夏の日の想い出のことなのである。楽しかった夏休みも終わり、それぞれの生活にもどっていく。
満員の通勤電車の中で、カフェテラスの不味い珈琲を飲んだとき、事務所でPCを睨みながら、ため息をつく。そんな生活が、また、はじまるのである。
気がつけばひとり足りない解夏の朝 池田奈加
夏安居の終わる朝にともに修行していたはずの者がいなくなっていた。修行を途中で止めるほどの何事かがあったのか。からだを壊したのか。あるいは、修行そのものに耐えられなかったのか。他人のことにかまけている余裕がなかったので何も気が付かなかったのだ。
最良のこととは、ひとりいなくなったことを誰もが気が付かないことだと思う。夏安居のことを思い出したとき、そのことを誰もが思い出さないことだと思う。
盆休み深夜ラジオに散るノイズ 池田奈加
ノイズとは不要な情報のことである。音だけには限らない。だが、「深夜ラジオ」「ノイズ」となると何故か郷愁を誘うのである。青春時代がよみがえって来るのである。盆休みの深夜に何気なく聞いたラジオのノイズが散っている。
日々の暮らしのなかではノイズはつきものなのである。誰もがノイズに踊らされているのだ。それでも、それが人生なのである。貧しい人生なのである。
秋晴やフルスイングの四番打者 池田奈加
三振したのかホームランを打ったのかはわからない。だが、「負」の場合、つまり三振した場合は、見る側のコンディションによって、百八十度、感じ方は変わる。怖いことだと思う。ただ、「秋晴や」とあるので、ひねくれて考える必要はないと思う。
夕立に消えるファルセットの校歌 池田奈加
低い声で力強く歌うことのできる校歌よりも、こんな校歌に親しみを覚えるのかも知れない。作曲家は歌いやすさよりも美しさを優先したのである。たとえ、夕立に消えてしまってもかまわない。耳は、はじめの一小節からその校歌を思い出したのである。美しい校歌は、永遠に、そのひとの脳髄のなかを流れていくものなのである。
三度目のカーテンコール涼新た 池田奈加
観客、出演者のしつこさが面白いと思った。カーテンコールとは、どちらか一方の思い入れだけではできないことなのである。お互いに、それをすることを納得したから三度目になったのである。「涼新た」とは秋になって感じる涼しさのことをいう。
赤とんぼひとりで帰れますと言う 池田奈加
八月の終わりになると校庭に赤とんぼの大群が現れた。唱歌にもあるが、何百何千といった具合である。赤とんぼとはそういうものであると思っている私のまえに、一匹の赤とんぼが現れたなら、作者と同じように「ひとりで帰ることができますか」などと問うてしまうかも知れない。
味噌汁にしめじ入れるのは明日 池田奈加
老妻と交代で食事の支度をするようになった。歳を取ったので質素な食事でも健康のため、経済的にもいいという結論に至ったからである。ある日、なめこの味噌汁を作ったら老妻は一口も食べなかった。「四十年近く暮らしていて、私が『なめこ』が嫌いなことを知らなかったの」と言われた。明日は、『しめじ』の味噌汁を作ろうと思う。
ふらここの軋みてここは石の街 浜松鯊月
石の町ならば石切場のある町なのだろう。だが、石の街であるから石に関係する何かオブジェのある都会の、とある場所ということなのだろう。ふらここが軋んでいるのだから、それなりの年月が経っている公園のようなところなのかも知れない。作者は軋む音から何らかの石のイメージを嗅ぎ取ったのだ。
ふらここは春の季題である。子孫繁栄、作物の豊穣を祈る儀礼に使われた乗り物であるという。故に、石の街にこそふさわしい遊具なのかも知れない。
船笛の低くとけゆく海朧 浜松鯊月
船笛とは信号伝達の手段である。面舵、取舵等々、それぞれの意味はある。だが、作者は船笛を聞くことにより詩情を覚えたのだ。船笛の低い音が詩情をさらに深めたのである。溶けていった船笛の存在、船そのものを海の記憶から消してしまうのは朧なのである。
糊残るワンピース着て山笑ふ 浜松鯊月
自嘲なのかも知れない。自嘲と山笑うとは似ている。春になると稜線はうす緑色にふくらみ山が動いているように見える。自嘲とは、そんなこころの動きに似ているのかも知れない。解っていてワンピースを着たのか。そのことをあとで気付いて照れ笑いをしているのか。それは、どちらでもいいことだと思う。山は笑っている。
