2008-02-10

【週俳1月の俳句を読む】谷 雄介

【週俳1月の俳句を読む】
空間の構成の問題
谷 雄介



「『週俳』2008新年詠」の中では、以下の作品に目が留まった。


そこここに地下街の口初茜      生駒大祐

要するに、空間の構成の問題なのだと思う。真っ白な空間に「地下街の口」を登場させることで、「地下街の口のある風景」が立ち上がる。「初茜」という状況を設定することで、明るさが生まれ、色が生まれる。正月の気分が醸成されてゆく。


正月のビーチをとんで雀かな     上田信治

無論、眼目は「ビーチ」という言葉にある。この言葉を導入することで、作品は風景の異化に成功した。思わず、「ビーチ」とは何のことだったか考え込んでしまったりして。「鉄筋コンクリート」が虫であることを朔太郎が発見したときのような、新鮮な驚き。


初荷よりこぼれし菜なり啄める    うまきいつこ

下五に裏切りがある。「初荷からこぼれ落ちた」というだけでは、誰の興味もひかなかったかも知れない。「啄める」という一言によって、「菜」という一点のみどりに視点が凝集する。読者は鳥と同化して、鳥の味覚のことを思うかもしれない。それから、「鳥」という言葉の省略、手練の業。


書初の妊の一字の緊(し)まりけり   戒波羅蜜多 麟

「緊まりけり」までいったところが、お手柄。こういうことを嘯くときは、真顔で言わないと面白くない。幸運なことに、僕たちの俳句は生まれつき真顔らしい(と世間から思われている)。


こんなとき冬眠中であるならば    加藤かな文

俳句を書く力量と短めのエッセイを書く力量を総合的に見たとき、この人は俳句の世界の中では随一の書き手だと思う。ただ、今回の作品は面白くなかった。どうしてこのような書き方をしたのか、わからない。


楪の抜けやすき注連飾かな      久保山敦子

上手いと思う。句またがりの感じも嫌らしくない。


初鶏や七面鳥を見下ろしに      興梠 隆

すごく馬鹿馬鹿しい。しかし、驚いたのは、「七面鳥」に対して「初鶏」をぶつけているところ。普通、こういう合わせ方はしない。


七種のわづかに萎れ売られけり    小林苑を

中七の「わづかに萎れ」はとても弱い言葉だ。つぶやきだ(そういえば、吉増剛造が「つぶやき」という言葉を「粒焼き」と変換したことがあった)。「七種の(わづかに萎れ)売られけり」と読みたい。「雉子の眸のかうかうとして売られけり」という句があるが、「売られけり」とは、またなんとさびしい言葉だろう。


飛び立てば羽ばたきやめず初雀    榮 猿丸

一見、普通の作品。しかしながら、それを脳裏で何度も映像化していくうちに、ずいぶんおかしな心持になってくる。理由の一つには、五七五の短詩形にこういう内容を書ききってしまうということのおかしさがある。もう一つは「初雀」という言葉の置き方のふてぶてしさ。ただ、ここは「初雀」でないと、俳句は言葉のバランスに耐えられないはずだ。


煙突に空あるばかり三ケ日      鈴木不意

レトリックとしては、わかりやすい。空に煙突が聳えているのでなくて、煙突に空があるという言い方。やや機知が勝ちすぎている嫌いもあるが、「三ケ日」という味付けはとても好ましいように思った。


川風の堤をあふれ福寿草       津川絵理子

上手すぎる。けれども、上手いので触らないわけにはいかない。俳句における言葉のバランスの問題。「川風の堤をあふれ」に対して「福寿草」でバランスをとったのか、それとも「福寿草」に対して「川風の堤をあふれ」でバランスをとったのか。あるいは、作家の中には二つの事象が同時に立ち現れてくるのか。それは定かでない。前二者は知的操作の範疇だが、後者の場合、その能力は「才能」という名で呼ばれることになるだろう。


