2009-12-20

〔新撰21より〕越智友亮の一句 上田信治

〔新撰21より〕越智友亮の一句
日常語のコラージュ ……上田信治


今日は晴れトマトおいしいとか言って  越智友亮

俳句の書き手は、いきなり出来あがって登場することがある。

そのへんが身体訓練を必要とする美術や芸能と違うところで、素十は、秋桜子に誘われて初めて「ホトトギス」に投句した句がいきなり四句欄に載った〈秋風やくわらんと鳴りし幡の鈴〉だったのだし、杞陽は自己流でやっていて初めて虚子の句会に投句したのが〈美しく木の芽のごとくつつましく〉、星野立子は全くの処女作が〈ままごとの飯もおさいも土筆かな〉。

まあ、この三人は天才なのかもしれないが、他の作者の全句集の類をあたってみても、一年目にいきなり代表句を作ってしまう人は珍しくなく、してみると、彼らが例外的天才だというよりも、むしろ、俳句が、人をして「天才のように」書かしめる、そういう詩形なのだと考えたほうが、当たっている気がする。

このアンソロジー最年少の作者を、天才呼ばわりしては、本人のためにならないし、今回の100句中にもぜんぜん天才らしくない句が散見されるが、にもかかわらず、おそらく彼の生涯における代表句のいくつかは、もう書き終えられて、この中にある。それは21人の、どの人についても言えることだ。

さて。

〈今日は晴れ〉という言葉、〈トマトおいしい〉という言葉、〈とか言って〉という言葉、どれをとっても俳句らしさのない日常語(口語)である。

詩歌にとって日常語は、多くはコラージュの素材であり、俳句の場合も例外ではない。コラージュは、つねに異化効果を目的とする。俳句に日常語が挿入されるとき、それが表す事物や感情の日常的生々しさと、俳句形式、または俳句らしさとの間に衝突が起こり、その双方の面目を新しくする。

〈トマト〉の句は、つぶやきのような日常語が五七五に収まって〈毎年よ彼岸の入に寒いのは〉式の異化効果を生んでいるのだが、それにとどまらず、この句においては、切れの構造に乗って、日常語どうしがコラージュされていることが、ユニークである。これは、口語俳句としても、切れの形としても、なかなかに新しいのではないか。結果、ぶったぎられた〈トマトおいしいとか言って〉の「宙に浮き具合」というか「意味不明ぶり」が、俳句として美味掬すべきものとなっている。

掲句は平成18年鬼貫青春俳句大賞受賞作中の一句であり、作者が、たぶん15才とかの時の作(おいおい)。

現在の作者にとって、15才の自分はすでに他人だろうし、その延長や発展形を求められることは苦痛でしかないかもしれない。しかし、自薦の代表作らしい〈星の夜の〉は佳作とはいえ「誰か他の人が書いてもいい」句だという気がする一方、〈トマトおいしい〉は、大げさなようだが、すでに、俳句の富の一部だと思う。それがまぐれ当たりでないことは、100句中に〈トマト〉同様の、語の屈折や、ユニークな切れ構造を持つ句があることが、保証している。


『新撰21 21世紀に出現した21人の新人たち』
筑紫磐井・対馬康子・高山れおな(編)・邑書林

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