2009-09-13

マン・レイのように 中村安伸「水は水に」30句を読む 猫髭

マン・レイのように
中村安伸「水は水に」30句を読む

猫髭


「水は水に」というタイトルで、すぐ連想したのは、「でたらめの歌をうたうて良夜なり」に始まり「一口を残すおかはり春隣」に終わる麻里伊句集『水は水へ』(2002年・富士見書房)だった。麻里伊句は一度詠むと胸にさりげなく住み着くような句で、目から頭を通さずに胸にあたたかく届くような佇まいをしているが、中村安伸の句は目から頭を通して皮膚にぴりりと泡立つようにして血管を脳へと遡る佇まいをしている。並べてみよう。

  水は水へ流れて夏の盛りなる 麻里伊

  水は水に欲情したる涼しさよ 中村安伸

同じ「夏の流れ」を見て、麻里伊句は「水は水へ」と水が水に流れ込むひとすじの流れの涼しさを水に託して夏の暑さを言い、安伸句は「水は水に」と水が水と揉み合う瞬間に焦点を合わせて日差しのハレーションで水をソラリゼーションしたように水を変容させたあとで、水そのものの欲情の涼しさを言う。麻里伊句が「実」の世界を流れているとすれば、安伸句は中七のハレーションでマン・レイの写真のように「虚」の世界へ反転しているということになる。

「実」に立つのが俳句で、「虚」に立つのは詩であるため、安伸句は俳句ではなく一行詩かと言えば、座五で「涼しさよ」と、季題という「実」へ帰るため、詩ではなく俳句であると言える。

麻里伊句集が、

  でたらめの歌をうたうて良夜なり 麻里伊

一句に始まるということは、この一句で麻里伊句集の自然体の方法論が証されているように、

  水は水に欲情したる涼しさよ 中村安伸

一句に、「実」から「虚」に入り、季題という「実」で俳句の構造を支えるという安伸句の骨法は証されていると言える。この「虚」の部分が詩として皮膚をぴりりとさせる所以なのだ。

  秋雨の空母は誰が妻ならむ

二句目。「秋雨の空母」という冒頭で、わたくしは横須賀の三笠公園に保存されている日露戦争の連合艦隊旗艦、戦艦三笠を想像したが、続いて、その「空母」の「母」からの連想のように「空母は誰が妻ならむ」とソラリゼーションが起こると、

「茉莉」と読まれた軍艦が、北支那の月の出の碇泊場に今夜も錨を投れてゐる。岩塩のやうにひつそりと白く。

という安西冬衛の詩『軍艦茉莉』の冒頭を思い出す。句では秋雨が降っているが、詩でも「月はずるずる巴旦杏のやうに堕ち」る秋であり、軍艦茉莉の艦長である私は、艦長公室に監禁され、妹はノルマンディ産れの機関長に犯されて、自身もモロッコ革の長椅子で、雪白なコリーに見張られながら麻薬に爛れている。艦長の夢は春を飛ぶか。

  てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。 『軍艦茉莉』より「春」

安伸句のソラリゼーションは、灰色に濡れる空母の威容を浮かび上がらせながら、母と妻と離れた男たちの哀しみを閉じ込めているかのようだ。「秋雨」が俳句の構造を押さえている。

  この穴を所有してゐる天の蝉

三句目。この句は一句目が「涼し」(三夏)であり、二句目が「秋の雨」(三秋)であるのに対して、「蝉の穴」(仲夏。「蝉生る」の横題)を詠んでいるため、今年の異常気象のように読者の季感を季戻りさせるような唐突さがあり、かつ「所有してゐる」というソラリゼーションが「蝉の穴」という季題の因数分解のように初五と座五にばらけて理屈を生んでおり、擬人化としても、蝉がまた穴に戻れるわけもないので安伸句の骨法も生かされず、三十句というまとめて句を見ず知らずの読者に読んでいただく配慮にも欠けており、思いつきだけが空回りしている句だろう。

