彼女が教えてくれたこと 後編
水夫 清
この文章をこうして書いているので、僕は倒れたあと絶命したわけではない。そこまで行かなかったのは医者の目の前で倒れたからだ。倒れた訳は、軽度の脳出血。脳の障害は、いつ、どこで起こるのかが予後に大きく影響する。軽度でも発見と処置が遅れると命に関わる場合がそうだし、リハビリの期間が伸びると聞かされた。僕の場合は、処置を速やかに受けることができただけでなく、クリニックの医師が元脳外科医であったこと、クリニックから1ブロックしか離れていないところに大きな病院があったこと、そういう幸運が重なった。
翌朝には意識は戻って、目を開けたとき最初に見たのは、僕の様子を見守る妻の青ざめた顔だった。
「ハーイ」
僕は囁くように妻に呼びかけた。
「あなた…ああ、よかった…」
チューブで繋がれていない方の僕の手を、妻は両手で握りしめる。部屋のどこかにいたのだろう、子供たちの顔が一斉に妻を囲んだ。そして僕と目があった。
「やあ、お父さん、分かるかい、僕たちだよ」長男が代表して言った。僕はゆっくりと出来るだけ大きく頷いた。でも実際に僕の首はほとんど動かなかったようだ。他の子供たちが「分かるかい」と同じ質問をした。
身体の機能に麻痺があるのか、脳の指令が身体の各部に伝わりにくい。特に右半分の反応がない。口もうまく動かなくて、いつも通り発音しているつもりなのに、妻は何度も聞き返す。言葉を口にしても一言二言程度しか続かない。「一息で朗読できることがうれしい」というキャロルの言葉を思い出した。今の僕は1句さえも言い終えることはできない。
それから、2週間入院した。最初の10日ほどは、ほとんどベッドに寝たきりだった。寝返りをすることさえままならない。終日うつらうつらを繰り返し、目を醒せば、目の前と少しばかりの左右の光景を眺めることしかできない。白い天井、四角い点検用の枠、換気口、飾りっけのない照明。風を受けたカーテンが時々視界の端に揺れる。心は、元のように身体が動くようになるのだろうか、と不安で揺れる。キャロルのように、ベッドに根が生えるほどいたわけではないが、寝たきりとはどういうことなのか少し分かったような気がした。
リハビリは順調に進んだ。妻が看護婦というのは、こういう場合に役に立つ。やさしく労ってくれるからではない。その逆で、ついおっくうになる僕の尻を叩いてくれる。良薬口に苦し、のリハビリ版というわけだ。子供たちも私の動きを助けてくれる。でも対応がとんちんかんなことがあり、本当に痒いところに手が届くまでは行かない。ムッとすることはあるが、頭に血が上ることは避けなければならない。それに、好意でしてくれることにけちをつけるわけにはいかない。僕は辛抱強く「これはこうしてもらったほうが助かるんだよ」などと説明を繰り返した。病気には、本人も家族もうまく付き合っていかなければならない。僕たちの場合はなんとかうまくいっているようだ。
右の手は動きにくいが、幸い左は普通だ。僕は左利きなので、コンピュータのマウスは左で持つ。したがって俳画を描くには支障はない。テキストだって、時間はかかるが片手でも打てる。退院してすぐに友人たちにメールを送り、みんなから労りと励ましの返信をもらった。キャロルには新しい俳画を送った。キャロルのメールは、「Welcome to the club」で、始まっていた。寝たきりクラブへようこそ、という冗談だ。キャロルは、重たいものを軽く受けとめることに関しては大先輩。彼女のメールは僕にとって一番の励ましになった。キャロルとの付き合いは、「僕が励ましてあげよう」という気持ちで始まったが、今は立場が逆転している。人生何が起こるかわからない。人のためにできることがあれば、できる間にしておくものだ。いつかそのお返しをいただくことになる。
