新撰21の20人を読む 第1回
山口優夢
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僕は週刊俳句や豈ウィークリーに句集の鑑賞を書かせていただくことが何度かあったので、基本的にはそのスタイルをここでも取って行く。というのは、冒頭に自分の一番気に行った句を挙げて、最後に作者名を明かす、というスタイルである。取り上げるのは自分以外の20人の100句についてということになる。その順番は、アンソロジーに掲載されている順(このアンソロジーでは生年順)でも逆順でもいいのだが、あえて、一番若い作者と一番年長の作者から2人ずつ取り上げていきたい。次回は二番目に若い作者と二番目に年長の作者ということになる。回を追うごとに取り上げる2人の年齢の開きが小さくなってゆくという趣向だ。
自分の鑑賞のスタイルだと、鑑賞文中には作者の情報は一切入れないということになるので、取り上げた2人の共通点や相違点、世代に関する検討を行なう際には2人についての鑑賞のあとに付録的に短く文章をつけてみようと思う。これは毎回必須にするつもりはないが、全員の鑑賞が済んだあとには世代についての検討は行なう必要があると考えている。その際のたたき台として、角川2月号の「現代俳句の挑戦」(髙柳克弘)からは多くのサジェスチョンを得ることが期待される。ニューエイジに関する示唆的な論考なので、読者の方々には一読をお勧めしたい。
連載の個々の回のタイトルは、自分なりにそれぞれの作者につけてみたキャッチフレーズを並べた。つけられた当人にしてみれば、納得いかない、とか、恥ずかしい、とか、意味分かんない、とかいろいろあるとは思うが、ご寛恕願いたい。
この連載を書く上での自分ルールは、「この作者の今後に期待したい」という一言だけは死んでも吐かないこと。たとえ新撰21がこの中の誰かにとって遺句集になったとしても、この句集に意味があったのだということをこの鑑賞を通じて見だしたい。それに、当事者である僕が「彼の今後に期待」などと言ってもそらぞらしい限りであろう。そういう戒めを込めて、自分も21人の一人であることを忘れないように連載全体のタイトルを「新撰21の20人を読む」とした。
それではさっそく、第一回。
1
ゆず湯の柚子つついて恋を今している
たとえば学校が終わったくらいの午後4時ごろの池袋とか町田の駅前、群れて騒いで楽しそうに歩いている男子高校生たちがいたとする。カラオケにでも行こうと盛り上がる彼らの中に、何の疑問もなく溶け込んでいる無名の少年の一人、それが、彼、である。
天気予報当たりて嬉し梅は紅
天気予報が当たったという些細なことを嬉しがる彼。その喜びは、彼の人生を変える重大なことでは決してない。たとえば、朝家を出るときに、雨が降りそうな空模様だったけれども、テレビの天気予報を信じて傘を持たずに外に出たら、午後からすっかり晴れた。「よっしゃあ!」なんて叫んだりする。あるいは、これから雨が降るかどうか友達と賭けていたら、降らない方に賭けた自分が勝った。「ほら言った通りだろー」だなんて、無駄にはしゃいでみせたりする。この句に垣間見えるのは、そういったリアルなレベルでの若者の日常性である。
よく、俳句では日常のこと、身辺のことを詠むのが良いとされる価値観があるが、今の10代の最大公約数的な日常を描けているのは、彼を措いてほかにないと思う。日常のことを詠もうとしていても、文字を介している以上はそこに虚構が入ってどこかでかっこつけるのが当然であるはずなのに、彼の句は、まるでツイッターの呟きのように、衒いがない。
そして、なんだかしらないけれどいつも楽しそうだ。
ひまわりや腕にギブスがあって邪魔
今日は晴れトマトおいしいとか言って
留守番つまらなし炬燵から出て歩く
「ひまわり」という季語が、ギブスという素材を、怪我の陰鬱さや鬱陶しさのマイナスイメージから解放し、そしてギブスをつけているときの肉体感覚に対する慣れていない感じをリアルに呼び出すために「邪魔」という日常の言葉づかいが使われている。ここで注意が必要なのは、この句で呼び出されているのは「ギブスに対する慣れていない感じ」であって、「ギブスをつけているときの慣れない肉体感覚」そのものではない、ということだ。彼の句は感覚というよりも、あくまで意識の方に向いている。
