2009-06-07

水夫清 靴なしの淑女 その2

靴なしの淑女 第2回

水夫 清

●2日目


昨日の風がさらに強くなったようだ。ホテルのカフェで朝食を摂りながら、清田は窓の外で音も無く揺れている木々を眺めた。
「アナザー・コーヒー?」
「イエス・プリーズ」
褐色の肌で黒髪のウエイトレスが、空に成りかけていた清田のコーヒーカップを薄いコーヒーで満たした。そのコーヒーに口をつけながら、朝、部屋に配られた英文の新聞をテーブルに載せて、見るとはなしにページを繰った。美男美女の笑顔が紙面を飾っている。キャプションを読むと「アカデミー賞主演男優賞、女優賞受賞者…」という文字が読めた。そうか、うっかりしていたが昨夕はアカデミー賞の受賞式がこの町であったのだ。空港、途中の道、リトル東京など、どこにもこのイベントを報じる広告やサインのようなものはなかった。それで気がつかなかったのだ。
それに清田の取材はそのイベントではなかった。清田の仕事は堺市の中小衣服メーカーが売り出す予定の若者向きウエアーをロスの一般の若者に着てもらい、ロスの風景の中でさりげなく撮影する、というものだった。売り出すウエアーをカルフォルニアではみんな着ている、という雰囲気を撮るのがねらいだ。低予算の企画だし、モデルを使う撮影ではないので、若者を見つけ交渉し、そして撮影する、という作業を清田一人でこなすことになっている。

朝食を済ませたあと、清田はフロントでレンターカーを頼んだ。売店で道路地図を買った。部屋に戻ってその地図をベッドの上に広げた。
さあ、どこから始めようか、と考えたとき、アカデミー賞授賞式の記事を思い出した。まず、ハリウッドに行ってみよう。それからUCLAキャンパス、最後にサンタモニカ・ビーチ、というルートを考えてみた。二日間あれば十分カバーできるだろう。ダウンタウンも考慮したが、カジュアルなウエアーにビジネス街の雰囲気は合わないだろう。しかし、そのダウンタウンにあるバスケットボールのスタジアムはいけるかもしれない。清田は予備の撮影場所としてそのスタジアム、さらに少し離れるが野球のドジャース・スタジアムにも赤丸をつけた。ディズニーランドやユニバーサル・スタジオも考慮したが、日本にもある施設なので除外した。

ホテルの玄関でレンターカーを受け取った。半袖の若者がキーを渡してくれた。風が強く、日陰では肌寒い。清田は長袖のシャツの上にジャケットを着ていて、それでもちょっと寒い。
「寒くないの?」
その若者に思わず聞いてしまった。
「日向にいれば平気ですよ」
彼は白い歯を見せて微笑んだ。感じのいい若者だ。清田は思い立って彼に写真撮影の件を相談してみた。彼は簡単にオーケーした。清田は見本ウエアーを入れた包みから黄色のトレーナーを引っ張り出して若者に渡した。
「これに着替えて、そう、あの車の横に立ってくれる?」
清田が指し示した場所には青いシボレーのピックアップ・トラックが留めてあった。背景は緑の植物が茂っている。光の具合もいい。黄色トレーナーが引き立つセッティングだ。若者に自然なポーズをいくつかとってもらって、それを清田はカメラに納めた。取材がいい感じでスタートしたので、清田は若者へのチップをはずんだ。若者の顔からまた、白い歯が溢れた。

ホテル前での撮影を終え、清田はハンドルを握った。ハリウッド・フリーウェーをしばらく走って、ハリウッド・ブルバードの手前で降りた。そのブルバードを西に流した。アカデミー賞授賞式が催されたコダック・シアターを通り過ぎて最初の交差点で右に折れ、駐車できる場所を探した。駐車場には昨晩のイベントで飾られた花々がゴミの山として積み上げられてあった。それを拾い集め新たな花束を作っている人々がたむろしている。清田は見本ウエアーの包みを抱えてハリウッド・ブルバードの歩道に出た。まずチャイニーズ・シアターがあった。そこの地面には往年のスターたちの手形や靴形がコンクリートに刻印されている。観光客が贔屓のスターの手と比べたりしている。清田の手はニコラス・ケージとほぼ同じ大きさだった。