ある友人からのメールにハイクの大会のことが書いてあった。11月の中旬にボストンでその大会が催される。カナダや米国の俳人が集まる2年に1度の会だとのこと。会では何人かの講演が組まれる。今回は僕が講師のひとりとして候補に上がっている、俳画について話してほしいが、どうだろう、参加できるか、との打診だった。いい話だ。僕は乗りたいと思ったが、なにしろ今は初めて体験する病気の最中だ。大会のころまでに身体がどの程度快復するのか検討がつかない。しかし、行きたい。こんな機会はめったにない。いままでに俳画のコラボをしたことのある俳人が何人も参加するようだ。連中とはメールだけのお付き合いだった。この機会に実際に顔を合わせて話ができるのだから、こんなエキサイティングなことはない。僕は数日後の検診の時に担当医に相談してみた。
「…あなたの努力しだいですね」と担当医はクールに答えた。でも、「目標があれば、リハビリにがんばることができるし、私ならボストンの件は引き受けますね」とも言い添えてくれた。そして、診察後、帰り際に担当医は両手を交互に振ってマラソンのポーズをし、僕にウインクを送ってくれた。
僕はがんばった。仕事にも復帰した。できるだけ多く歩いた。役所のエレベータは使わず階段を使った。昼休みや帰宅してから散歩を心がけた。しゃべる訓練をするため歌を唄いながら歩いた。こういう姿を映画にしたら、その背景にはロッキーのテーマ曲が流れているに違いない。そんなたわいもないことも考えながらリハビリに励んだ。
夜は、講演の原稿を書いた。左手の人差し指1本でキーを叩く。普段はブラインド・タッチなので、いちいちキーを探さなくてはならない。面倒な作業だ。鶴のようにキーを打つキャロルの姿を想像した。がんばらなくっちゃ、と思う。日を追うごとに指1本でもけっこう早く打てるようになっていった。俳画の講演なので、作画例の俳画を選んだ。そしてパワーポイントに取り込んだ。僕の持ち時間は30分。その間に十数点の俳画を見せる。講演の準備が整った段階で家族に披露してみた。言葉に少し聞き取りにくい部分があるわ、と妻が言った。いままで俳画に興味を示さなかった子供たちからは、けっこういい線いっているよ、とお褒めいただいた。末っ子だけは居眠りをしていたが。
講演の日まで2週間と迫ったころ、12点目の俳画を添付し、キャロルへメールを出した。メールの中で僕はある提案をした。
私が送った俳画はすべてプリントアウトされ、キャロルの部屋の壁を飾っていると僕は知らされていた。しかし、気になっていることがあったのだ。俳画データはモニターで見るには差し支えないが、プリントアウトするにはきめが荒い。彼女の家のプリンターは四色のみで色再現には限界がある。紙だって普通のものを使っているそうだ。私の方できちんとプリントアウトし、ボストンの俳句大会に参加する機会に訪問し手渡したい、という提案をした。
キャロルからの返事はいつもより時間がかかった。「ウイルスにやられてしまいました。と言ってもコンピューターのウイルスじゃなくて本物のウイルスです…」
インフルエンザにでもかかったのだろうか、ちょっと気がかりだ。彼女はさらに、提案はとてもうれしいし、光栄だが、僕の身体が気がかりだと書いていた。「なにしろ、山奥なのでバスも汽車もありません…馬と牛はいっぱいいますが」と書いてあった。ボストンからキャロルが住むコルレインまでは約160キロメートル。米国の距離感では決して遠い道のりではない。車で2時間余りだし、車に乗る事は医者から許可を得ている。僕は「ノー・プロブレム…お会いできるのを楽しみにしています」と返事した。出発の数日前には、俳画を厚手の良質紙に大きく印刷し、僕のサインを書き入れ印を押した。そしてそれぞれに紙マットだけの簡単な額装を施した。
出発の日は快晴だった。2泊3日の旅行なので鞄は小さい。それとキャロルへのプレゼントの包みを車のトランクに入れた。僕は自宅のあるアレクサンドリア市からワシントンの空港までルート1を北上した。距離はほんの5キロほどだ。車を駐車場に預け、ボストン行きの便に乗った。
