2007-12-23

後記+プロフィール 035

後記  さいばら天気  

今週の動画(目次の下のhaiku mp2)はクリスマス特集です。「へろへろとワンタンすするクリスマス」(秋元不死男)のような俳味のある動画はなかなか見つかりませんが、お楽しみください。

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「仮想書店」を作ってみました。トップページ右上のサイドバー「equipments」にリンクがあります。何を並べるのかというと、記事で取り上げた書籍、執筆者の既刊本、それから haiku mp2 に関連したCDなどを考えています。ときどきリンクをクリックしてみてください。アイテムがすこしずつ増えていくはずです。

ここからアマゾンを通して買い物していただくと、その3パーセント分の「amazon買物券」がサイト管理者のところに送られてくる仕組みだそうです。

……(疑惑のまなざし)

あっ、いや、その、それは誤解です。私腹を肥やそうだなんて考えてませんので…。もし商品券が届いたら、来たるべき週刊俳句賞の賞品だとか審査員への謝礼だとか、いろいろ使い道があります。

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今年もあとすこしとなりました。風邪など召しませぬようお気をつけください。

それでは、また、次の日曜日にお目にかかりましょう。



no.035/2007-12-23 profile
■中原徳子 なかはら・のりこ
1958年、香川県生まれ。「からまつ」「恒信風」同人。俳人協会会員。句集に『不孤』(角川書店2007年11月)。
■矢羽野智津子 やはの・ちづこ
1951年、東京生まれ。77年職場句会より作句。「冬草」「朝」を経て99年「知音」入会。94年10月より「豆の木」参加。


■仲 寒蝉 なか・かんせん
1957年、大阪市生まれ。「港」「里」同人。第50回(2005年)角川俳句賞受賞。句集『海市郵便』(邑書林2004年)、文集『鯨の尾』(邑書林2007年)。佐久市在住。
■仁平 勝 にひら・まさる
1949年東京生れ。著書に『俳句が文学になるとき』(サントリー学芸賞)『俳句のモダン』(山本健吉賞)『俳句の射程』(俳人協会評論賞、加藤郁乎賞)など。
■斉田 仁  さいだ・じん
1937年群馬県高崎市生まれ。1971年「麦」入会。現在「麦」同人、現代俳句協会会員。句集に『斉田仁句集』(1982年・八幡船社)ほか。

■中嶋憲武 なかじま・のりたけ1960年生まれ。「炎環」「豆の木」1998年、炎環新人賞。99年、炎環同人。03年、炎環退会。04年、炎環入会。来年、二回目の同人。

■上田信治 うえだ・しんじ 
1961年生れ。「ハイクマシーン」「里」「豆の木」で俳句活動。ブログ「胃のかたち」 http://uedas.blog38.fc2.com/

さいばら天気 さいばら・てんき1955年兵庫県生まれ。1997年「月天」句会で俳句を始める。句集に人名句集『チャーリーさん』(私家版2005年)。ブログ「俳句的日常」 http://tenki00.exblog.jp/



5 comments:

民也 さんのコメント...

 何があるかな?~俳句を観賞~ by民也

去年今年貫く棒の如きもの 高浜虚子

 ♪棒の如きに、何があるかな?

初箒まだ日当たらぬところより 津川絵里子

甘茶佛杓にぎはしくこけたまふ 川端芽舎

麺棒のとヾろきわたる宿の雛 飯田蛇笏

 ♪棒の如きに、何があるかな?

ストローの鳴りて終りぬソーダ水 渡辺径草

おん柱万の一人の我も曳く 村上一葉子

畳屋の肘が働く秋日和 草間時彦

火掻棒まつ赤に焼けて感謝祭 陽 美保子

 ♪棒の如きに、何があるかな?

大根で団十郎する子供かな 一茶

冬の山アンテナ伸ばし二歩下がる 民也

歯磨きやクリスマス・ケーキの無常 民也

去年今年貫くパンのソーセージ 後藤貴子


※はいはい今年も無事に、地球は太陽を一周しましたよ~

民也 さんのコメント...