 Hollywood pavement,
 I pick up city dust
 from star's handprints

 『スターの手形から拾う町の塵』

コダック・シアターはすぐ近くで、テレビ中継で馴染みの赤い絨毯はすでに取り除かれてあり、ブルバードの反対側に簡易テントの棟が残っているだけだった。関係者らしき人の姿もない。歩道にいるのは観光客だけのようだ。そうそう、それとその観光客目当ての芸人たちも。芸人といっても特に芸をするわけでなく、映画の主人公のようなコスチュームに身を包み、それらしいメイクを施し観光客といっしょに写真に納まって、チップを稼ぐ連中だ。
その時はスタイルの良い黒人カップルがファンタジー映画の登場人物、というか妖怪のかっこうをしていた。男の衣装はタイツのように体全体にフィットするようなもので色は真っ赤、体のあちこちに金属の部品が沢山ぶら下がっている。さらに背中には蝙蝠の黒い翼を背負っている。明らかに悪者役だというのはおどおどしいメイクで分かる。相方の女性は比較的大人しいコスチュームだが、色は赤、ホットパンツから長い足が出ていて、それが十センチぐらい上げ底したブーツに繋がっていた。あまりグロテスクなのか、このペアは衆目は集めるがチップは集まってこないようだった。
チップを稼ぐのはもっぱらアニメのキャラクターのぬいぐるみを着た連中だった。まとわりついてくる子供たちと、ひっきりなしにポーズをとっていた。そんな喧騒の中、孤独に動き回る者がいた。スパイダーマンだ。まめに動き回るのだが誰もいっしょに写真を撮ろうとしない。コスチュームだけで体格が普通過ぎるからだろうか。いや、たぶんそうじゃない。スパイダーマンは高層ビルを這い登ったり、ビルの谷間を飛び回ったりするからかっこいいのだ。歩道でみんなと同じように水平移動しているだけではスパイダーマンではない。残念。

コダック・シアターの先にもう一つ大きなビルがあった。中央部がモールのようになっていてその先にはハリウッドの白いアルファベットが遠くの山肌に見えた。清田はその方向に歩いていった。モールの先端はテラスのような造りで、その中央には星条旗がはためき、背景にハリウッドの文字がよく見えた。その文字を眺めている若い白人のペアに清田は目を留めた。幸い二人とも健康的なルックスをしている。歯が白く光っていて笑顔が素敵だ。よし、ここで撮影しよう、と、さっそくそのペアと交渉した。場所がハリウッドだけに、ここでモデルのようにカメラを向けられるのは、けっこう晴れがましいに違いない。衆目を集めることになり、ちょっとしたスター気分を味わえる。そんな勧誘の仕方を清田がしたわけではないが、若者たちは快く撮影に応じてくれた。男性には青いトレーナーと白いウインドブレーカー、女性には黄緑のトレーナーとピンクのウンドブレーカーを着てもらった。ハリウッドの文字をバックに、肩を抱いたポーズ、ウエストに手を回したポーズ、それからうれしいことに実に健康的なキッスのポーズもとってくれた。案の定、清田たちの周りには人の輪が出来てきていて、二人がキッスをしたときにはどこからともなく拍手が起こった。アメリカらしい雰囲気だなぁ。この青空、明るい日差し、陽気な人々。昔、子供の頃に見たテレビのドラマや映画、その時感じたアメリカらしさがある、と清田はうれしくなった。