「今日は晴れ」の句には一点の曇りもない。「とか言ってるよ」という軽い捉え方が、深刻ぶることができない「照れ」のようなものを見せて、いかにも若々しい。言ったのはきっとかけがえのない友達なのだろうが、かけがえのない、などという言葉でお互いの関係を確認し合ったりなんてことは絶対にしない間柄なのだろうな、と思える。
あるいは、留守番の句は「つまらなし」と言っているものの、だからこそ彼は楽しいことを求めて「炬燵から出て歩く」しかないのだ。このような彼のむやみな明るさはどのようにして保たれているのだろうか。それを知るために次の句を見てみよう。
冬の金魚家は安全だと思う
実に無邪気なものである。本当ならば、このせちがらい現代社会、家の中にいたからと言って安全なことなど決してないはずだ。しかし、無邪気そのものであるように見せていて、彼自身も、「家は安全である」ということを本心から一点の疑いもなく信じているというわけではないようだ。でなければ、「思う」という一語でこの句を結ぶことはせず、「家は安全なのである」とかなんとか言いきっていただろう。
それはともかく、彼は、家は安全だと思っている、あるいは、ついついそう思ってしまう、それは一体なぜだろうか。端的に言えば、「家」とは他者が簡単に踏み込むことのできないテリトリーだからだ。
勘違いされているらしラ・フランス
草の実や女子とふつうに話せない
菜の花や大声で呼ばれて困る
手を振られると手を振り返す春のくれ
彼の、他者との接し方がうかがえる句を挙げてみた。勘違いされているらしい、と知りながら何もしない様子、大声で呼ばれて困っているという情景をわざわざ持ってきたということ、彼から手を振ったのではなくて手を振り返したということ、これらのことが指し示すのは、実に思春期らしい一少年の描像である。
誰にとっても他者というのはこわいものだ。それでも、年を重ねるごとに他者のこわさというのはあまり気にならなくなってくる(たぶん。僕もまだ24なのでよくわからないが)。それは、他者のことがよく分かってくるから…ではなくて、たぶん、本質的には「他者とはわからないものなのだ」とあきらめがつくから、ではないだろうか。それをまだあきらめていない状態を思春期と呼んでもいい。
「女子とふつうに話せない」というあまりにも通俗的な少年の悩みをそのままストレートにぶつけてくる彼の中には、他者を理解したいけれども他者がこわい、というアンビバレントな心理が垣間見えるように思う。そして彼は「家」の中に閉じこもり、傷つかないように気をつけながら、無邪気で明るい青春を送る。これこそが、彼の明るさの正体ではないだろうか。
もし本人がこれを読んで、何か自分は幼いと言われているなどと思ったとしたら、それは違う、と言いたい。これはあくまで句を読んだ上での感想であり、句と作者との間にはジャンプがあることは当然のこととして意識されていていい。むしろ、僕は「彼の句には思春期がある」ということに感心していて、このような誰もが経験しているはずの思春期の意識が、俳句においてある一定上の完成度で描かれたということは、実はあまり例のないことなのではないだろうか、と思っているのだ。
冒頭に掲出した句だが、「恋を今している」と意識するのは、普通であればその相手と向かい合っているとき、と思うのではないだろうか。凡手の恋愛漫画家であれば、恋する二人が向き合っているシーンで、「私、今恋をしている」などと心の中の台詞をつけたりするだろう。しかし、彼の句において、彼が「恋をしている」と感じているのは、冬の夜、一人、柚子湯に入ってその柚子をつついているとき、なのだ。これは常識を裏切るようでいて、実に我々の実感によく叶っている認識と言うべきだろう。
(ミラクルな解釈として、彼女と二人で柚子湯に入り、お互いに柚子をつっつきあいっこしている、ということも考えられないではないが、それはまあ、今は置いておこう)
