2007-09-09

サバービア俳句について〔1〕

サバービア俳句について〔1〕
……… 榮猿丸×上田信治



サバービア(郊外住宅地)な俳句とは、なにか。

このアイデアは、榮 猿丸さんの、「サバービア俳句(1)」と題されたmixi日記で、はじめて提示されました(たぶん)。以下に、本人のご了承を得て、引用します。


平成俳句は、サバービア俳句である。と思う。
もちろん全国津々浦々で俳句は詠まれているけれど、
そういうことではなく。キーワードとして。「現代俳句」の現代性として。

そこにあるのは、豊かさと喪失感の綯い交ぜになった風景。
ドナルド・フェイゲンのIGY
ホンマタカシの写真
コーネリアスの新譜
なんかを思いつつ。
「俳句研究」10月号に、加藤かな文さんが
同8月号の「新・現代俳句集成」という特集について文を寄せている。その題が
「小さな感動だけを信じる」
まさにサバービア。
これぞサバービア。
庄野潤三的な。。。


あの話、もうちょっと聞かせていただいてみたら、と、天気さんより上田が下知を受け、猿丸さんと、BBS上の擬似対談形式で、サバービア俳句について対話がはじまったのだが、すぐ分ったことは、あ、これ一回で終らない。(信治・記)

2007年9月7日 22:05

信治: これは、かなり、射程の長いアイデアだと思うので、周りから、ゆっくり攻めていきたいと、思っています。よろしくお願いします。

猿丸: ぼくも日記を書きっぱなしで、そのあと何も考えていなかったので、お手やわらかにお願いします。

信治: ドナルド・フェイゲンて、どのへんが、サバービアなんですか?

猿丸: わはは。そこからきますか。彼の代表作でもある『ナイトフライ』(1982年作)の世界が、50年代アメリカの「サバービアの憂鬱」を表現していると思ったんです。

僕は彼の熱烈なファンではないから、詳しくは知らないのですが。1曲目の「I.G.Y」は、国際地球観測年の略で、1957年7月1日から58年12月31日の期間だったそうです。サビのフレーズが「素晴らしい時代がやって来る/自由になれる輝かしき時代」というもので、ひじょうに皮肉的に聞こえるわけです。

3曲目の「ルビー・ベイビー」は、当時流行っていたドリフターズの曲のカバーだし、その次の「愛しのマキシン」では、ティーネイジャーのぼくとマキシンの歌で、彼等は街が寝静まった頃、遊歩道で逢って「これから人生のことを話しあったり、郊外のスプロール現象のことを理解しようとしたりする」んです。

50年代アメリカのサバービアで青春を過ごした頃の憧憬とともに、なにか深い喪失感と諦念を感じる。そこになぜか安寧さがあるのが不思議なんですが。

信治: なるほど、もともとノスタルジーをテーマにしたアルバムだったんですか。しかも、過去を舞台に、近過去を懐かしがってるんですね。エレガントというか、ややこしいというか。

そのへんの時間のどこかで、何かが失われたんだという喪失感があるから、懐かしいんでしょうけど……ベタのノスタルジーではなく、薄い膜のようなへだたりがある。

そういえば、郊外には、へだたりの感覚ってありますよね。いいことは、よそで行なわれていて、ここにはなにもない、みたいな。

猿丸: へだたりというのは、ひとつには歴史や伝統から断絶している、ということがありますね。結婚して、親元をはなれ、郊外の新興住宅地に一戸建てを買う、というような。

もうひとつは、まさにドナルド・フェイゲンの歌ったような、一種の記憶の断絶。それが近過去へのノスタルジーを増幅させる。

スプロール化による乱開発で、子どもの頃遊んだ原っぱが、気がついたらスーパーマーケットになってたりして、景色や記憶がつぎつぎと失われるというような。だから、近過去へのノスタルジーを増幅させて、喪失感を埋めようとしても、ぜんぜん間に合わない。欠落したままです。