恵方とは反対へ行くお父さん     峠谷清広

書かれたままに受け取って、それで一笑すれば、本来は足りる。ただ、僕はあまり笑えなかった。いつだったか、とある句会で50代の男性が「朝起きると、将来に希望が見出せずに、死にたくなることがある」とつぶやいて(粒焼いて!)、周囲の同世代の男性の共感を得ていた。父(の世代の人たち)とは、概ねそういう予感を孕んだ生き物なのだと思う。もちろん、僕の頭の中にもその予感だけは燻っている。


黒髪の乱れてゐたる歌留多かな    中嶋憲武

おそらく、歌留多とりをしている女性の黒髪が乱れているのだろう。歌留多の絵柄の女性の黒髪が乱れている方が面白いかも知れない。


十二月三十二日寝酒かな       野口 裕

十二月三十一日の深酒により、正月を迎えたのも知らず、十二月三十二日を迎えているという、そういうお話なのだと思う。コンビニで年を越したという友人や山手線の電車の中で年を越したという友人がいる。僕はというと、幸い、これまで一度の例外を除いて、すべて実家で年を越している。


初春の部屋着に部屋のにおいかな   宮嶋梓帆

自分の部屋のにおいは、自分ではあまり気がつかない。人の部屋のにおいには、敏感なのに・・・。「初春」が効いている。平穏な日常が続いていることのめでたさ、といった趣。


四日はやユーミンがスキップしてゐる  山下つばさ

「四日」といえば、仕事始めであったり、世の中全体が勢いよく動き始める日だが、その大きな動きを「ユーミンのスキップ」に落とし込んだところが、何とも言えず味がある。個人的には、「スキップをしてゐる」の方が好み。


人日の軽い頭痛を持ち歩く      佐藤登季

言葉に衒いがない。頭痛を「持ち歩く」という言い方、言葉遣いとして斬新であったり、感動を覚えたりするわけではないけれど、率直な感覚だ。生活に寄り添った感覚。自分の日常に自信のある人の感覚だと思った。


「珊瑚漂泊」(青山茂根)の中では、

最果ての地にも蒲団の干されけり

がいいと思った。「湯豆腐に瓦礫ののこる寧けさよ」は、やや凝りすぎの感。「虎落笛死せる珊瑚のごと街は」という書き方は、僕にはやや絶景すぎるように思えた。「むささびやノート開きしまま眠る」は、意識してやっているのかどうかはわからないが、すごくおかしい。こういう作品をもっと見てみたい。


「回天」(村上瑪論)では、

池田屋は間口の狭く寒椿

が趣がある。しかし、全体的にテーマに飲み込まれている感。


「氷柱」(対中いずみ)では、

ことごとく蓮折れてゐる時雨かな

が綺麗だなと思った。


「ふくろうワルツ」(岡村知昭)では、

関西の騙されやすき枯木かな

が気になった。「騙されやすき」の連体形の後で、心持ちとしては軽く意味を切りたい。「凍蝶や正門跡と思わるる」のとぼけた感じや「ふくろうの脂に濡れて寝台車」のノスタルジーも楽しかった。


「正面の顔」(茅根知子)には、少々難あり。
たとえば、「自画像を見てゐる人の息白し」など、ちょっと簡単に作りすぎていないか。「ポケットの深きところに竜の玉」だと、「ポケット」と「竜の玉」の関連が強すぎる。「深きところに」では、類型を脱しきれていないと思う。


「文鳥」(上田信治)の中では、

北風の吹いてするめの大きくて

に、ちょっとした感動を覚えた。1月に目にした俳句の中では、一番好きかも知れない。「ここのするめは大きいなぁ」というつぶやきは、風土へのさりげない挨拶だ。

新聞に切抜きの穴うぐひす鳴く

は、何度か言及した空間の構成の問題。室内に新聞があるのだとすれば、鶯の声は当然外から聞こえてくるのだけれど、このように俳句の中に書かれた場合、新聞の切抜きの穴の奥に、僕たちはまぼろしの鶯の声をきっと聞きとるに違いない。

デパートの屋上そして冬の空
縁側の椅子に布団が掛けてある


は、平凡でつまらない。



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