一人で彼女のことを思い出しているときこそ、自分が本当に彼女のことを好きなのだ、と意識する瞬間である。柚子の匂いに切なさやら嬉しさやらがこもる。そして柚子を「つついて」いる彼は、やっぱりなんだかとっても楽しそうなのであった。
作者は越智友亮(1991-)
2
枯原は録音らしき誰か来る
彼はひたすら徹底的に言葉で自分の意識を追い続けている。世界を認識が追いかけることによって言葉が生まれてゆくのが道理というものだろうが、彼の言葉はほかの誰の認識よりも速く書かれ、他の誰の言葉よりも言語以前の素の世界に近づこうとしている。そんな印象がある。
そして、速ければ速いほど、なぜか素の世界からどんどん離れてゆくように感じるのだ。
にはとりの煮ゆる匂ひや雪もよひ
蛇穴を出でたるかほのゆらゆらす
逃水をちひさな人がとほりけり
彼の認識が生々しく、素の世界に近づこうとしていると思えるのは、おそらくは彼が本来必要なはずの言葉をすっと消して、描かれている世界のスケールを読者に誤認させることによっているのではないだろうか。徹底的に細かいことを書きこむことによって生まれるリアリティーには実は限界がある。そこで、俳句の短さを生かした「わざと書かない」という戦法によって、彼は奇妙なリアリティーを読者の中に呼び起こさせることに成功している。読者の既成概念や想像力をフルに利用した戦法とも言えるだろう。
本当に煮ているのは「鶏肉」のはずなのに「にはとり」と書くことで煮られている肉の生々しさを出す書き方。ゆらゆらしているとしてもおそらくはかすかなものに違いない蛇の顔なのに、こう書かれると波にもまれているようにゆらゆらしていそうだ。「ちひさな人」という無造作な切り取り方が、あり得ないくらい小さな小人を思わせてしまう。
彼の書き方は、イメージのラフな輪郭を描き、その中のほんの小さな一部分だけの情報を与えるものだから、その小さな一部分が、そのイメージを代表する特徴であるかのように思わせるのだ。たとえて言うなら、「山口優夢ってどういう人?」と聞かれたときに「背中にほくろがあるよ」と答えているようなもので、それを聞いた人にとっては、「山口優夢」は「火星を研究している」「俳句を趣味にしている」「優しくてかっこいい」という社会的な文脈における情報がみんな捨象されて、ただ背中にほくろのある人、という認識にさせられてしまう。そういうときに思い浮かべる「ほくろ」は、多分実際よりも大きなものとして想定されるのではないだろうか。
逆から言えば、彼自身の世界に対する認識は、おそらくそういった社会的、あるいは人と人との関係性の中からはこぼれおちるような情報を核に構成されているように感じる。それは言語以前の世界になるわけだから、彼にとっての課題は、素の世界をいかに速く言語の中にしまいこむか、ということになるのも納得がいく。
青桐はこちらを向いてゐる木なり
水浸しのプールに夜が来てをりぬ
眠る間に真夏の道に出てゐたる
対人関係性を失った世界における外部への認識は、考えてみれば想像のつくところではあるのだが、どんなに冷静を保っていてもどこか怖れを含んだものになってゆく。彼自身が彼の向き合っている世界に対して怖れを抱いているかは定かではないが、少なくとも僕は、これらの句を読むとき、その静けさに対する本能的な怖れをぬぐいきれない。「こちらを向いてゐる木」という強迫観念的な把握と同様のものを、「水浸しのプール」という言い回しにも、眠っている間に連れ出された「真夏」の道にも感じる。
この静けさは、たぶん、世界本来のしずけさではない。それは、彼自身のしずけさなのだ。彼は世界に対してなんらの働きかけも行なわない。彼が行なうのは、うつろな目を開き、お互いが関係し合う世界の中では見えなかった、その一層下にあるものを認識しようとすること、それだけである。
優曇華やかほの中から眠くなり
十薬にうつろな子供たちが来る
シュールさと生理感覚の同居する世界。それは彼が静かに見つめる世界の諸相の一つ。そして、この「うつろな子供たち」は、言語以前の世界の住人であるがゆえに、言葉を持たないのだ。