花冷えや道着の帯を締め直し 浜松鯊月
花と武道とは似合うのである。帯を締め直すとあるから柔道、あるいは空手なのだろう。満開のさくらのなかの武道場。渡り廊下の先は体育館、校舎と続く。ある雨の日の放課後、新入部員を集めて帯についてのもっともらしいうんちくを語る。あるひとから聞いたのだが、強い者ほど帯の締め方が速いのだそうだ。
初蟬の一息の間の静かなり 浜松鯊月
暑かった夏も終わろうとしている。神奈川県の西部では蟬の鳴きはじめるのが遅かった。海の日あたりからようやく鳴きはじめたのである。ひとばかりでなく蟬も気候変動に翻弄されたのかも知れない。「一息の間の静か」とは、正しいことである。
気候にも社会にも翻弄されず、正しいことをひとつずつ確実に行っていこうなどと、たまには思ったりしている。
片陰に火照る素肌の朱隠し 浜松鯊月
朱隠しとはどんな意味を持つものなのか、いくら考えても解らなかった。とどのつまり、自分の作品は他人には何の関係もないのである。関係があるとすれば、過去の自分との関係ぐらいなものだろう。過去の自分は、既に、他人なのである。創作とは生々しい体験をことばの力を借りて整理すること。あるいは、何らかの折り合いをつける(解答を得る)ためのものなのである。答えが出ているのなら何も苦労して句作などする必要はないのである。何もしないで空でも眺めていればいいのである。
抗口のただそこにあり露葎 浜松鯊月
露葎とは露の残っている葎である。葎とは白い花をつける雑草である。坑口とは坑道の入口であるが既に廃坑となっているのであろう。雑草はひとが忘れた場所を狙って繁殖する。雑草はひとのこころの空白地をも見逃さない。そして、ただ、そこに咲いているだけなのである。
ただそこにありとは、ただそれだけのことということなのだろう。
おにぎりの母には似ずや夜食とる 浜松鯊月
おにぎりの母に似ていないのはおにぎりの母なのである。おにぎりの母に似せる必要などどこにもないのだ。夜食など取りたくて取るものではない。ふとんにもぐり込みたいのをがまんして、しかたなく取るのである。夜は長く闇は深い。闇のなかでは、ろくな考えがうかばない。そんな時は、母の夢でも見ながら、とっとと眠るに限るのである。
君の背にピントの合わず狐花 浜松鯊月
子どものころは忌み嫌われている花だと思っていた。毒があるとも言われていた。最近は、畦道に咲く狐花にひとが群がりシャツターを押している。摘んで手に持つ少女もいる。いつから、こんなことになったのか不思議なことだと思っている。
ピントを合わせようとしたのは背中である。背中にピントを合わせようとする。そのことこそ、ピントがずれているということなのである。
霜柱歩くリズムも小気味よく 浜松鯊月
音の強弱、その繰り返しによって表現される秩序や調子のことをリズムという。リズムとは時間のことであり生きているということの基本中の基本なのである。考えることも書くことも息をすることも歩くことも、基本はすべてリズムなのである。小気味よく歩いているのは自分の意志によるものではない。霜柱がそのリズムをつくっているということなのである。
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畳のうえで寝転んでいると、目の前を、アオガエル、蟋蟀、飛蝗などが跳ねている。縁側から入ってきたのだろう。アオガエルは外に出してやらないと干からびて死んでしまうのでやっかいな客だ。風呂場で跳ねていたので外へ追い出そうとしたら浴槽に落ちてしまった。桶で救って、そのまま裏庭へ湯ごと放り投げた。蜻蛉や蜂は表の縁側から入り裏の縁側へと抜けていく。決して、裏庭から入ってこないのが不思議だ。
書棚を引っ掻き回し、句集「藁嬶」(邑書林)「媚薬」(邑書林)、エッセイ集「日の乱舞 物語の闇」(邑書林)、評論「熊野、魂の系譜―歌びとたちに描かれた熊野」(書肆アルス)の四冊を取り出す。今月は、のんびりと谷口智行を読んで過そうと思っている。
2018-09-09
【週俳8月の俳句を読む】雑文書いて日が暮れてⅤ 瀬戸正洋
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