2009-12-20

〔新撰21より〕神野紗希の一句 村田篠

〔新撰21より〕神野紗希の一句
広がってゆくということ ……村田 篠


涼しさのこの木まだまだ大きくなる  神野紗希

1本の木にも時間がある。それはすなわち、それを感じるすべての人に「時間」があるということだ。

そんなに長大なことが、日常的な言葉で、その組み合わせで書かれたこの1句に、一読で惹かれた。

今年、神野紗希さんが司会をされている番組に出させていただく機会があり、はじめてお会いした。ときどきテレビで拝見して感じていた爽やかな印象、落ち着いた佇まいはそのままに、周囲の人々を和ませる明るさに感じ入った。それは決してキラキラした派手な、激しい光ではなく、柔らかくおだやかに照らされる感じで、アガリ症で感情の起伏が大きく、慣れない出来事に内心オロオロしている(私のような)人間にとっては、まさに「救い」の明るさだった。

月に何回か東京と松山を往復する多忙な日々も、紗希さんは力まず巧まず、楽しんでいるように感じられた。実際はどうであれ、そういうふうに周囲が感じるところが、紗希さんの希有なところなのではないか、と思った。

そして今回、紗希さんの100句を通読して、そのときの印象を鮮明に思い出した。

俳句は省略、だと、じつは常日頃から思っている。なにしろ、17音しかない。まだ句歴の浅い私がこんなことを言うのはなんなのだけれど、「そのなかでどうするのか」ということが、俳句を書くときの最初の問いであって、究極のそれでもあるような気がする。季語にものを言わせるのも、二物衝撃を云々することも、言葉の機能を追求することも、この短さが発端だ。

けれど、私は、紗希さんの100句を「省略」ということを意識しないで読んだ。読むことができた。

たっぷりとしている。詰まった感じがしない。有季だけれど、季語だけが大きな顔をしていない。ムリをかけることなく、ひとつのことが1句の中で存分に詠まれている。それは「なるほど」とか「上手く詠んだ」とよく評されるような読後感とは、少し質の違うものだ。

100句の扉にある紗希さん自身の作句信条からも窺われることだが、そのできごと、その思いを、充分に転がして、味わって、広がってゆくのを待って、それから俳句にしたような豊かさがあるのである。書こうとすることを個人の感覚に閉じ込めることなく、外の世界へ広がりをもとうとしている、とも感じる。

燕は水とも光とも紛れ、団栗に芯の冷えを思い、冬蜘蛛にも呼吸のあることを感じ、釘の打たれた木の衰えを天の川に飛躍させ、冬の水は象の足元に流れ、忘却を知らぬロボットに忘却できぬ人間の哀しみを投影する。

そうしたことが、抒情に流れることなく、日常的な言葉で書かれている。もちろん、考え、工夫されている。けれども、力まず、巧まず。

初期に書かれた冒頭の「起立礼着席」の句から、最近の句まで、この印象は変わらない。

100句のなかには、好きな句がたくさんあった。そのなかから、俳句をたっぷりと書くことの楽しさが伝わってくる「涼しさ」の句を選んだ。若々しさ、大きさ、外界を見つめる視線の冷静さ、静かな感動、そして、俳句がまだまだできることの可能性。

この句からは、そんなことが伝わってくる。


『新撰21 21世紀に出現した21人の新人たち』
筑紫磐井・対馬康子・高山れおな(編)・邑書林

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