俳句の大会は市内にある大学の施設で開催された。僕の講演は聴衆に温かく受けとめられた。楽しみにしていた俳人との出会いも期待通りだった。ただひとつ残念だったのは、僕がお酒を控えていたこと。みんなが持ち寄ったおいしいワインを飲みはぐれてしまった(俳人にはお酒の好きな人が多いのだ)。とまれ、俳句のことを書くのがこの文章の本題ではないので、大会の様子についてはこれくらいにしておく。
翌日、9時過ぎにホテルを出発した。お昼ごろにキャロルの家に着き、夕方にはボストンに戻り、その日の内に帰宅する予定だ。ルートはできるだけフリーウエーを使うようにし、身体への負担を減らすよう心がけた。それでも限度があって、ルート91をグリンフィールドで降りてから細い山道になった。道には、マウンテン・トレイルという名がついているぐらいだ。道の両脇は紅葉の盛りだ。清澄な空気が窓から入ってくる。こういう道も悪くない。
僕は、たまにやってくる後続車をどんどん先に行かせた。道の名前は、モーホーク・トレイルに変わり、さらにメイン・ロードになり、そしてコルレインの中心地の三叉路についた。三叉路の周りに店や人家がいくらかある、という程度だ。1軒の店に人影が見えた。あらかじめ地図をキャロルから送ってもらっていたので、僕はそれを取り出して店に持って入った。店のおじさんはカウンターから出て来て愛想良く僕に挨拶した。僕は道順を確かめるために彼に地図を見せた。
「ウッドランド・ファームだね。その道を20分ほど行けば看板が出ているよ」
彼は、三叉路のうち、一番細い道を指差して説明した。そして、
「キャロルに会いにいくのかね」と尋ねた。
「そうですが、よく分かりますね」
「この辺で、よその人が訪ねてくるのはキャロルぐらいのもんだよ。けっこう有名人だからね。知っていると思うが、身体が不自由だ。でもすばらしい詩を書くんだ」
「それとハイクもね」と僕が言い添えると、
「ハイクって、あのカエルが池に飛び込んでどうのこうのってやつだね。中学の時に習ったよ、たしか。そうか、キャロルはカエルの詩も書くのか」
ハイクの説明をしたほうがいいかなと思ったが、このおじさんでは時間がかかりそうだったので、僕はお礼を言ってさっさと車に戻った。
細い道の両側には木立が並んでいて、トンネルのようになっていた。それは、しばらく行くと途切れがちになり、広い牧草地が垣間みえるようになった。道路の右側に木で出来た看板が立っていた。手描き文字で『ウッドランド・ファーム』と番地が書いてあった。そこを折れたが、家は見えない。土の道が牧草地の向うに続いている。あちこちに牛が見える。のんびりと草を食んでいる。僕のことはまったく気にしていないようだった。やがて木立が増えてきて、その向うに大きな農家が姿を現した。りっぱなサイロも視角に入ってきた。
僕が家の前に車を近づけると家の中から婦人が出て来た。僕が車から出ると婦人はもう目の前まで来ていた。キャロルのお母さんだろうか。艶のある白髪が風に揺れている。にっこりと笑って僕に言った。
「キヨシさんね。ようこそウッドランド・ファームへ。キャロルの母のジーンです」と言って握手の手を出した。僕はその手を取って両手で軽く握った。いくつか挨拶がわりの言葉を交わしながら僕たちは家の中に入っていった。
家の中はほのかな光に包まれていた。北側の大きな窓からの光がリビングルーム全体に届いているのだ。南側には壁があり、真ん中にドアがあった。ジーンはそのドアを軽くノックした後、さあどうぞ、と僕を促した。開かれたドアから規則的な機械音が聞こえてきた。部屋は南からの光で明るく、その光の中にキャロルのシルエットが横たわっていた。胸のあたりが大きく盛り上がっている。これが、キャロルが言う亀の甲羅か。キャロルは動く方の手を僕のほうに向けてゆっくりと振っている。僕はベッドに歩み寄り、その手をとった。