あと、周縁部であるということも重要かもしれません。「ここにはなにもない」感覚は、たとえばホンマタカシの写真なんか、そうですね。

信治: あ、周縁、たしかに。

郊外は、中心と対立すると云うより、中心にうすーく貼り付いた周縁で、いわゆる文化人類学でいう周縁とは、また、微妙に違うのかもしれませんが。

ぼくは、保坂和志の『カンバセイション・ピース』が、郊外っぽいと思います。世田谷あたりの一軒家が、舞台というかテーマで、そこは、いわゆる「サバービア」というより、戦後の「山の手」かもしれないんですが。

猿丸: 『カンバセイション・ピース』は読んでないんですよ。

信治: 保坂和志の他の作品とも共通するんですけど、小説らしくあることを、ずいぶん静かに拒絶してるんです。

人に変化が起こらないし、葛藤がないし、問題解決もない。人の何かが試されるような「事」なしで、人の何かを書くといいますか。あと、えんえん、横浜スタジアムのベイスターズの応援のようすが書かれていて、すごくおもしろい。

猿丸: まさにサバービアですね。結局ミニマリズムへと収束していく宿命を感じます。

信治: ミニマリズム。ちょっとキーワードっぽいですね。

あの、ホンマタカシの団地って、空っぽとか、失われた未来のシンボルとして働いてると思うんですが、サバービア俳句は、そういうシンボル(素材?)を俳句に、持ち込もうという話ではないんですよね。

猿丸: ぼくの句で恐縮ですが、〈看板の未来図褪せぬ草いきれ〉というのがあります。いま思ったんですが、これってまさに素材としての「サバービア」俳句ですね。未来がすでに懐かしいというような。でも、おっしゃるとおり「サバービア俳句」はそういう一元的な意味ではないです。

まあ、そうは言っても、やっぱりぼくが生きている現代の風景や空気感を詠みたい、それを詠まないでどうする、という思いは強いです。そういう意味で、対象としての郊外というのはぼくにとって重要なテーマでありつづけるだろうと思います。ひじょうにむずかしいテーマですが。

信治: いや、自分は団地好きで〈西日吸ひきつて団地の美味さうな〉とか、作ってしまうんで、つい。

いま「ぼくが生きている現代の風景や空気感を詠みたい」とおっしゃいましたが、保坂和志がですねえ、って、ぼくも、よっぽど好きなんですが『書きあぐねている人のための小説入門』という本の中で、70年代の映画は、70年代でしかありえない部分や限界があって、その部分が今もおもしろいんだ、作品にはその時代に要請されている何かがあって、それこそが、そう簡単に古びないものなんだ、ってことを云ってるんですよ。

それって、三鬼が意外と古びないっていってたのは、小林恭二だったかなあ、それと似たことです。
三鬼は、都市文学だけど、猿丸さんは、郊外に何かがあるんだとお考えですか。

猿丸: いや、都市も同じですよ。下北沢とか、新宿でもいいけど、風俗ではなくて、あの街の、いまの空気感を詠めたらなあと思います。

映画なんか、とくに空気感を閉じ込めてたりするじゃないですか。ぼくの好きな映画の基準って、「空気」ですから。あれにジェラシーを感じるんだな。

信治:  空気、詠め、ですねw いや、ごめんなさい。

さきほど、猿丸さんが「歴史や伝統から断絶」といわれましたけど、自分がサバービア俳句と聞いてすぐ分ってしまったのって、季語とか、伝統的美観を、ふしぎなものとして、振る舞うことが、自分にとって、俳句に接するはじめの身振りだったからだと思うんです。

だって、ぼくら(って、道連れにしちゃってますけど)お互い、俳句を「わざわざ」発見した訳じゃないですか。それは、てまえ勝手な発見の仕方で、もともとの俳句の価値観と一致するかどうか分らないけど、でも、そこを手放すわけにはいかない。

その、自然も文学も遠いなあっていうかんじが、サバービアか、と。

猿丸: まさにそうですね。いま言われたような意味で、平成俳句の光景としての「サバービア」というのが、やっぱり前提としてあります。

しかも、マイナーな文芸を、これまた文語というマイナーな言語でやってるという。極言すればぼくらにとっての季語とか文語って、歴史や伝統ではないから。むしろそうした帰属するものを失って、はじめて得た言語という気がします。

ただ、ぼくは、そうした状況批判的な、いや批判はしてないけれど、そうした意味での「サバービア」にはあまり興味はないんです。むしろ、そうした状況下にあって、何をどう詠むかというところに興味があります。…あれ、また空気読んでない?

