2009-08-16

2009年俳句甲子園レポート 江渡華子

2009年俳句甲子園レポート ……江渡華子




俳句甲子園初日の松山は35度まで気温があがり、具合の悪くなった人もいたくらいだったが、二日目は雨音から始まった。二日目は敗者復活戦・準決勝・決勝を行う。敗者復活戦にも予選と決勝があり、洛南高校が以下の句で決勝を勝ちあがった。

七夕や宇宙飛行士ブログ書く

結果、予選を勝ち抜いた開成高等学校・愛媛松山中央高等学校・大阪府立吹田東高等学校Bの三校、そして敗者復活戦を勝ち抜いた洛南高等学校が準決勝を繰り広げることとなった。



準決勝の対戦は地元松山中央と昨年度の王者開成との戦いから始まった。


【先鋒戦】
松山中央  鶏の空打つ声や原爆忌

開成     全山の葉を打つて止む夕立かな


結果は開成の勝利。
予選の時から気になっていたのは、松山中央のディベートの仕方だ。「○○をこう鑑賞しましたが、これでよろしいでしょうか」という言い方が多い。相手を褒めてしゃべり終わることがしばしば。相手の句の弱点を攻撃し、自分の句の良さをアピールするというディベートの観点からすると、いまいち何を言いたいのかわかりづらい。
金子兜太先生が「私は審査は初めてだが、これは褒めあいのゲームなのか」とおっしゃるほどである。
これに対し、開成側は季語の必然性、景の見え方を追求するディベートである。質問の内容も明確であり、去年の王者の貫録を見せた。

【次鋒戦】
松山中央  蕎麦打の月の如きを拡げたる
開成     鷲草の羽の打ち重なる雨よ

結果は松山中央の勝利。
この回のディベートは白熱した。新蕎麦は季語にあるが、蕎麦打ちは季語にないため、この句では比喩として使用されている月が季語になってしまうのではないかという開成の指摘に対し、蕎麦を打つこと、食べてもらうことの幸せを考えて、蕎麦打を新しい季語として提案するとの回答。会場には拍手がおこった。対する開成も、扇子を二枚重ねて鷲草の特徴を説明し、会場を沸かせた。
審査員の中原道夫先生より、蕎麦打を新季語としてもよいではないか、との言葉があった。勝利への風が吹き始めたのはこの時ではないかと私は思っている。蕎麦打の句は、金子兜太先生が絶賛していた。


【中堅戦】
松山中央  かなかなや脈を打ち込む刀鍛冶
開成     帰省子の鴨居に頭打ちにけり

対照的な句同士の戦いである。結果は松山中央の勝利。地元松山中央が昨年度の王者開成を追い詰める形となった。

【副将戦】
松山中央  顔に瀑布の叫びすずろ打つ
開成     雨垂れの山百合を打つ匂ひかな

結果は開成の勝利。勝敗の行方は大将戦へともつれこんだ。開成はここまで、四句中三句が雨の句である。開成の宮田君が吟行を行い、句を作ったとディベートで言っていた。雨だったのだろう。

【大将戦】
松山中央  耳打ちの二人冬銀河の中に
開成     爽やかや手を打てば魚集ひ来る

結果は7対6で松山中央の勝利。
僅差すぎて、審査員の旗があがってから歓声が上がるまで、間があった。松山中央の句が抒情に走りすぎているのではないか。という指摘に対し、開成の句には魚は具体的な魚でもよかったのではないか。との指摘があった。
松山中央の句は人間の生活を詠んでいるのに対し、開成の句は客観的な写生句というように面白いほど対照的で、好みで分かれるだろうという戦いばかりだった。審査員より、(決め難くて)旗をあげられないとの発言があがるほどだった。



準決勝二つ目は吹田東高校Bと敗者復活戦で勝ち上がった洛南高校である。この二校は地方予選・予選と戦い、吹田東Bが勝利をおさめている。三度目となるこの戦いで、洛南が勝利した。よって、決勝戦は松山中央対洛南ということとなる。

印象的だったのは、女の子だけで構成された吹田東Bの攻撃性の強さである。予選から様々な学校の対戦を見ている中で、女の子の方が攻撃性の強い鋭いディベートをしていた。それに対し、男の子は冷静に対応する。個人差というよりも、生き物として本質の違いが顕著に出ていることに少し感激した。



決勝
【先鋒戦】
洛南     弄ぶ素知らぬ顔の蛇苺
松山中央  満点の星を絡めて冷素麺

結果は松山中央の勝利。洛南の句の「弄ぶ」がどこにかかるかわかりづらいとのことだった。
次鋒戦
では洛南、中堅戦では松山中央が勝利した。


【副将戦】
洛南     時計草咲く私は素直じゃない
松山中央  基督の形の素足洗ひたる

結果は洛南の勝利。
この回のディベートは、面白かった。洛南の林君の時計草の花の咲き方から、宗教に渡るまでの博識ぶりが会場を沸かせた。二対二となり、勝負は大将戦で決まることとなる。