 俳句は観賞だ! by民也

高浜虚子の俳句は「なぞなぞの問題文」なんですよ、というお話。例えば……

 箒木に影というものありにけり 高浜虚子

箒木のようなめちゃめちゃ枝の細い木でも、光が当たれば「影」が出来るのはなーんでか? というなぞなぞ。

ガラス、ビニール袋、サランラップ、水といった「透明」ということになっているモノも、よくよく見ればちゃんと「影」があるんですよね。つまり、光が当たるとその光を反射、屈折することで、モノには「影」が出来る。そして「影」が出来るからこそ、僕らはモノがそこにあることを「見る」ことが出来る、ということ。

光が当たっているのに「影」が出来ないモノ、つまり光をまったく反射・屈折しない、真に透明な物体があったとしたら、僕らはその物体を目で「見る」ことは不可能なんですね。

虚子の揚句は、箒木に影があります、という単なる報告ではなく、箒木にも影があるのだが、それはなぜなんだろうね? どうして人間の目はそこに箒木があるということが見えるのだろうね? という疑問が句になったものなのでした。

高浜虚子の俳句の背景には、文明開化によって輸入された西洋の新鮮(この新鮮、という感覚が重要)な科学知識と、その考え方を吸収した仏教徒、というアイデンティティがあるのではないでしょか。

地動説やダーウィンの進化論、大陸移動説に相対性理論といった科学知識や理論は、仏教の無常観と矛盾するどころか、むしろ無常の教えを裏付けるものばかり。だから、当時仏教国であった日本が、欧米の科学文明に急接近したのもわかる気がします。高浜虚子も、正岡子規も、そうした知識革命、常識革命の中で俳句を始めたんですよね。

高浜虚子の俳句は、表面的には有季定型だから、さも俳句の約束事に縛られた日本オンリーの日本馬鹿のように見えないこともない。
しかし実は、なまじ俳句をかじっていない、季語の本意なんて知らない、なんていう人間のほうが、虚子の俳句の行外にある、仏教の宇宙観と科学的な探究心が同居しているダイナミックな魅力を読み取ることがたやすいのではないかと思います。

うそつけ、虚子の俳句なんてそんなにたいしたことないよ、という人にために、虚子の俳句を観賞する(見て楽しむ)方法を一つ紹介します。

 句のお尻に「?」をつける。

これだけで、虚子の俳句も、今までよりちょっとは楽しく見えてきますよ。(以下、?は民也の付記。原句にはありませんから)

 徐に眼を移しつつ初桜? 高浜虚子

 箒木に影というものありにけり? 高浜虚子
 ふるさとの月の港を過ぎるのみ? 高浜虚子
 戸の隙におでんの湯気の曲り消え? 高浜虚子
 去年今年貫く棒の如きもの? 高浜虚子


つまらない俳句というものはない。
俳句をつまらないと思う人間がいるだけである。
わたしはいまだかつてつまらない俳句に出会ったことがない。
(ふ、決まったぜ)

匿名 さんのコメント...

おもしろいです。この↑虚子論。

「西洋の新鮮」という部分、秋尾敏『子規の近代』の論点にも関連するように思いました。

匿名 さんのコメント...

坪内稔典氏の俳句謎掛け論(そんな風には言っておられなかったが)をふと思い出しました。「箒木」と掛けて何と解く。「影」と解く。そのこころは。「箒木に影といふものありにけり」。「影」って何かな? うん、それはね……みたいな。一句を問いとみるか、答えとみるか、いずれにしても、ちょっと面白い問題提起かも。

匿名 さんのコメント...

俳句は、17字の定型から17字以上の広がりを見せるだけでなく
読者の心持ち一つ、読み方一つで
その姿をがらりと変えるものだったのですね。

縦書きでつまらない俳句を横書きにしたらおもしろい
なんてこともあるでしょうか。