「キャロルさん、やっと会えましたね」
ベッドサイドの椅子に座りながら僕は言った。キャロルは口に着けていた呼吸用のマウスピースを少し動かして、会えてうれしい、と短く答えた。そして、呼吸を整えてから続けた。
「なんだか年甲斐もなくドキドキしています。いつもより言葉が出にくいわ。ごめんなさいね」
「ぼくだってドキドキしていますよ。メールをとおしてキャロルさんとお付き合いしてきたけれど、これが初対面ですからね」
そんな風にして僕たちの会話は始まった。俳画制作のこと、キャロルが今詠んでいるハイクのこと、ボストンの大会のこと、など話は続いた。キャロルのコンディションに合わせてゆっくり話しあった。レースのカーテンが時折風をまとって大きく膨らむ。遠くで悠長な牛の声がする。窓の外側には板が取り付けてあって、そこに小鳥が数羽集まっている。
「毎朝、餌をまいてもらっているの。ここにやってくる鳥さんたちは代を重ねているんですよ。親から子、そして孫という風に。長い間見て来たからよく分かるの」
キャロルは、流行遅れの大振りな眼鏡を窓の外に向けた。僕も同じように視線移し、小鳥たちを眺め、目をその先へと動かしていった。陽光を受けた牧草地が広がる。紅葉の林、そして広い青空。雲が少しずつ形を変えながら流れていく。この限られた光景からキャロルは数々の詩やハイクを作ってきたのだ。
部屋のドアが小さくノックされた。キャロルはイエスと応えた。ドアが遠慮がちに開いて、小さな顔が覗いた。4、5歳ぐらいか。
「ティムね。さあ、おはいり」
ティムが僕たちに小走りで近づいてきた。キャロルは僕とティムを交互に紹介した。ティムは、日本の人に初めてあったよ、同じ言葉を話すんだね、と大きな目をクルクルさせながら感心した。そして右手に持っていた紙袋をガザガザと開けた。
「これ、おばさんにもってきたんだ。道で見つけたんだよ」
そう言いながらティムは平べったいものをキャロルにさしだした。僕はそれが何か気がついて一瞬ギョッとした。何かで踏みつぶされ、ぺちゃんこになったカエルだった。乾燥してひからびている。キャロルは一瞬も動ぜず、
「鉄の肺をつけていたら、こんなことにはならなかったのにね。かわいそうね、ティム」
と言った。
「でも、こんなになってしまっても、おばさんのハイクのヒントになるかもしれないわ。いいもの見つけたわね。ありがとう、ティム」と喜んだ。そして、唯一動く2本の指にそのカエルをはさみ、しばらく眺めていた。
「こんなカエルの場合、芭蕉さんならどう詠むでしょうね。こんな感じかしら」といって次の句を披露した。
Old pond--
a leaf falls, water ripples
spread soundlessly
(意訳)古池 落ち葉の波紋 静かに広がる
「ぺしゃんこのカエルを落ち葉に見立てたのですね、なるほど。カエルさんはハイクに詠まれて息をふきかえしましたね」と僕は応えた。
「キヨシさん、このカエルを見たとき、ちょっと引いたでしょう。気がつきましたよ。普通はそういう反応でしょうね。あまり気持ちが良いものではありませんからね。でも、そんなものでも、私はうれしい。ティムにはお愛想ではなく、本当に感謝したんですよ。寝たきりの者にとっては、どんなものでも詩やハイクのきっかけになるの。創作の楽しみをもたらしてくれるわ。このプレゼントで私は充分に満足なの」
会話の中でキャロルは、「充分に満足」という表現を何度か繰り返した。自身のこと、家族のこと、創作のこと、彼女のすべてについて充分満足しているのだ。その言葉の重みと真実性に僕は打たれた。胸がいっぱいになってきて、思わず涙ぐんでしまった。そんな自分の変化を隠すように僕は席を立って、持参した俳画の包みを開いた。そして1枚ずつキャロルに見せた。
「まあ、こんなに奇麗に。大きくして額に入れると引き立ちますね。本当にありがとう、キヨシさん」
