「時間」管見体内テンポとガリレオの振り子
野口 裕
「時間とは何か」を考えるのは、ややこしいことながら、どうしても気になるもので、ことあるごとにいろんな本を読んできた。あまりあれこれ読んできたせいで、いろんな説がごちゃ混ぜになり、誰が何を言ったのかもはっきりしていない。しかし、はっきりしないながらも気にはなるから、記憶を頼りにあれこれと反芻している。結論が出ることはないだろうが、あれこれ考えていることをたまに吐き出すのも精神の衛生上はよいだろう。「ウラハイ」2009年7月26日の記事を読んでいるうちに、そんなことを考えた
まず第一に、「時間」という言葉がくせものだ。「時間」と「空間」は、截然と区分されてしかるべき概念だろう。こんなことを書くと「相対性理論」のことか、と思うかも知れないが関係ない。もともと「時間」のことを語り出すと、どうしても空間概念に由来する用語が紛れ込んでしまう、ということがある。それが事態を紛糾させるもとになる。たとえば、「時間」という言葉の「間」だけ取り出すとこれは「時」とは縁もゆかりもない「空間」概念に属する言葉だ。
過去・現在・未来はどんな関係だろうか。空間概念に置き換えようとすると、普通過去は現在の後ろ、未来は現在の前となるが、英語の過去を意味する before は前方を意味し、未来を意味する after は後方を意味する。したがって、時間をよく「流れ」になぞらえるが、この流れがどっちからどっちに流れているのか、我々は流れに乗っているのか、流れの外で流れを眺めているのか、はっきりしない。
にもかかわらず、時間を考えるときに「空間概念」の助けを借りないと議論は一歩も前に進まない。そこで、「空間概念」の助けを借りるときにはできるだけおずおずと話を切り出すことになる。宮沢賢治の「春と修羅」の序の第二連…
これらは二十二箇月の過去とかんずる方角から…は、時間に対するそうした不確かな気分が良くでているのではないかと思う。
紙と鉱質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケツチです
我々はこの不確かなものを御するために、賢治の言葉で言えば「明滅」あるいは「かげとひかりのひとくさりづつ」を利用している。昼と夜の繰り返しが一日であり、月の満ち欠けが一月、季節の循環が一年というふうに。
「時」の「間」を測るためには、何か繰り返し同じ動きをするものがいる。一日よりもこまかな時間を正確に測ることができるようになったのは、振り子時計の発明以後のことになるが、その原理となる「振り子の等時性」はガリレオ・ガリレイによって発見された。真偽のほどはわからないが、ガリレオは聖堂のシャンデリアが揺れているのを見て、自分自身の脈拍と比べ、大きく揺れるときも小さな揺れのときも往復にかかる時間が変わらないことを発見した、とされている。これ自身は有名な話だが、最近読んだサイモン・シンの『ビッグバン宇宙論』(新潮社)によると、のちにこの振り子の等時性を利用した脈拍計がガリレオ自身の手で売り出され、大いに売れたという後日談があった。
やや皮肉だが、これが本当なら、時間を意識している生命体内部の時間と生命体の外部の時間が最初に出会った瞬間になるだろう。そして、ここに「時間」の話のややこしさの第二のポイントが出てくる。人によっては、ここらあたりでベルグソン、となるかもしれないが、その方面はよく知らない。
『ゾウの時間 ネズミの時間』(本川達雄、中公新書)という名著がある。生命体内部の時間のテンポは生命体のサイズによって異なり、ゾウの時間はゆっくり流れ、ネズミの時間は速く流れる。しかし、ゾウに比べて短命のネズミといえども、生命体内部の時間のテンポの速さからゾウと比肩し得るだけの十全の生命を全うしている。というような話だった。これは生命体の一生を通しての内部の時間幅が、生命体の種類によらずほぼ一定ということを意味するが、生命体内部の時間のテンポが一定であるとは言っていない。現に著者自身が、若年では内部の時間のテンポが速いために、外部の時間が長く感じられ、老年では内部の時間のテンポが遅くなるために外部の時間が短く感じられるようになる可能性を、ラジオの番組(NHKFM「日曜喫茶室」、おそらく二十年以上前)に出演した際に述べていた。
