2009-07-19

バナナ RE:上田信治「ただごとについて」 山田露結

バナナ
RE:上田信治「ただごとについて」

山田露結


〈バナナ〉と〈古池〉と〈柿くへば〉を、俳句史上三大「ただごと」と呼びたい。
「ただごとについて」(下)上田信治

お、面白い。

  川を見るバナナの皮は手より落ち 高浜虚子

この句をよくよく眺めているといろんな疑問が湧いてくる。
このバナナの皮、偶然に落ちたのか、それとも故意に落としたのか。
バナナの皮を踏んで滑ってずっこけるというのは「トムとジェリー」あたりではよくあるシーンだが、手に持っていた皮が滑って偶然落ちるというのは少し考えに難い気もする。ボーっと川を見つめていてふっと力が抜けたのか。
虚子は橋の上にいるのか。
どうして橋の上でバナナを食べていたのか。

虚子は川を見ている。
そこへバナナの皮が落ちた。
見ているだけでは流れているのか流れていないのか分からない川にバナナの皮が落ちたことによってその川はにわかに流れを得た(もちろん句の中で)。
何も起こらない静寂の中に、「動き」(時間)が生れたのである。

この三句は構造的にもそっくりで、いずれも、彼方から到来する「偶然」の一打ちによって、「放心」あるいは「無我」と呼ぶべき意識状態が水の輪のように開かれていく=自覚され、玩味されていくさまが描かれている。
(同)

三句が「そっくり」なのはこの静寂の中に「動き」(時間)が生れたという点だろうか。
〈古池〉と〈柿くへば〉の二句は偶然の「音」による時間への気づき、といえるだろうか。


虚子の時代、バナナはまだ高級な果物だったと思う。
私が子供の頃でさえ「病気のときしか食べちゃダメ。」という雰囲気が幾分残っていたように記憶している。
そう考えると、この句において「落ちた」のか「落とした」のかの違いは結構重要かもしれないとも思えてくる。

バナナを食べた。
ただ食べた(ウマイとかマズイとかいう基準も高級だからありがたいという気持ちもなく)。
皮が残った。
皮を川に捨てた。
(この時代はまだ川にいろいろ捨てられていたのではないだろうか。空き缶やビニール袋じゃないから自然に還る?)。
皮だけになったみすぼらしい高級果物バナナが手から離れ、川めがけてまっすぐに落ちてゆく。
音と言うほどの音も立てず着水した皮はただの芥としてプカプカ浮いてゆっくりと川下へ流れはじめる。

バナナの皮を見つめながら、そこに自然の摂理のようなものを見出したのか。
あるいは、「たかがバナナだ。」と思ったか???

自然の摂理なんて大袈裟なことを言うと、たとえば同じ虚子の「天地の間にほろと時雨かな」とか「わだつみに物の命のくらげかな」などの句とくらべるとバナナの句はかなりトリビアルに見える。
いや、逆に〈天地の〉や〈わだつみに〉の句が摂理を詠おうとして少し力みすぎているのか。

  川を見るバナナの皮は手より落ち 高浜虚子

この「ただごと」の中には何とも計り知れない「おおごと」が隠されている?
その隠れた「おおごと」を無意識に感じてしまっていることが「ただごと」に惹かれる原因?なのかも。

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