八月の句の鑑賞を頼まれて再読して気づいたが、最初わたくしは通常十句のところを三十句掲載されているので、いわゆる特別寄稿三十句として読んでいて、あらためて猫髭感賞として再読して、2009年度現代俳句協会新人賞・落選作と銘打っているのに気づいた。わたくしは作品主義なので、作品しか読まないので見落としていた次第だが、鑑賞は、基本的に「感賞」であり、「自分がいいと思った句は力一杯褒めなあかん」(ふけとしこ曰く)ことが本意とはいえ、「落選作」とあるので、多分、わたくしが選者だったら、この句で×を付けると思ったので、敢えて苦言を呈した。

わたくしも句友の句集の校正を手伝ったことがあるが、その校正とは、表記ミスや文法ミスだけではなく、徹底的に四季・二十四節気・七十二候通りに句を並べることだった。読者が季節の流れ通りに自然に作品の時間に入って自然に読むことが出来るためには、季節の走り・旬・名残通りに並べないと、読む時間の自然さが疎外されるためである。勿論、クライマックスの場面では、季は三夏の間であるなら初夏と晩夏が入れ替るといった程度は無視して構わない。

俳句というのは料理のようなもので、作るのは作者だが、食うのは読者であり、「ここがうまい」「ここでこういう苦労をした」「こう喰え」とかゴタクを並べられると、やかましい、黙って味わわせろと怒鳴りたくなるし、出てくる順番は味の薄いものから濃い物へ、また時に箸休めという献立の手順は、料理人のコモン・センスである。俳句は俳諧から生まれて一句自立となったが、何十句というようにまとめて味わってもらう場合は、俳諧の連句のように、季節の流れと献立の手順くらいは、読者のために工夫を凝らしていただきたい。芭蕉は俳諧の捌きの名手だが、俳諧の座に出す献立に関しても、芭蕉は詳細な献立表を自分で作って残している。賞に出すなら、選者は百戦錬磨の料理人であり「歳時記」という献立表は全部頭に入っていると思って間違いない。感性は頭抜けた資質があるのだから、並べる献立に注意を払えば食べる者の笑顔に作る苦労は報われる。

  涼しさや時間旅行をして来し妻

四句目。また、「涼し」に戻るが、タイトル句の対句として読めば、この「時間旅行をして来し妻」というタイムスリップ感はソラリゼーションに成功している。自分の知らない遠いところへ行って来て、しかし、帰って来てくれた安堵感を「涼しさ」という季題が支えて地に付けている。「実」は郷里の同窓会にでも行って来ただけかも知れないが、「時間旅行」という「虚」が連想の快楽を読者に与える。

デビッド・リーンがノエル・カワードの戯曲を映画化した『逢びき』のラスト・シーンを思い出す。中年の開業医トレバー・ハワードとの不倫の恋に別れを告げて、美しい人妻シリア・ジョンソンが家に帰って呆然としていると、クロスワード・パズルが唯一の趣味のような夫シリル・レイモンドが妻の憂い顔を見て、クロスワードの手を止めて「遠くへ行っていたようだね。帰って来てくれて、ありがとう」いうラスト・シーンは、わたくしは名シーンだと思ったが、この映画を元に名短編『「あいびき」から』を書いた永井龍男は、主人公が妻と離婚したばかりの軍人上がりの中年独身男という設定なので、不倫して帰って来た妻を許してしまう好人物の夫に腹を立てさせているのが可笑しい。

掲出句も、『逢びき』のラストシーンのように、「涼しさや」が夫婦の涼やかな関係を暗示していてほっとさせる。

  いなづまの刺青を負ふ人魚姫

五句目。これは「実」ではなく、徹頭徹尾「虚」の世界のように見えるが、たまたまわたくしはコペンハーゲンを何度か訪れて港の人魚姫のブロンズが雨に打たれ日に晒された痕を滴らせる像を見ているので、稲妻のコペンハーゲンの夜の人魚姫のブロンズを思った。夜のコペンハーゲンは、住んでいる者はアンティックなだけだと言っていたが、駅舎からシュトロイエ通りから、この夜の景を哲学者のキルケゴールが歩いたのかとその美しさに感激していたし、海沿いのクローネンバーク城はシェイクスピアの『ハムレット』の舞台になった荒々しい城で、中広間の石畳はローレンス・オリビエの『ハムレット』のロケ地だから、稲妻に浮かぶ人魚姫はイメージとして鮮明に浮かんだ。