 Neatly lined teeth
 and healthy looks,
 sun-kissed people grin

 『歯並び色艶よしサンキスト・ピープル笑う』

駐車場に戻ると、捨てられた花の山に先ほどの赤いコスチュームの女性がいた。蝙蝠男はいなかった。彼女は片腕に拾い集めた花束を抱いていた。清田は近づいて声をかけた。
「きれいな花束ができましたね」
「どうもありがとう。アパートに飾ろうと思って集めたの。まだこんなにきれいなのにもったいないわよね。あなたも少しいかが?」
「私は旅行者だからいいですよ」
「いいじゃないの、ちょっとぐらい。たくさんあるんだから」
それじゃ、と言って清田は山の中から赤いバラを一本つまみ上げた。
「それだけでいいの?」
「ええ、まだ仕事中だし」
「私たちは今、休憩中。相棒は先に近くのバーガースタンドにコーヒーを飲みに行ったわ。私もこれから合流するところ」
「そのコスチュームで歩道に立っているとスカウトされることがあるんじゃないですか」
「いえいえ、ここはそんなに甘くはないわ。スカウトされたくて世界中の美男美女が集まってくるんだもの。本当は私も1インチぐらいは望みをもっていたこともある。でも結局は、はかない夢。相棒の彼が優しくしてくれるの。今はそれで十分よ」
あの蝙蝠男は優しいんだ、と清田は思った。

 Come assemble here
 in holly woods,
 you Barbies of the world

 『聖なる森においでよ世界のバービーたち』

「グッドラック、アンド、グッドデイ」
そう言って清田は車に戻った。見本ウエアーの包みとカメラバッグをトランクに収め、バラは助手席に置いた。バラの花とドライブも悪くない。駐車場を出て、ハリウッド・ブルバード手前の信号で車を停車した。と、その時、目の前を通り過ぎていく車にスパイダーマンが乗っていた。少し前傾姿勢でハンドルを握っている。急いでいるようだ。稼ぎがないので別の場所に向かうのか、ばかばかしくなって家でビールでも飲むのか、そんなことを想像していると信号が青に変わった。そうか、黄信号を突っきたのか。清田は、右に曲がりさらに西に車を流した。

 Another ordinary day,
 Spiderman drives by
 on a TOYOTA

 『スパイダーマントヨタで通り過ぎる平日』

清田は車を流れに添うより少し遅めに運転した。周りの景色をついつい目で追ってしまうからだ。ハリウッド・ブルバードからサンセット・ブルバードに移り、さらにサンタモニカ・ブルバードに入った。しばらく行くと、周囲が美しく整備された公園のように成って来た。ビバリーヒルズ地区だ。道の中央分離帯にまで花壇があり、色とりどりの花が咲き乱れている。適当な道で山側に曲がってみた。ロス市内で散見するひょろ長いパームツリーも、この地区では整然と古代神殿の石柱のように並んでいる。広い芝生の前庭、どっしりとした家並み、スペイン風の建物が目立つ。そんな家の前で車を降りた。パームツリーの並木を撮ってみようと思ったのだ。明るい光を受け家の白壁が眩しく輝いていて清田は思わず目を細めた。壁の足下には低い生け垣があり、その前にフォー・セールの小さな看板が芝生に刺してあった。並木道を写したあと、その家の窓に近づいて中を覗いてみた。ソファーなど家具がいくらか残っている。背後で車の音がしたので振り返ると、黒色のベンツのRV車が近づいてきて、清田の車の後ろに止まった。持ち主かな、と考えていると白人の女性が降りて来て清田の方に向って歩きだした。長めの金髪が風にそよいでいる。小振りで面長な顔に細いサングラスが決まっていた。
「ハーイ、この家に興味があるんですか?」

