2008-02-03

【週俳1月の俳句を読む】鈴木茂雄

週俳1月の俳句を読む】
この主人公は金持ちの娘なのだろうか
鈴木茂雄



今回は『特集「週俳」2008新年詠』を読ませていただいた。毎年、句会や雑誌などに発表される「新年詠草」を読んでいて思うことは、はたして新年の季語を詠み込んだ俳句を、読み手はどう読んだらいいのか、ということである。つまり、たんに挨拶句として受け取ったらいいものか、それとも詩は批評なりという観点からあくまでもテキストのひとつとして俳句を読解していいのか、ということだ。挨拶句として捉えるなら、類句類想大いに結構、正月のめでたさを共に賀すことに思いをいたせばことたりるのだが、詩としての俳句をテキストとして読むということになると、まず読解以前の問題として作品群から類句類想を一掃するところから始めなければならないということになる。


人日や塵なきエステティックサロン   太田うさぎ

きわめて現代的な正月の一シーンだ。場所は、塵ひとつ落ちていないエステティックサロン。作者とおぼしき女性が爪を磨いてもらっているところが見える。

そういえばきょうは「人日」。七草粥の日だ。この日は新年になって初めて爪を切る日とされている。七種を浸した水に爪をひたして、そうして柔かくしてから切るとその年は風邪を引かない。なにかの本にそんなことが書いてあったっけ…。気持ちのよさそうな表情を浮かべてそんなことを考えている。


寝正月とはこの人のことを言う   神野紗希

一読、笑いを誘う。「寝正月とは」と高所から断定するような物言いながら、たぶん作者にとって「この人」なる人物は、ふだんも日曜日などは家のなかでごろごろしている存在なのだ。「寝正月」というコトバは「この人」のためにあると言っておきながら、「この人のことを言う」と言う表現にはお惚気を聞かされているような思いがして、そこがまた二人の関係がよく言い表されていて微笑ましい。さきほど「高所から」と言ったが、なるほど寝ている「この人」を腰に手を当てて上から見下ろしている作者が窺えてまた読者の微笑を誘う。


門松をちょっと直して家出せり   こしのゆみこ

「家出」と言ってもいま流行のプチ家出なのだろう。「門松」が飾ってあるというのだから、大きな家に違いない。この主人公は金持ちの娘なのだろうか、などと詮索したくなる物語性が、この一句にはある。「ちょっと」だけ直して家を出たというのも面白い設定だ。


餅花をすこし揺らして開店す   齋藤朝比古

「すこし揺らして」に作者の写生観の表れが見て取れる。「すこし」のひらがな表記と「揺らして」」の漢字表記にも工夫がある。いかに正月らしさを抑えてこの「餅花」」を表現したらいいのか、作者の苦心のほどがよくわかる。


元日の掃除機顎を上げ眠る   仲 寒蝉

「掃除機」が眠っている、と言う。まるで大仕事を終えて居眠りをしているオヤジのようだ。夕べ、つまり大晦日の夜まで掛かって大掃除に使用した「掃除機」が壁に立て掛けられたものを「顎を上げ」と捉えたものである。もとより掃除機を擬人化したものであるが、そこに読者はユーモラスな作者の姿を重ね合わせて見ることになる。


コンビナート越しの初富士瞳瞳と   猫髭

石油の「コンビナート」だろうか。その工業地域のむこうに見えた「初富士」のきらめく様子を詠んだものだろう。「初富士」を見た作者の高揚感の表れが、ふだんあまり使わない「瞳瞳」というコトバにある。漢詩調にも襟を正して初富士を仰ぎ見る作者の人柄が偲ばれる。徹夜の仕事を終えた折の感慨の作、そう思うとまたひとしおの共感を覚える。


粗玉をみがくねずみの夢を見た   堀本 吟

これでもか、というほど「初夢」そのものをイメージして詠んだ作品だが、不思議に類想を免れている。「見た」というぶっきらぼうな表現が作為を感じさせないのだろう。


手毬子の影踏まれたり轢かれたり   谷口智行

何度も読み直していると、現代版「手毬唄」を聞いている思いがする。「手毬」をしている「子」のそばを人が通り、その影を踏んでいく。ときおり車が通ってその影が轢かれるというのだ。「子」が踏まれたり轢かれたりするのは決して「影」だけではないはずだ。「踏まれたり、轢かれたり」のリフレインが読者の心をさらに悲しくする。



特集
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