【大将戦】
洛南     鹿の子や峙つ北山の素肌
松山中央  素っ裸太平洋を笑ひけり

結果は、松山中央の勝利。
審査員一三名が全員松山中央に旗をあげた。赤い旗が一三本あがった瞬間会場はどよめき、拍手があがった。圧巻だった。松山中央の顧問の先生の周りに、カメラマンが集中した。顧問の先生は号泣しており、生徒達も「号泣をさせるという約束を果たせてよかった」と晴れやかだった。



決勝戦が終わった後の金子兜太先生の言葉が、素敵だった。俳句の決まりにとらわれ、俳句はこういうものだと作るのではなく、詠みたいことをぞんぶんに詠む。表現とは、そういうものではないだろうか。それが表現欲求ではないだろうか。開成の句は客観性のある佳句であったが、松山中央の俳句からは、旗をあげたくなるというエネルギーを感じた、とのこと。

松山中央の句の中で、決勝戦最終句「素っ裸太平洋を笑ひけり」がエネルギーを感じる象徴的な句ではないだろうか。作者がどこにいるのか見えづらく、景の見え方や言葉の使い方は粗いが、暗さがまったくない前向きな句だ。生命力という言葉が何よりも似合う。生きているエネルギーがある。それは、素敵な長所だ。

しかしながら、私は松山中央のディベートが残念でならない。
俳句甲子園はあくまで俳句の大会であるため、俳句の出来の評価を中心とするものである。しかしながら、対戦をなぜ見せるかといえば、ディベートがあるからではないだろうか。予選から見ている中で、松山中央のディベートは、己の鑑賞を披露する方法だった。

印象的なやり取りが、決勝先鋒戦にあった。終始自分の鑑賞を披露するという形でディベートをする体制をとっていた松山中央だったが、「この鑑賞でよろしいでしょうか」との松山中央の発言に対して「そうとって頂いて結構です」のみの洛南の回答に、檀上は一瞬静まった。ディベートの時間は短い。だからこそ、少しでも時間があるのであれば自分の高校の句をアピールしたい。今までの対戦校はそう思っていたからこそ、質問とは言い難いそのディベート方法にも対応していたが、その鑑賞が特に問題なければ、返事は上記の洛南のもので充分なのである。けれど、それでは盛り上がらず、観客側にとって面白くない。

エネルギーのある句と、安定したディベートがあれば、より面白い対戦ができるのではないか。松山中央は、まだ伸びている最中である。決して優勝は終わりではない。それは、他の高校にも言えることだ。そして、俳句甲子園全体にも言えることだと思う。
初めは小規模で行っていた大会も、現在は全国より出場校が集まる。俳句甲子園の意義は開催当初とだいぶ変わったのではないか。過去、現在の俳句甲子園の影響力、未来どうなるべきか、なっていきたいかを主催者側も考え、大会そのものを進化させていかないと、進化する高校生に釣り合わなくなってしまう。


今年の俳句甲子園を通してずっと思っていたのは、この出場者の中に、これから俳句を続けていく人はどのくらいいるのだろうかということだ。俳句甲子園出身者ではない私にとって、俳句甲子園出身者同士は特別に繋がっていて、仲間意識が強いという印象があるにもかかわらず、出身者の多くが俳句から離れていってしまっている気がする。表現欲求が仲間意識に負けているのかもしれない。

しかしそれは決して悪いことではないと思う。一度俳句をやめたとしても、数年後でも数十年後でも、若い頃俳句やったよな、楽しかったよな、などと思いだし、もう一度やってみるかな、といったきっかけに、俳句甲子園がなっていけばいいと思う。


2 comments:

匿名 さんのコメント...

中央高校のディベートのやり方は、あれはあれで良かったと思います。

勝負は「創作点」と「鑑賞点」で決ります。
鑑賞というのは「相手の句の欠点や弱点をつく」ことだけではないはずです。
相手の句の魅力や長所を正しく読み取ることも鑑賞の力ですし、審査員はその点も考慮して採点しているはずです。

ただ、今までこういうディベートをしてきたチームが殆ど無かったので、相手チームが困惑して「あ…はい、その通りです…」になってしまった場面は確かにありました。ですが、それを中央高校のせいにしてしまうのは、いささか酷ではないかと思います。

青山茂根 さんのコメント...

こんにちは。
haiku&me、略してh&mの青山茂根です。
創刊の折りには、情報を載せてくださりありがとうございました。

今回の記事の中で、この華子さんのレポートをとても興味深く拝読しました。
筆者自身の提示した問題意識ももちろんですが、ディベートに拠らないチームが出場し勝ち上がってきたという点に、逆に俳句甲子園の新しい方向性を感じました。最大の攻撃は防御である、あるいはマハトマ・ガンディーの思想のような。

ニュース記事には現れにくい情報で、新鮮でした。   青山茂根