白い歯の笑顔が目の前までやって来た。二十代の後半ぐらいか。身長百七十七センチ、清田とほぼ同じ背丈だ。被写体としていい感じ。
「いえ、ちょっと写真を撮っているんです。観光客みたいなものですよ」
「私は不動産屋に勤めているの。このあたりにいくつか物件を抱えているのよ。ほら道路の反対側の家、あれもそうよ。興味があるのなら中をお見せできますけど」
「私が、興味があるのはあなたの方です」
えっ、というような表情をして彼女は首をすくめた。怪しまれるといけない、と清田は広告撮影の件を手短かに説明した。彼女に笑顔が戻った。撮影OK。それではと、彼女には白いウインドブレーカを着てもらい、まず黒塗りのベンツの側で撮影した。サングラスはかけたままにしてもらった。次にパームツリーの並木道を歩いてもらった。しかし、背景がよくない。見るべきパームの葉は空の上。雲の上にいる人が愛でるのにちょうどいい高さなのか。人物にアングルを合わせると、パームツリーは幹ばかりになってしまう。なんだか象の足が林立するなかにモデルがいるようだ。
そのカットは最小限にして、最後に芝生に座ってもらった。胡座だ。白人はどうしていつも胡座をかくのだろう。でもこの場合は胡座の方がウエアーの雰囲気にあっているので、よしとした。白い家がバックになるので青のブレーカーに着替えてもらった。
「いい写真が撮れたよ。どうもありがとう。お礼の代わりに家の契約でもできればカッコいいんだけれど、生活レベルが違い過ぎる。日本ではアパート暮らしなんですよ」
「あら、私もよ。あの車も会社のものだしね」
鳴り始めた携帯電話をズボンから抜き出しながら彼女はそう答えた。携帯を耳にあてて彼女は清田から少し離れ背を向けた。
「イエス」が数回、「ノー」が一回、「オーケー」が二回、それからなにやら話して最後に「ライト・アウェイ」という声が聞こえて電話が終わった。彼女は携帯をたたんで清田の方を見ていった。
「そろそろ社に戻らなくちゃ。上司がお待ちかねのようだわ」
「道草をとらせちゃったね。迷惑じゃなかった?」
「平気、平気。変わった経験ができて楽しかったわ」
笑ってはいるがどこかぎこちがない。上司にお目玉を食らったのかな。それは聞かないで、彼女にはお礼の代わりにTシャツを進呈した。ぎこちなさが少し緩んだ。

彼女を見送ったあと、清田は車に乗り込み山側に進んだ。さらに高級な地域になった。道沿いには鬱蒼とした生け垣が続き、家自体は見えない。きっと広い庭があり、その中に瀟酒な邸宅が鎮座しているのだろう。

 Beverly Hills palm trees,
 no leaves to see
 at eye level

 『目の高さには葉のないパームツリー』

清田は、車の進路を元来た道に戻し、ウィルシャー・ブルバードに入った。地図でみるとUCLAのキャンパスは広く、どこから入っていいのかわかりにくい。ウィルシャー沿いに、ちょっと太めの道がキャンパスに繋がっているのを見つけたので、そこにとりあえず検討をつけた。ゴルフ場の側を通り抜けると、周辺の様子がいわゆるロスのその他大勢的な地域に様変わりしていった。しばらく走り、その太めの道の交差点を曲がって進むと、なんとなく学生街の雰囲気が漂って来た。当りだな。道のドンつきの左手に大学の広大な駐車場が見えてきたので、そこに入った。

駐車場を出て、さてどっちがどっちだ、と清田はあたりを見回した。右手のビルの奥に芝生が少し見えた。キャンパスといえばやはり芝生だ、と妙な納得をして清田はその方向に歩き出した。近づいてみると、右手のビルは売店と食堂がある建物だった。食い物の匂いもかすかにする。腹がへったな、それに喉も乾いている。時計を見るともう二時過ぎだ。まずは何か食ってから仕事にかかろう、と清田はその建物に入った。広い一階はちょっとしたスーパー並の店舗になっていた。UCLA関連のさまざまなグッズや教科書、教材、日用品などが買える。UCLAロゴ入りのTシャツを土産にと考えたが、日本でもよく似たものは手に入る。免税で買える洋酒や洋タバコのようなもので、今では貴重品としての値打ちがなくなった。貰った人も喜ばないかもしれない、と思い直して買うのを止めた。
食堂は二階だ。キャフェテリア風の食堂を想像していたが、ファースト・フードの店が二軒あるのみだった。皿にいろいろ盛り合わせて食べることを期待していたので清田はちょっと失望した。さらに、空いているテーブルがどれも汚れたままだ。日本でいえば大型にあたるゴミ箱があちこちに置いてあるにも関わらず、テーブルやその周辺には食べ散らかしたゴミが散乱していた。学生は行儀が悪い、というのは日本でも同様だが、これほどではない。清田はうんざりして、タコスとコーヒーをテイクアウトにして建物を出た。

