毎週日曜日更新のウェブマガジン。俳句にまつわる諸々の事柄。photo by Tenki SAIBARA
堺谷作品寸評、春風にめくれて民事訴訟法七色のマカロン包む春日影千年の切株に坐し遠霞咲き満ちて百のカメラの上にあり 穏やかな季節の日々,土地問題にでも巻き込まれたのか。重要な生活の出来事がつまっている書類を抱えて、ふと我に返って生存の関係は法的な関係であることをしる。 春という季感に、いろいろなものがこもっていて、にじのように色とりどりでなお溶けてしまう世界。こちら側から先年先を遠望しているようだが、いますわっている切り株の年輪が「千年」の凝縮した「今」であるかもしれない。時制の遠近感は混乱しそうで、いやすでに混乱しつつ未来や過去が呼びよせられる。 桜をうつくしいとおもうとき、われわれはすぐカメラをかまえる、それはなぜだろう。「美」とはそれを観る者の中に生じる意識の風景である。夥しい視線、しかもカメラ、の中で変容しなお咲きみちる桜。 堺谷の句は、ものごとなべて実景実感としてありながら、いつかそれらに意識のフィルターがかかってゆく様をしめしてくるのである。「切り株」「マカロン」「カメラ」などのありふれた物は現実を幻想のものに置き換える大きな役割をはたす。 こんどの現俳協新人賞受賞の宇井十間の構築する世界の感じ方、表し方が似通っている。あちらの世界からこちらに来る宇井さんと、こちらの世界にいて切り株に座ったり、マカロンを口にと溶かしている堺谷さん。その味わいと、想像力の幅や距離を確定しようとする内面的な思惑が、すこしづつからんできて、時間意識もすこしづつねじれてくる。そこまで、読む必要はない、とかんがえる人には、技巧過剰と読まれるおそれもあるかも知れないが、わたしは、この端的な輪廓漬けの一句のなかの世界のできあがりをたのしむ一人である。 白蟻のごとく神官騒ぎだす 真人これなども意外性、おおきく、ちょっと皮肉も感じてかつユーモラスである。
補足。 咲き満ちて百のカメラの上にあり」真人さっそく、仕掛けにだまされた、咲き満ちているのは「桜」と決まってるわけではない。でも、こう書かれるとこれは、「桜」だとおもってしまう。 春風にめくれて民事訴訟法」真人これは、「めくれて」のところで「法律書」「裁判の書類」を連想させるが、そういう錯覚をとおして、私たちは法的な関係の秩序のなかに生きていることをおのずからみせている。それからいま気がついたことは、春風のいたずらで、めくれたものは、あるいはスカートだったりして。すると、又何か、別の解読の場面がでてくる。「何が」という主語をわざと抜いてある。異様な世界もモチーフ次第では可能である。
コメントを投稿
2 comments:
堺谷作品寸評、
春風にめくれて民事訴訟法
七色のマカロン包む春日影
千年の切株に坐し遠霞
咲き満ちて百のカメラの上にあり
穏やかな季節の日々,土地問題にでも巻き込まれたのか。重要な生活の出来事がつまっている書類を抱えて、ふと我に返って生存の関係は法的な関係であることをしる。
春という季感に、いろいろなものがこもっていて、にじのように色とりどりでなお溶けてしまう世界。こちら側から先年先を遠望しているようだが、いますわっている切り株の年輪が「千年」の凝縮した「今」であるかもしれない。時制の遠近感は混乱しそうで、いやすでに混乱しつつ未来や過去が呼びよせられる。
桜をうつくしいとおもうとき、われわれはすぐカメラをかまえる、それはなぜだろう。
「美」とは
それを観る者の中に生じる意識の風景である。夥しい視線、しかもカメラ、の中で変容しなお咲きみちる桜。
堺谷の句は、ものごとなべて実景実感としてありながら、いつかそれらに意識のフィルターがかかってゆく様をしめしてくるのである。「切り株」「マカロン」「カメラ」などのありふれた物は現実を幻想のものに置き換える大きな役割をはたす。
こんどの現俳協新人賞受賞の宇井十間の構築する世界の感じ方、表し方が似通っている。あちらの世界からこちらに来る宇井さんと、こちらの世界にいて切り株に座ったり、マカロンを口にと溶かしている堺谷さん。その味わいと、想像力の幅や距離を確定しようとする内面的な思惑が、すこしづつからんできて、時間意識もすこしづつねじれてくる。
そこまで、読む必要はない、とかんがえる人には、技巧過剰と読まれるおそれもあるかも知れないが、わたしは、この端的な輪廓漬けの一句のなかの世界のできあがりをたのしむ一人である。
白蟻のごとく神官騒ぎだす 真人
これなども意外性、おおきく、ちょっと皮肉も感じてかつユーモラスである。
補足。
咲き満ちて百のカメラの上にあり」真人
さっそく、仕掛けにだまされた、
咲き満ちているのは「桜」と決まってるわけではない。でも、こう書かれるとこれは、「桜」だとおもってしまう。
春風にめくれて民事訴訟法」真人
これは、「めくれて」のところで「法律書」「裁判の書類」を連想させるが、そういう錯覚をとおして、私たちは法的な関係の秩序のなかに生きていることをおのずからみせている。
それからいま気がついたことは、
春風のいたずらで、めくれたものは、あるいはスカートだったりして。すると、又何か、別の解読の場面がでてくる。「何が」という主語をわざと抜いてある。異様な世界もモチーフ次第では可能である。
コメントを投稿