〔俳句つながり〕雪我狂流→村田篠→茅根知子→仁平勝→細谷喨々
ずり落ちそうなキリスト 仁平勝
7月にNHK教育テレビで、「子どもの命みつめて」という4回シリーズが放映されました。聖路加国際病院の小児科部長である細谷亮太さんが、小児がんの子どもたちとの関わりを語る番組でしたが、その細谷先生は、同時に俳人でもあります。
俳号は喨々。本名に口偏をつけたところが洒落ています。医者としても多くの著書がありますが、俳人としてこのたび第二句集『二日』(ふらんす堂)を出版しました。
かぜの子に敬礼をしてかぜ心地 喨々
風邪の子もまじりておとぎ話会
「かぜの子」は細谷さんの患者です。子どものほうがふざけて敬礼をしたので、それに返礼したのでしょう。どっちも風邪をひいているので、まさに同病相哀れむあいさつというわけです。
「おとぎ話会」に参加しているのは、入院している小児がんの子どもたちです。小児がんは、けっして不治の病ではありませんが、短い一生を終える子も少なくありません。
臨終の子のありがとう春みぞれ 喨々
これはそうした臨終に立ち会った場面です。その子の「ありがとう」という言葉が、細谷先生にはせめてもの救いでしょうか。季語の「春みぞれ」には、作者の涙が投影されています。
『川の見える病院から――がんとたたかう子どもたち』という彼の著書に、子どもたちの臨終や葬儀のたびに泣いてしまう場面が出てきますが、そこで細谷さんは、「患者さんに死なれても泣かないですむようになったら、この仕事はやめよう」と書いています。
この本は、以前テレビドラマになって、細谷さんをモデルにした「泣き虫先生」を片岡鶴太郎が演じていました。でも本人は、もうすこしいい男で、鶴太郎というよりロバート・デ・ニーロに似ています。
螢火の明滅脈を診るごとく 喨々
昏れゆけば滝壺が即螢籠
「螢火の明滅」から脈を診ることを連想してしまうのは、職業病だともいえますが、裏を返せば、作者はけっこうロマンチストなのです。
日暮どきの「滝壺」を「螢籠」にたとえるなんて、ちょっと意表をつかれますが、そういわれてみると、映像がくっきり浮かんできます。いのちの短い「螢」を詠んだ句は、小児がんで亡くなった子どもたちの鎮魂歌かもしれません。
遠足の子のかけちがひボタンかな 喨々
遠足の子を見かけて、服のボタンのかけ違いに気づくところが、さすが小児科医の視線です。嬉しくて朝からはしゃいでいて、服を着るにもそわそわしていたのでしょう。やんちゃそうな、その子の性格まで想像できます。
自販機の前の長考汗疹の子
前の子とちがって、この子はおとなしそうですが、どうも優柔不断のようです。自販機の前で、コーラにしようかジュースにしようか、いつまでも決めかねています。作者はその子が気になって、買うものが決まるまでその場を立ち去れないのです。
ずり落ちさうにキリストや春の月
作者は「遠足の子」や「汗疹の子」を見るとき、そこに自分の少年時代を重ねているように思えます。おとなはふつう、キリストの像を見て、十字架からずり落ちそうだなんて思いません。細谷さんは、いまだに少年の心を失っていないのです。
あるいはまた、このキリストは無意識のうちに、医者のくせに泣き虫な作者自身の自画像になっているのかもしれません。
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2007-12-23
仁平勝 ずり落ちそうなキリスト
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1 comments:
仁平さん。素敵な鑑賞ですね。
ヒューマニストの一面をみました。 吟
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