生徒たちが何やら勧誘している間を通り抜けて、緩やかな木立の間の坂道を登っていくと芝生の広場に出た。清田は適当な木陰を見つけて座った。無意識に木陰を選んだが、座ってみると風はあるし、日影に入ると肌寒い。清田は日向に移動し直した。タコスを出してコーヒーで流し込むようにして食べた。空の腹に何かを入れただけという感じだ。何の感慨もない。日本の伝統的なファースト・フードであるたこ焼きのほうがずっと食べ物らしい、と思った。昨晩のしゃぶしゃぶも頭に浮かんだ。
「日本の方ですか?」
女性の声が後ろから聞こえた。日本語だ。振り向くとほっそりとした初老の婦人が清田を見ていた。清田は顔を後ろに向けたまま、軽く会釈をした。婦人は清田の側に来て芝生の上に座った。歳のころは六十代前後だろうか。顔には歳相応の皺があるが、睫毛は長く、少女のような奇麗な目をしている。
「大学の先生ですか?」
女性が尋ねた。日系だろうか、イントネーションが日本人ではない。清田は写真の撮影に来ていると短かな説明をし、彼女にも同じ質問をした。
「前学期まではそうでした。三十年間音楽を教えていました。民族音楽です」
「民族音楽…」
「そう、この町には多民族が住んでいますから、そういう学問がこの大学では盛んなのですよ。私は雅楽を教えていました」
「雅楽ですか。あの、越天楽…とかですよね」
清田には茶道、華道、歌舞伎などと共に、雅楽は馴染みのない日本文化の一つだった。
「そうです。学生たちの定期演奏会など、随分やってきましたよ。でも、近年は受講者が減少傾向ですね。代わって今、盛んなのは韓国の民族音楽です」
それも清田には馴染みの薄い音楽だった。会話が続かんな。清田は居心地の悪さを感じ始めた。せっかく声をかけてくれたのに無愛想な態度はとれない。取りあえず自己紹介と撮影の目的などを話した。
「そうですか、広告のお仕事で。それならちょうどいい。これから教室にいく用があるので学部の学生に声をかけてみましょう。モデルになれるって言ったらみんな喜んで協力すると思いますよ」
「これはありがたい。ぜひお願いします」

それでは、と言って婦人は年齢のわりには快活に立ち上がり、歩き始めた。日系の人々は生まれた時から椅子式の生活のせいか、歳をとっても背筋がシャンとしている。婦人の凛とした後ろ姿を見ながら清田は感心して後を追った。いつまでも後ろについていくのは変だと思い清田は婦人と並んで歩いた。
「このごろは日本の影が薄くなりましたね」
婦人は突然そんなことを言った。
「いえ、日本だけじゃないわ。日系の私たちだってなんだか影が薄い。リトル・東京に行かれました?」
清田は昨晩のことを話した。
「そのレストランなら私も何度か行きました。人気があるでしょう。でもね、人が集まるのはあの店ぐらいじゃないかしら。周りの店は和食を出したり、日本の食品など売っていますが、ほとんど韓国人がオーナーですよ。もう日本人街とは言えません。チャイナタウンやコリアンタウンと同じ意味合いではね。一世の多い時代にははっきりとしたジャパンタウンがあったのですが、もうしばらく以前から日系の人々は、米国の社会に同化してしまった。みんな町のあちこちに散らばって暮らしているので、影が薄いのでしょうね。反面、中国人や韓国人は相変わらず移民としてこの町にやってくる人々がいます。そういう人々にとってそれぞれのタウンはオアシスみたいなものですよ。みんな集まって暮らしている。それが影を大きくするわけです。文化的にも注目を集める力を発揮するのです。そういう流れと雅楽の不人気は関係があると思います」
「日本の影が薄いとおしゃいますが、町にはトヨタが走り回っているじゃないですか。電気製品だってそうだ」
「でもね。日本企業のほとんどはもう米国に帰化しているんですよ。走り回っているトヨタはメイド・イン・USAです。原産は日本かもしれないが、工場も会社もとっくに現地化している。日本にいる人々が日本製は人気があると喜んでいるだけで、トヨタなどは実はもう多国籍なんですよ。一国だけのお国自慢にはなりません。電気製品だって韓国製が優勢で、これもどんどん多国籍になっている。国際的になるには、それぞれの国の味付けを拒否していてはかないません。ご本家のやり方にこだわっていては世界には広がらないんですよ。柔道や禅だってそうでしょう。それぞれの国の人がそれぞれのやり方で同国人を教える体制ができて、広がりが生まれました。広がらないものはやがて衰退していくことになると思います。日本の伝統芸能や文化、それから日本の新興宗教などは往々にして本家主義に固辞し過ぎたと思います。それが影を薄くしてしまった。このごろは、日本国政府の動きもテレビや新聞のニュースであまり取り上げられません。政治の世界でも存在感が薄いですね」
「なかなか手厳しいご指摘ですね」
「なにも批判をしている訳ではありませんよ。現状をありのままに言っているだけです。雅楽に関しては私の力不足ですね。日本の先生たちに頼り過ぎました」

