〔週俳7月の俳句を読む〕
すずきみのる
+「や」+
いちはつや大粒の雨降りはじめ 大川ゆかり
石竹や土にぽとりと枇杷の種 生駒大佑
こうやって、良く似た構造の2句を並べてみると、俳句は型の文芸という言い古された言葉を改めて思う。「季語」+「や」+「句の実質的内容(今回は、自然の諸現象)」という構造と内容。お二方の場合は、「や」を挟んでの「季語」と「内容」との関係が比較的親和度の高いものとなっている。とは言っても、大川氏の方は、自然現象をより率直に捉え表現されているのに対して、生駒氏の方は自然の把握に対する作者の個性のより強い介在があるようだ。
それにしても、「季語」+「や」+「句の実質的内容」という器が定立されると、そこに表現や内容の様々なバリエーションがもたらされる。
焼酎や微笑微苦笑薄笑ひ 瀬戸正洋
舟虫や暇もてあそぶとふ遊び 水内慶太
このような「季語」+「や」に続いて、「句の実質的内容」の部分を「人事的内容」+「言葉遊び」的要素で仕立て上げたり、あるいは…
放蕩やプールに塩素見えぬこと 藤田哲史
このような「季語」の部分に「実質的内容(人事)」を置き、「や」に続く部分を「季語」+「季語に付随する内容」で仕立てることで、逆転の構成にしてみたり、というようなことである。
ところが、このバリエーションというものが、どの程度の広がりや可能性を持ちうるかというと、どうなのだろう。「実質的内容」の部分は、ある意味「何でもあり」的な部分であり、字数制限という枠組みはあっても、掲句に見られるように、自然から人事にわたるかなり多岐多方面の事柄が、かなり多彩に詠い込めるように思われる。もちろんその内容を季語が包摂しうるかどうかは、実際の作の中で検証するしかないのかもしれないが。
【補足1】
当然のことだけれど、俳句は「季語」のみでは成り立たない。例えば、「青葉山ホトトギス初鰹」では単なる言葉の羅列に過ぎない。「句の実質的内容」とは「目には」という部分が担っている内容のことである。「実質的」という言葉を使うと、では「季語」は「形式的内容」か、との意見が来そうだが、論点がずれるかもしれないけれど、「季語」は「俳句形式」それ自体と一体化することにおいて十全に機能するという意味では「形式」に属しているということは言えまいか。もちろん「形式」を軽んじる気持ちは全く無い。
【補足2】
もちろん、「や」の前に「季語」が置かれねばならないという決まりや約束事はないのだろうけれど、実際の所、「季語」が置かれるのが、一番句として落ち着くのではあるまいか。いかにも、姿の整った「俳句らしい俳句」となる可能性が高い。逆に言えば、その形を取ることで、俳句としての一線を踏まえて、「実質的内容」部分での大胆な冒険や遊びが保証されるということがあるのではないか、とも思う。「形式の恩寵」というものだろうか。それが鬱陶しい、物足りないという人も多分いることだろうが。
【補足3】
「や」を句中に含む句は、いわゆる二物衝撃(かならずしも常にそうというわけでもないが)の句であり、その特徴は異質な二物のぶつかり合いが、新たなる統一世界を一句の中に構築する可能性があるという点にあり、その場合異質な両者は本来ある種対等な関係である事が前提となる。すると、本文中で言う「実質的内容」を「季語」が包摂するという関係はその前提をはずれたことになりそうだが、しかし実際のところ、二物衝撃ののちの一句の中で「季語」が「季語」としての実質を失った場合、その一句は俳句としての大きな力や魅力を失っているように感じられる点から(もちろん、季語をさほど重視しない立場から言えば、こんなことは馬鹿馬鹿しい話となるのかもしれないが)、 実感として二物衝撃の結果成立した一句の中で、変質した「実質的内容」を変質した「季語」が包摂しているということも言えるのではないか。
■藤田哲史 飛行 10句 ≫読む
■生駒大佑 蝲蛄 10句 ≫読む
■瀬戸正洋 無学な五十五歳 10句 ≫読む
■今井 聖 瞬間移動 10句 ≫読む
■水内慶太 羊腸 10句 ≫読む
■大川ゆかり 星影 10句 ≫読む
■高澤良一 僧帽弁閉鎖不全再手術 10句 ≫読む
■山口珠央 海底 10句 ≫読む
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2009-08-09
〔週俳7月の俳句を読む〕すずきみのる +「や」+
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3 comments:
すずきみのる様
興味深く拝読いたしました。補足3について質問させていただきます。
「非季語+や」の句は避けるように言われますが、<頂上や殊に野菊の吹かれ居り 石鼎>の様な句には独特のインパクトがあるのも確かです。ここでは「頂上」とそれ以外が対等というより、頂上が主役で「野菊」は名脇役に思えます。これが妥当であれば、「変質した季語」とは、脇役に回った季語と考えてよろしいでしょうか。脇役は目立ってはいけませんから、「本意」という豪華な衣裳を着ることができません。裸の季語を使うという事は、無季に近い(弱季?)と言ってよいでしょうか。<放蕩やプールに塩素見えぬこと>にも同じことが当てはまると感じます。それが作者の意図なのか読み手の受け取り方なのかは確かにケースバイケースと思います。
Mikio様、コメントありがとうございます。お訊ねの件の答えになるかどうかわかりませんが、この「野菊」の句について私の考えを少し書きたいと思います。まず、「頂上」について、この語がなければ、この句の世界は成立しないということで、この句を実質的に規定している言葉だと思います。そして、「野菊の吹かれ居り」は、「頂上」という世界における一点景であるならば、等価的関係というよりは、頂上世界を飾る「脇役」風にも思えなくはありません。ただ、ここで注意したいのは「殊に」という焦点化の機能を持つ言葉です。おそらく、俳句においてこの焦点化というのは、かなりの意味を持つ働きだと思います。「頂上」の「殊に野菊が」と詠うことで、「さまざまなものが風に吹かれる中でも特に野菊の吹かれざまの美しい頂上」という、さまざまなきょう雑物を排除した作品世界が完結するように思います。
かって、正反合という弁証法的発想で俳句を説明された方の文章を読んだ覚えがありますが、ちょっと発想は似ていますが、正(頂上)正(吹かれる野菊)合(超正とでも言うのか、たおやかな野菊に飾られた頂上世界、言葉単体としては表現困難な世界)という一つの美的世界が現前するように思われます。
ですから、頂上が主役、野菊が脇役という位置づけとはちょっと違うように思います。ただ、私自身が補足2などで、季語と季語以外の部分に差をつけるようなことを書いているので、この点は自身整理されていないように思います。雑駁な内容でご迷惑をかけたようです。(みのる)
すずきみのる様
丁寧なご回答ありがとうございました。ご説の通り「殊に」で野菊が頂上の主役になるとも言えます。適切な例ではなかったかもしれません。「非季語+や」の二物句についてもう少し考えてみます。<中年や遠くみのれる夜の桃 三鬼>
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