信治: いえいえ、ぼくも自然や伝統が遠いことについて、愚痴を言ったり、開き直ったりする気はぜんぜんないですから。

そういえば、猿丸さん、以前、半分ふざけてでしょうけど、「俳句って(これから)キますよね」と、云ってたじゃないですか。あれって、俳句って、同時代的にこんなにかっこいいじゃないか、ということを云われていたように、思うのですが、、、、、そうじゃない?w

猿丸: そうそうそうそう。

たとえばコーネリアスの新譜とか聞くと、これ俳句じゃん、とか思うんですよ。あと、いわゆるストレート・フォトとか。さきほどのミニマリズムではないけれど、ひじょうに身近な自然や、日常のちょっとしたどうでもいいことやなんでもない時間を撮って、それが同時代の人間に支持されてる。こういう感覚を「サバービア」と捉えているんです。

信治: ああ、分ります。写真の話もしないと。・・・あのー、この話、連載にするか、すくなくとも前後編にしてもいいですか?

猿丸: もちろんいいですよ。まだ核心に到達していない!

信治: じゃ、一句ずつ、サバービアな感覚をかんじる俳句を、挙げてですね、次回の予告に替えたいと、思うのですが、よろしいでしょうか。

ぼくは、素十の〈とかげの手人の手に似て石に置く〉を。


猿丸:うわ、古! 平成俳句の話じゃないの…

じゃあ、ぼくは、子規の〈鶏頭の十四五本もありぬべし〉。前に、信治さんが「子規はサバービアだけど、万太郎はそうじゃない」ということを言ってたじゃないですか。なるほどなあと思って。 

信治: そうだ、俳句の話もしないとw じゃ、続きは、こんど、ということで。今日は、おつかれさまでした。

猿丸:おつかれさまでした。おやすみなさい。

2007年9月8日 1:31


≫サバービア俳句について〔2〕榮猿丸×上田信治
http://weekly-haiku.blogspot.com/2007/09/2.html

5 comments:

匿名 さんのコメント...

「サバービア」が適切なネーミングかはまだワカリマセンが、現代俳句について感じてたことを言い当てられた企画に思います。

「サバービア」的な感覚は、現代だけでなく例えば江戸後期にもあったのではないかと思います。
本質を見つけられず、予定調和的、オナニー的、逃避的なイメージがあるのですがどうでしょう?

後半、楽しみにしています。

匿名 さんのコメント...

とてもむつかしい議論でよく分からなかったのですが、「サバービア」、「既に懐かしい未来」という言葉は、1980年頃に密かなブームとなっていたように思います。

上田信治 さんのコメント...

>匿名さん ども。
「江戸後期にもあった」おもしろいです。江戸後期というと酒井抱一とかですか。ご教示ください。

「本質を見つけられず」「予定調和的」「オナニー的」「逃避的」あれ、ひょっとして、あんまり、いいイメージをお持ちでない? 

まあ、あの「バカにもいいとこ、あ〜るですよ」(byケラリーノ・サンドロビッチ)なので、気長におつきあい下さい。

>akiさん ども。
「1980年頃に密かなブーム」つまり、その、ドナルド・フェイゲンなどですよねw

ただ、「郊外」なるものは、タームとしては何度も消費されつくしてますが、「何度も」現われるところが、なんか、文化潮流(笑)として、しぶといんじゃないかと。

気長におつきあい下さい。

匿名 さんのコメント...

サバービアってこれのこと??
http://www.apres-midi.biz/index.cgi
さて、俳句と結びつくのでしょうか。

匿名 さんのコメント...

サバービアは、ひとつの概念だと思います。
現象として、いろいろな分野に出現はしますが。

ネット上で手っ取り早い参考は
例によってwikipediaでしょうか↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%8A%E5%A4%96