音楽学部の建物に入って廊下を進むと、ドラムの音や笛の音がどこからともなく聞こえてきた。アジア系か、それともアフリカだろうか。
「ここです。どうぞ」
婦人の後をついて清田は教室に入った。そこには見た事もない楽器が並んでいて、七、八人の生徒たちがてんでに音を出していた。合奏する前の音合わせをしているようだった。これは正規の授業ではなく生徒たちの自主活動です、と婦人は説明した。婦人はみんなの方に向き直って、拍手を数回して生徒たちの注目を集めた。そして、撮影のことを説明した。生徒たちから笑い声のどよめきが起こり、一斉に立ち上がった。どうやら全員がその気になってくれたようだ。これはいいぞ、と清田はほくそ笑んだ。さっそく見本の包みから八枚のTシャツを引っ張り出した。七色のレインボーカラー。それに白でちょうど人数分になる。
「Tシャツでちょっと寒いかもしれないが、OKですか?」
ノー・プロブレムがみんなの返事だった。Tシャツを配ると早速着替え始めた。女の子が一人さりげなく壁を向いてトレーナーを脱いだ。ノーブラだ。気を留めたのは清田だけで、他の学生はさっさと着替えを済ませた。着替えたあとまずその場で楽器といっしょに数カット、それから建物の外に出て大きな木の下で並んで撮影、揃ってジャップして撮影、さらにそれぞれに自由なポーズをとってもらって撮影。肩を組む者、抱き合う者、肩車をする者、木の枝からぶら下がる者。トントン拍子に撮影が進んだ。特に注文しなくても終始笑顔が絶えない。気の置けない仲間たちの自然な姿が撮影できた。
清田は予想以上にいい仕事ができたので上機嫌だった。食堂での嫌な思いもどこかに飛んでいったようだった。Tシャツはプレゼントだ、どうもありがとう、と最後に言うとまた笑顔のどよめきが起こった。婦人の先生には黒のTシャツをお礼に渡した。婦人が学生たちと残るというので清田は改めてお礼を言って別れた。

時計を見ると四時を廻っていた。さあ、どうしようか。サンタモニカ・ビーチが残っているが、明日にしようか。いや、待てよ。日没。そうだ。あのビーチでは夕日が撮影できる。日没は確か五時過ぎだとホテルで聞いた。清田は急いで駐車場に戻り、海岸を目指した。

ウィルシャー・ブルバードに戻り、その道を海岸まで走った。オーシャン・アベニューに出てから道路脇の駐車スペースに車を留めて海の方へ歩いた。海から強い風が吹いてくる。遊歩道の柵までいくと太平洋が現れた。ビーチは眼下だ。そうか、ここは崖っぷちなんだ。崖の麓には別の道が走っている。パシフィック・コースト・ハイウェーと地図に書いてあった。地面の高低差までは記されていないので崖のことが分からなかったのだ。周りを見るとなかなかいい環境だ。道に沿って細長い公園が続いていて、手入れされた芝生にパームツリーが点在し、遊歩道には犬をつれて散歩する人やジョギングに精を出す人もいる。ここでの撮影は明日の日中にしよう。清田は改めて海に目をやった。左前方に桟橋が見える。観覧車があるからちょっとした遊園地になっているのだろう。あそこでも撮影しよう、と頭にメモした。太陽が長い水平線に近づこうとしていた。