そして、「充分に満足」とまた言った。
キャロルとの穏やかな時を二時間ほど過ごして、僕はおいとました。僕も充分に満足した気分になっていた。帰り際に母親のジーンと言葉を交わした。最後に、さよならと声をかけた時には、キャロルは眠りについていた。
傾きかけた陽が紅葉を通り抜け、帰り道は清らかな暖かい光で溢れていた。このまま通り過ぎてしまうのはもったいない、と思い僕は車を止めた。写真でも撮っておこう。僕は鞄の中からデジカメを出そうとした、が、そのカメラがない。ちょっと考えて、キャロルの家に置き忘れてきた、と気がついた。母親のジーンにキャロルと僕のツーショットを撮ってもらって、そのままになっていた。部屋のどこかに置いてあるのだろう。
僕は車を回して再びキャロルの家に向った。家の前まで行くと先ほどにはなかった車が1台とまっていた。何か慌ただしい雰囲気が家から漂っている。家の中に入ると、階段の側で男性が電話をしているのが目に入った。左側のソファーにはジーンが沈み込むように座っている。ジーンは僕に気がついて、「キヨシさん…」と一言いった。
「なにか、あったのですか」
「キヨシさんがお発ちになってしばらくしてからキャロルが苦しみだしたのです。意識は朦朧としているようで……トムが今、お医者さまに連絡しているところです」
電話が終わって、長男のトムが僕たちのところへ来て、医者と連絡がとれた、すぐ来てくれるそうだ、と報告した。キャロルは機械に繋がれているのでこちらから医者のところに駆けつけるわけにはいかない。医者は20キロほど離れたところからくるらしい。トムは引き続き電話をかけ始めた。他の家族はあちこちに出かけているのだ。ジーンと僕はキャロルの側に行った。呼吸が荒く、声をかけても返事はない。まぶたの下で目玉が時々ぐりぐりと動く。
「ウイルスのせいかしら…」とジーンが顔を曇らせた。僕たちはなすすべもなく、ただ見守るだけだった。
医者が来たのは日が沈んだあとだった。そのころまでにはキャロルの父をはじめ家族のほとんどが揃っていた。ジーンが僕のことをみんなに紹介してくれた。7時を過ぎたころに、医者がキャロルの部屋から出て来た。みんな一斉に駆寄り、医者の報告を聞いた。「必要な処置はしておきましたが、念のために看護婦を残しておきます。今夜一晩、様子を見ましょう」ということだった。まだ、予断を許さない状況らしい。しかし、医者に看てもらったせいか、みんな少し安心したようだ。
「キヨシさん、あの…飛行機は…」
ジーンが思い出したように僕に言った。僕はハッとして時計を見た。予約している便にはとても間に合わない。キャロルの症状に気をとられていて飛行機のことをすっかり忘れていた。
「キヨシさん、よかったらうちに泊まっていきなさい。こんな状態だから、ろくなもてなしはできないが…」
状況を察してキャロルの父は申し出てくれた。知らない土地で、しかも夜道だ。僕は申し出をありがたく受け入れた。電話を借りて妻に連絡した。事情を説明し、帰宅は明日の昼過ぎになるだろうと、伝えた。
2階の1室でその夜は過ごした。周囲の森を吹き抜けていく風の音が、かすかに聞こえる。時折なにかの動物の声らしきものも聞こえる。それ以外は静寂、そして深い闇。僕はキャロルの状態を気にしながらいつしか眠りについた。
翌朝、物音で目が覚めた。誰かが階段を降りて行く。時計を見ると6時前だった。僕はトイレにいくために起き上がり、部屋を出た。階段の下で話し声がする。もしや、と思って、僕は階段を降りていった。キャロルの部屋が開いていて、ジーンが出て来た。
「キヨシさん、キャロルの意識がもどったのよ」
ジーンは晴れ晴れとした顔で僕に言った。
「よ、よかったですね」
僕は急いでキャロルの部屋に入った。キャロルの父親と目が合った。僕は親指を立るジェスチャーをして、ウインクを送った。背を向けて立つ看護婦の腰のあたりにキャロルの顔があった。僕を見ている。少し微笑んだように見えた。