まあ、安伸句の感性に驚いたので贔屓の引き倒しのような読みだが、余談ながら、茨木和夫と西野文代が澁谷道の連句誌『紫薇』で詠んだ発句と付句に秋の人魚の掛け合いがあったのを思い出したので、附記しておく。

  月の沖ひかり崩れてゐたりけり 茨木和夫
    人魚掻き上ぐその木の葉髪 西野文代

茨木和生の木の葉髪を俳諧に巻くとは怖れ入谷の鬼子母神である。

この調子で全句感賞するのは、土俵を割ってまだどすこいしているようなものだから、最後に挙句を感賞して打ち止めとするが、

  時を告げさうな沼なり秋彼岸
  冬晴れて聖書にはなき熱海駅
  
飴色の筮具が遺品竹の秋
  
春浅き果実は炭に祖父は灰に
  
山笑ふ膿のごとくに湯を出して
  
地球儀の前で下着を脱ぐ虚子忌
  
肉塊となるまで脱ぎし熱帯夜

など、その言葉のソラリゼーションの陰翳に瞠目する句が並ぶ。

  片陰や犬にひとつの名を与へ

挙句である。ジローとかタローといった具体的な名を与えたのではなく「ひとつの名」というところが安伸句のソラリゼーションのヴァリエーションの豊かさだろう。Solarizationというのは、写真で、露出が極端に過度の場合、現像後明暗が反転している現象であり、この現象を利用して特定の写真効果を作り出す技法を云う。アメリカの写真家マン・レイがソラリゼーションの名手で、完全に明暗を反転させるだけでなく、髪だけを反転させるというように一部だけを反転させる事で、グラデーションの濃淡が独特で、殊にそのヌード写真は明暗の反転を輪郭だけにとどめる技法で、水墨画のようなヌードは衝撃的だった。安伸句の感性は言葉のソラリゼーションを明確に方法論として選んでいるようにわたくしは思えたし、それが一行詩ではなく、俳句の構造を持つことは「季題」という「実」を枠として選んでいることにあると思えた。

この挙句もさりげないが「片陰」が利いており、アーサー・ミラーが『セールスマンの死』を上演する際にパンフレットに書いた言葉を思い出させた。

夏の日盛りの路傍に置かれた氷の上に自分の名前を書いて、それを誰かに知ってもらいたいという欲求。

この「犬」とは、「実」としては誰かが連れている犬に過ぎないかも知れない。しかし、それをソラリゼーションすると、カフカの『審判』の最後で「まるで犬だ」と心臓を二度ナイフで抉られて死んでゆくヨーゼフ・Kかもしれないし、作者自身かも知れない。そのとき、「ひとつの名」とは、片陰に置かれた氷の上に書かれた「自分の名前」なのだ。

2 comments:

中村安伸 さんのコメント...

猫髭さま

ご高評いただきまことにありがとうございました。
ご鑑賞により、作品が作者の手をはなれて成長してゆくようで、非常にうれしく思っております。
また、推敲や自選の際には、読者の立場に立ってできるだけ客観的に自作を見ているつもりだったのですが、いかに欠点、長所ともに見えていないか痛感しました。

賞は別にして、連作の構成に関してはもっと工夫が必要だと思っております。ご指摘いただきありがとうございます。

麻里伊さんの句集については拝見しておりませんが、類似のモチーフからまったく別の方向へ展開されていることなどを興味深く感じました。

猫髭 さんのコメント...

中村安伸さま、

わたくしも鑑賞していて、徹底的な写生修練の過程で、言葉をソラリゼーションすることで虚実のアンビバレンツな共存を掴み取る方法論は、現代俳句の一つの方向性ではないかと気づいたので、以前から「夢もまたわたくしが間違いなく見たリアルである」と思っていたので、この方法で夢の写生が出来ないかと啓示をもらったようで、安伸句に出逢えたことを僥倖としています。ありがとうございました。