2008-02-10

【週俳1月の俳句を読む】馬場龍吉

週俳1月の俳句を読む】
選ばれる句と愛される句
馬場龍吉


さいばら天気さんが、「俳句的日常」で『選ぶ句と愛する句』について書かれていたが、まさにその通りでそこが句会と句集(独立した作品発表の場)における選句、観賞の違いだろうと思う。

句会の選句では自分には採れなかった作品が、その人の句集、連作発表に載っていてあらためてその作品に感心させられることがあるのだ。選者と読者の違いがここにあるのかもしれない。

実作者の立場からすれば、句会で無選だった句にも愛しい句がときにあり、発表して日の目を見せてあげたくなる。そういう作品が読者の「愛する句』に入れば最高なのだが。


[ 新年詠から ]

信頼は皆無と六日排卵し    井口吾郎

昨年を代表する「偽」を引きずる社会を嘆く回文俳句の極致。ただひとつ残念なのはぼくには「排卵」という感覚は知り得ないところなのだが感じは受け止めることが出来た。


去年今年分け隔てたる皮一枚   上野葉月

「皮一枚でぶら下がる」という言葉も思い浮かぶが、内と外のボーダー。肉体でいえば皮膚。時刻でいえば12月31日の午前0時。その瞬間に立ち会う一枚の皮の存在に思いが及ぶという感覚がいい。


福寿草ひかりに音のしてゐたる   越智友亮

「ひかりに音のしてゐたる」が眼目。福寿草といえば春色。福寿草の周りの生活の実景には違いないのだが、光そのものの音が聞こえる作者がうらやましくなってくる。


初雀役の雀がこの雀    佐山哲郎

俳諧味たっぷりの作品。この雀「初雀」とたすき掛けで現れてくれたらなお面白いだろうに。


爛々と闇に鹿の眼初昔    広渡敬雄

「爛々」には、たったいま見てきたような実感がある。二年詣りに出くわした不気味さも去年のこととして、新年を迎えることが出来そうだ。


門松をちょっと直して家出せり   こしのゆみこ

「家を出る」ではなく、「家出せり」の可笑しさ。上五中七の平穏に対しての下五の裏切りが効いている。


曳猿のやや着崩れてをりにけり   さいばら天気

そうそう昨今のペットに衣装を着させる風潮は、ペットを飼っていないものにはどうもわからない。たいていは犬だが。猿回しの猿にはそれも許されるだろう。演目をやってゆくうちに着崩れてくる猿の様子を想像すると思わずニヤッとなってしまう。「着崩れている」に実感がある。


手毬子の影踏まれたり轢かれたり   谷口智行

「踏まれたり」は考えの範疇だが、「轢かれたり」には度胆を抜かれた。誰もが見ている光景だが、こうして文字にされてみると恐くなってくる。リフレインとはこういう風に使うんだなぁ。


黒髪の乱れてゐたる歌留多かな   中嶋憲武

艶っぽい作品が少ないなかで、週俳で「スズキさん」を読ませてくれている憲武さんの作品とは。「スズキさん」ファンが周りにもけっこう多いので、続編を待ち遠しくしているのだが。


十二月三十二日寝酒かな    野口 裕

「十二月三十二日」の発想は理系の作家だろうか。いやいや案外、元旦を三十二日にしてしまうくらいだから波瀾万丈とは縁のなさそうな丼勘定タイプかもしれない。「寝正月」ではなく「寝酒」が決まっている。


で、ここからは静かな作品。新年といっても暦のうえの区切りであって、冬の一日であることには違いない。新年とは例えば、手術後の麻酔から覚めて初めて出会うであろう空や花、万物。それらに対する挨拶の気持ちから発する声のような。普段が普段と変わる新年を言い留めたつぶやき群。

初荷よりこぼれし菜なり啄める   うまきいつこ
 
餅花をすこし揺らして開店す    齋藤朝比古

煙突に空あるばかり三ケ日     鈴木不意

気がつけば口開けてゐる去年今年  茅根知子

川風の堤をあふれ福寿草      津川絵理子      

元日の掃除機顎を上げ眠る     仲 寒蝉

手も洗ひ飽きて三日の虚(うつ)け空 媚庵

元旦や物干竿に日の当たる     松本てふこ

黒豆を明るい方へ寄せにけり    宮本佳世乃

初春のうらがへしあるバケツかな  大穂照久

正月の日向に出でし坊主かな    雪我狂流

狂流さんのの句には、正月の日向に出てきた坊主(僧あるいは子供)という観賞と、正月に集まった親類縁者の子供たちの遊ぶ座布団に、花札の日の出の札が出されたようなおめでたさがあり、こういう押し付けでない二重構造の句は好きだ。


[ 一月の十句発表作品から ]

湯豆腐に瓦礫ののこる寧けさよ   青山茂根

見立てと言ってしまえばそれまでだが、湯豆腐の欠片を「瓦礫」と思う発見が面白い。食後の静かになった鍋の余韻を詠んで佳句。〈虎落笛死せる珊瑚のごと街は〉は掲句に比べて詩的な面、弱いように思う。〈上陸の夜を梟に迎へらる〉〈雨足の去りたる落葉浄土かな〉〈陵を守る水鳥もありぬべし〉などに上質の優しさが漂う。


門外に雪のざわめく辰の刻     村上瑪論

幕末の京にでも旅しているような読後感があった。掲句からは浪士や幕府方の追っ手の雪の足音が聞こえてくる。好きでなければ描けない世界。作者はちょうど司馬遼太郎のような目線でいるんだろう。〈池田屋は間口の狭く寒椿〉は、一読普通の吟行句のようにも見えるが前後を結ぶ重要な役割を果たしているようだ。


ことごとく蓮折れてゐる時雨かな  対中いずみ

蓮の茎も時雨も、句姿からは直線のイメージを受けるのだが、「ことごとく」の醸し出す表記の柔らかさが句全体を包みこんでいる。〈煮凝に鮟鱇の足ありにけり〉〈猛禽の声の中なる氷柱かな〉なども整っているなかに存在感があり、安心して読めた。


晩婚に冬のいなづま刺さりけり   岡村知昭

この作家は取り合わせの妙を見せてくれた。故飯島晴子は閃いた言葉をクリップで壁に止めて置き、ずっと見続けて次に閃いたフレーズを当て嵌めたというが、読者は作者の到達した答えから遡って問題である風景に行き着く旅程が楽しい。〈関西の騙されやすき枯木かな〉一句は一枚の騙し絵であり、そのなかに隠されたものを見い出す快感を享受することになる。


凩の聞えてきたるバイオリン    茅根知子

たぶん素直に作られている作品だろうから、素直に読めばいいのだと思う。のだが二通りに読んでもいいのだろう。一つはバイオリン奏者に凩の吹きすさぶ音が聞こえてきた。というもの。いま一つはバイオリンから凩が吹いてくるというもの。どちらにしても凩の存在は強い。〈枯菊に残つてゐたる火の匂ひ〉焚いている枯菊にではなく、枯菊そのものに生々しい火の匂いを感じたということ。こういう感性は大事にしてほしい。


文鳥は温し牡蠣フライは熱し    上田信治

いやあたしかに。でもつまらなくない。いいなぁ、こういうふうに詠めるって。文鳥の体温が手のなかにあり、熱い牡蠣フライは前歯に預ける。その感動がそれぞれにあり、自らも生きていると感じる。そういう喜びが伝わってくる。〈北風の吹いてするめの大きくて〉にはだるまストーブが似合いそうだ。焼けたするめは手には熱すぎて口にほうりこむ。



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