「キヨシさん、おはようございます。ずいぶん心配させてしまったようですね。それから予定を狂わせてしまいました。ごめんなさいね」
「いいんです。僕にしても僕の訪問がキャロルさんの体調に影響したのでは、と気にしていたのです」
「ウイルスのせいですよ」
看護婦が僕を見てサラリと言った。
朝食をいただてから僕はボストンに向った。キャロルが快復したのを見届けることができたし、予定が狂ったというほどでもない。1日余分に休暇を取っていたから、仕事には支障はないのだ。
空港には少し早めに着いた。チェックインを済ませたあと、レストランでコーヒーを飲んだ。カウンターの上にテレビがぶら下がっている。ぼんやりと眺めているとニュースが始まった。神妙な面持ちのアナウンサーが飛行機事故のニュースを伝え始めた。ワシントンの空港での事故で、着陸直前の飛行機が川に突っ込んだそうだ。便名がテロップで出た。なんと僕が昨晩予約していた便じゃないか、僕は飲みかけのコーヒーカップを落としそうになった。
僕はまた水泳を始めた。いつものようにクロールを試みたが、まだ右腕がうまく廻らない。それで、水中歩行のコースに移った。歩きながら、手を掻く動作をしばらく続けることにした。なんだか物足らないが、辛抱、辛抱。その辛抱に堪らず水中を数メートル潜ってみる。この浮いている気分。なんとも言えんな、と悦に入った。ちょっと潜って、しばらく歩く。そうして水中歩行をしている時に、フッとキャロルのことを思い出した。
考えてみると、寝たきりのキャロルに僕は2度助けられた。1度はリハビリ中の励ましの言葉によって。そして2度目は飛行機事故。あの事故では機長の英断で機体は水面に胴体着陸した。幸い死者はなく、軽傷者だけですんだ。しかし、そんな命が縮まるような体験はしたくないものだ。キャロルが体調を崩したおかげで僕はそんな体験をせずに済んだ。
そして、以前は気になっていたが、病気や事故に比べるとどうでもいいや、と思える程度の不安や疑問、つまり浮遊感に対する不安や根とは何かということ、これらについてもキャロルの言葉が参考になると思った。あれから、何度も思い出していた言葉だ。
「充分に満足」
根があればいくら浮遊しても安心だ。その根とは何か。それは、自分の今ある姿に対して、真に感謝する気持ちのことではないか。キャロルの態度を思い出しながら、そう思った。僕はどうだろう。仕事、家族、健康、そして絵を描くことなどに対して感謝が足りていただろうか。乾涸びた蛙のプレゼントさえ感謝して受け取るキャロルほどには、僕の感謝の質は深くない。「真に感謝」とは、どんなことやモノにも、ありがたいと感じる気持ちだ。そのような感謝があれば、満足できないものさえ満足できるようになる。それが「充分に満足」という気持ちなのだ。キャロルはまさにそんな感謝と満足のしかたをしていたのだ。それが、地に着いた足に根が生える、ということなのだろう。
なんとなく、感謝、満足、根という思考の流れが出来て、僕は今一度水中に潜った。手から足まで真っすぐに伸ばして水中を進む。となりのコースではおばさん人魚が泳いでいる。この浮遊感、たまらんな。いい気分を味わって、僕はプールから出た。
キャロルとは、時々メールをやり取りしている。相変わらず、前向きに寝たきりを続けている。俳画は全部で15点描いた。これでコラボは一応終了とした。コラボを希望する俳人のウエイティング・リストがあるのだ。ときどき、俳画を描く時間が充分でない、と不満のたまることはある。でも身体が不自由になり1枚も絵が描けなくなることと比べたら、今の状態はありがたい。充分に満足できる状態だ。もっとしっかり根を生やさなければ、と僕は考えている。
(了)
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