2018-09-09

【山田耕司句集『不純』を読む】表情を繕いつつ  生駒大祐

 特集【 山田耕司句集『不純』を読む】
俳人から見た『不純』
表情を繕いつつ  

生駒大祐

言葉で書いてある本は世に数多あるが、言葉を書いている本はそう多くない。さらに、言葉を遊んでいる本ということであれば尚更だ。二〇一八年七月に刊行された山田耕司の第二句集『不純』はそんな稀有な句集の一つである。

『不純』に現れる言葉たちはどれも少しずつ意味をずらされて登場し、読者の期待に応えそうでいてすっと肩透かしし、一方で油断した読者の心臓を過たず一突きに射抜く。その営みはともすればネコ科の動物同士の戯れ合いにも映るかもしれないが、その牙は研ぎ澄まされていて全く油断ならない。

挿す肉をゆびと思はば夏蜜柑
煩悩やあやとりは蝶そして塔
肩に乗るだれかの顎や豊の秋
山々に足こそ無けれふところ手


「挿す肉をゆびと思はば」の生々しい表現からの「夏蜜柑」の言われれば必然の着地は想像力のある読者であるほど悔しがらせられるであろうし、「煩悩や」は意外なだけの上五であるように見せかけてou音が脚韻気味に響いて動かない。「肩に乗るだれかの顎」という色っぽさと気持ち悪さのきわきわをゆく表現に「豊の秋」を繋げる臆面のなさが憎たらしい。「山々に足こそ無けれ」の表現内容の面白さとその表現の驚きを軽々と超えてゆく「ふところ手」というさらに肉体的な季語の配置。

いずれも、「表現の巧みさ」と「ナンセンスへの愛着」の共存が表面に現れた句群だ。



意味領域で『不純』の全編を貫くテーマは「肉体及び肉体同士の関係性がつまびらかになる時の気味の悪さ」ではないだろうか。

いきんでも羽根は出ぬなり潮干狩
座布団は全裸に狭しほととぎす
名月や背をなぞりゆく人の鼻
おつぱいに左右がありて次は赤坂


いずれも強い肉体的感覚を読者に感ぜしめる句群であるが、特筆すべきはこれらの句の内容の行われている場所が公的な場であるという点である。「いき」むのは密室ではなく「潮干狩」という開かれた場所であるし、「おつぱい」を見つめる作者はおそらく東京メトロ地下鉄千代田線に乗っている。このプライベートな感覚が公の場で披露される感覚は想像するに露出狂的なそれに近いものがあるだろうが、作者はおそらく真顔でこれらを書いている。

エロティシズムとは近いようで遠いこの感覚はこれまでの俳句であまり書かれてこなかった領域だろう。



>> 左右社HP『不純』

作者の表現上の巧みさについては前半でも書いたが、この一種際物とも思えるこれらの意味上の主題に対して句がそれに終わらないのは従来の俳句の蓄積してきたものがこの句集にも存分に生かされているからだろう。

向日葵よ目隠しは本当に要らないんだな
水澄めり君なら月見うどんだらう


例えば前者は

向日葵や信長の首切り落とす 角川春樹『信長の首』

とイメージを共有しつつも、大胆な字余りが納まりきらない居心地の悪さと威圧感を表現しているし、後者は

ひかり野へ君なら蝶に乗れるだろう 折笠美秋『君なら蝶に』

を原風景としながら

三島忌の帽子の中のうどんかな 攝津幸彦『鳥子』

のずらしの系譜をしっかりと受け継いでいる。

これらからも『不純』が俳句の中で独立した存在というより、俳句の表現史の自然な拡張の一つであることを示唆していると言えよう。



句集『不純』の命名の由来はなんであろうか。不純とは「純粋・純真ではない」という辞書的な意味はもちろん含みつつも、どちらかといえば慣用句的に使われる「不純な動機」「不純異性交遊」などの言葉に近い来歴を辿っているように感じられる。

人間の心の中に確かにありながら、社会性という衣をまとった時に自然と覆い隠されてしまう後ろめたい部分。人間の動物性と社会性をぶつけた時に初めて現れる感情に読者を突き動かすという意味で「作者の不純さが書かれた書籍」ではなく「読者を否応無しに不純たらしめる装置」としてこの句集を眺めるとき、『不純』というタイトルは如何に適切かを感じ入る。

「表情を繕いつつ言葉を遊び、言葉に遊ばれる主体としての経験」を作者と読者が共有するという極めて不純な交遊がここには、ある。

服を着て逢ふほかはなし宵桜



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