これらのことは生命体内部、主に人の時間のテンポの、伸び縮みと言い得るだろうが、伸び縮みを判定するための変化しない時間テンポは、振り子の等時性のような非生命体の時間テンポなのだろうか。これの答は半分イエスであり、半分ノーだろう。人(生命体内部)の時間の伸び縮みを判定しているのは人(生命体)の集合が生み出す平均としての時間のテンポであり、その集合体の平均としての時間のテンポを律しているのが太陽や月に代表される非生命体の時間テンポという気がするからだ。そう考えると、太陽や月を基準として、せいぜい「時」ぐらいまでしか正確に測れなかった時代から、「分」「秒」まで正確に測れるようになった時代になってからの時間テンポの変化も説明できるだろう。ちなみに、この時間テンポの変化は、自然環境の悪化を通して、人以外の生命体の集合の進化の時間テンポを変化させているかも知れない。余談であった。
時間の話のややこしさの第三の要素は、再び賢治の言葉に戻ると「ここまでたもちつゞけられた」という詩の一行に対応する。どんなものでも、保ち続けようと思って保ち続けられるものではない。いつかは崩れていく。この崩れ具合からどれだけの時間が経ったかを測ることができる。古生物学や考古学で威力を発揮しているいろいろな年代測定の方法はこの原理に基づいている。生きているときに保ち続けられた、たとえば炭素年代測定法なら放射性の炭素の同位体が、どれくらい抜け落ちているかで時間の経過具合を測定するのだ。
また、人とチンパンジーはDNAの99%が同じ、というのはよく聞く話だが、残り1%がずれるのにどれだけの時間がかかるか、ということから、人とチンパンジーがどれくらい昔に分岐したかもわかる。これも物体の往復運動のテンポから測る時間とは原理が異なる。ただし、こっそりと付け加えるが、原理が異なるのに同じ時間を測っていることになるのだろうか、という疑問が頭の片隅に住みついて長くなる。確かめようのない疑問なのだが。
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俳句における季語の一団のなかに「○○忌」というのがある。おもに著名な俳人の死んだ日をさす。忌日の趣旨は、放っておくと崩れてゆく故人の記憶を呼び覚まそうとするところにあるから、ここでの時間の感覚は物体の往復運動に基づく時間の測定原理とは異なる。遠くに死んだたとえば芭蕉や蕪村の忌日と、最近死んだ人の忌日とでは句の色合いが変わってくるのも、その辺のことに起因するだろう。
さて、以上のことを踏まえて、いつも「時間」に関して、いいなあと思っている句がある。
虹自身時間はありと思ひけり 阿部青鞋
この句には今まで述べてきたすべての要素が含まれつつ、一つの謎として成立している。いつも奇跡のように眺めている。
そろそろ虹が多く見られる季節だ。
2 comments:
ウラハイの記事は、書いたあと、粗雑さ、ナイーヴさが、自分でたいへん気になっていました(反省かつ恥じ入り混じり)。それもあって興味深く拝読。
「時間」という語(概念)のもついくつかの局面のうち、どの局面を語るのかを自分で限定しておかないと、詩語のように(この場合は悪い意味で)ふふわふわとしたままで、何も捉えきれないものなのだなあ、と、いま思っています。
示唆深い一文でした。
よく考えると、beforeは「以前」、afterは「以後」と、日本語でも過去が「前」、未来が「後」となる場合がありました。例示も単純なようで難しい。
では時間とは何か。私に誰も問わなければ、私は[時間とは何かを]知っている。しかし[時間とは何かを]問われ、説明しようと欲すると、私は[時間とは何かを]知らない。
アウグスティヌスのこんな言葉を思い出しました。しかし、書いてみることも必要だ。書き終わって、そう思いました。
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