 Setting sun,
 continent ends abruptly
 at this cliff

 『崖っぷちで突然終わる大陸に夕日』

清田はビーチまで下りてみようと車を動かした。先ほど見た遊園地のある桟橋まで行ってみたが、桟橋の作りが立派過ぎて、夕日を撮るには少し情緒が足りないと思った。ふと見ると、浜の左方向にもう一つ桟橋がある。距離が合って確認できないが、なんとなく素朴な造りだ。日没まで時間はまだ少しある。よし、あそこまで行ってみよう。車に戻り、地図で調べるとベニスビーチと書いてあった。

路上にベニスビーチという看板を見つけ、その矢印の方に曲がって進むと目指す桟橋のすぐ側まで行くことが出来た。パーキング・メータにコインを入れ、清田は浜に向った。風が強く、さらに冷たくなってきた。今の服装では長くは滞在できないだろう。でもなんとかあの桟橋越しの夕日だけはカメラに納めたい。砂浜に出て撮影のスポットを探した。波打ち際近くに男性が二人座って海を眺めている。その背中を見ながら清田は考えた。見本のウインドブレーカには背中にもロゴが入っている。それをこの連中に着てもらってその背中を手前に、背景に夕日というアングルで撮ってみようと考えたのだ。さっそく声をかけてみた。二人は、一瞬、ハッとしたような表情で清田の方を振り向いたが、説明を聞いて、撮影を承諾してくれた。
「背中だけでいいんだね」
「そう、顔を夕日の方にむけてね」
二人はブレーカを羽織り、両足を抱くような姿勢で座った。潮で焼けたようなブロンドの髪が風に舞い上がる。広い肩、引き締まった三角筋と背筋、それに太い腕、ブレーカーはピーンと体に張り付いている。二人はサーファーだろうか。とてもいい感じの体だ。逆光気味になるため清田はフラシュをカメラに取り付けた。
「レディー?」
清田の声に二人は軽く頷いた。夕日は桟橋の手すりを触ろうとしていた。清田はアングルを多少変えながら撮影した。夕日はさらに沈んで桟橋の足の間から最後の光を投げかけている。OKを出そうとした時、一人が振り向いて清田に言った。
「もう、終わりかい? このポーズも写してくれよ」
そう言い終わると二人は顔を近づけて口づけをした。おっと、そういう関係なの、二人は。清田は一瞬ひるんだが一、二回シャッターを押した。ウインドブレーカは回収しないで、清田は短く礼を言っただけで早々にその場を離れた。二人の笑う声が風の音に混じって聞こえた。冷たい風に身を縮めながら清田は浜を歩いた。なんだなんだ、生娘みたいに逃げ出して、と清田は自分の反応がおかしかった。あまりにも唐突だったので驚いただけじゃないか、いい歳をしてまったく恥ずかしい。
浜を出る前にパームツリーのシルエットを入れたアングルで二、三枚写した。夕日はまもなく姿を消す。

 Wintry shore,
 setting sun takes with it
 blue of the sky

 『冬の浜夕日持ち去る空の青』

体は冷えきっていた。温かいスープが飲みたい。車を留めたあたりには数軒のレストランがあったので、客が多そうな店を選んで入った。時間的にも場所的にも観光客よりも地元の人が集まる場所だから、客が多いのは飯がうまい証拠と考えたのだ。店に入るとカウンター前にはにぎやかな人の塊があった。ウエイターに食事がしたい、と言うと右奥のテーブル席に案内してくれた。窓際に一つ空いたテーブルがあったのでそこに座った。テーブルの上には蝋燭のともったガラスコップが置いてあり、きれいに磨かれたテーブルに温かい光を落としていた。クラムチャウダーのスープと海産物のパスタを注文して、清田は椅子に深々を座り直した。快い疲労感があった。今日は充実した一日だったな、と感慨に耽りながら無意識にポケットのタバコに手がいった。そうか、禁煙だった。こんな時の一服はさぞうまいだろうな、と想像しながら手をテーブルの上に戻した。ウエイターを呼んで、スープだけすぐに持って来てくれと頼んだ。

 Table without ash tray,
 beautiful and clean, but
 lamentable

『灰皿なきテーブルの美しく清くも哀し』

(つづく)

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