このようにして彼に認識された世界は、しかし、我々の目からすると、あまりに静かすぎて、リアルに感じられない。むしろ、我々自身が虚構とも言うべき関係性の中に没入しすぎているために、これらの世界をリアルに感得し得ないといった方が正しいのかもしれない。どこか夢の世界のようなのだ。実際の世界とは異なるスケーリングが支配する世界、手触りばかりリアルなのに、全体像をつかもうとすると押し黙るしかない世界。だから、
箱庭を見てゐるやうな気になりぬ
ということになるのだ。リアリティーからの不思議な距離感は、彼の用いる旧仮名によっても強調されている。「にはとり」「ちひさな」「見てゐるやうな」全て、我々が彼の句を日常のものとしてそのまま感受しようとする姿勢を、一回カクンとつまづかせるのに一役買っている。こんなに旧仮名でなくてはいけない俳句だな、と感じたのは初めてだ。
ここで、冒頭の掲出句に戻る。
枯原は録音らしき誰か来る
これこそ、彼の認識の極北とも言うべき境地ではないか。今その場で枯原の風を、匂いを、色を感じているはずなのに、それを「録音らしき」と、何度でも再生可能なリアリティーのうすいものにわざわざ置き換えている。素の世界へ近づけば近づくほど世界そのものが当初の認識から変容してしまい、世界のリアルがどこか遠くなってしまうというジレンマ。
しかも、この句では「録音のごと」とか「録音のやう」という直喩ではなく、「らしき」という推定を行なっている。これは、「録音である」という断定と異なるのはもちろんのこと、直喩で書くことによって「本当は録音でないことは知っているのだけれども録音だと言ってみる」という態度とも異なる。「録音なのかそうでないのか分からないけれども、そのように聞こえる」というのが「録音らしき」であって、その認識の頼りなさ自体が、彼の感じているリアリティーとも言える。
そして、彼の静かに混乱した認識の世界へやってくる「誰か」。この「誰か」は、一体彼に何をもたらすのだろうか。
作者は鴇田智哉(1969-)
3
上記の鑑賞を通じ、第一回で取り上げた最年少と最年長の作者の句作からは、意外な共通点として他者性の欠如ということが挙げられた。もちろん、そのような事態に至るまでの2人の事情は全く異なるものであり、越智の方は他者を理解したいと思いつつ自分の感情が優先されている思春期ゆえのもの(あくまで句の上での話であり、本人の人間性とは関係が無い)、鴇田の方は通俗的な他者との関係性を全て捨象したことによって、言語以前の原初的な他者へ踏み出そうとする意志のもたらしているもの、とまとめることができるかもしれない。鴇田における他者とは、人間だけを指さない。たとえば顔のゆらゆらしている蛇などもここでは他者と呼んでいる。
もうひとつ相違点を上げるならば、越智は他者のこわさから身を守る「家」(自意識)が存在するが、鴇田はむきだしの認識で他者しかいない世界を生きているように感じる。だから、鴇田における他者は本当にこわい。
俳句における他者性とは、しばしば「挨拶性」と言い換えられる。彼らの句から最も遠いものこそ(少なくとも現在までの100句を見る限りでは)、この挨拶性ではないか。しかし、僕はそのことを嘆きはしない。挨拶性なしでも俳句はこれだけやれるのだ、という一つのサンプルとして、彼らの句は並び立っているようにも思える。
邑書林ホームページでも購入可能。
2 comments:
週刊俳句というところは、コメントを入れていいモノだかどうか、よくわかりません。(けど入れてしまいます)。
山口さま、お久しぶりです。
手術などでときどき宴会に出られなくなるような感じの職業(産婦人科医)をしておりますド素人です。
『どこまでも楽しそうな男とうつろな目で世界を認識しつづける男』という題名がいいですね。実際、越智さんはとても楽しそうで、句を拝見するのがとても楽しかったです。
鴇田さんの『むきだしの認識で他者しかいない世界を生きているように感じる。』はそうなのかどうかはわからないけれど、社会人になって男性社会の中で何年も何年ももまれつづけていると、本当に他者は怖くて“あの人は自分の人生には大きな影響は及ぼさない人だ”とつぶやいて無視するしか方法がなくなってきたり。
越智さんがあの年代の(もちろん性格にも寄るでしょうが)なんとなく公約数的俳句をおつくりになられているとしたら、鴇田さんはこの年代の最大公約数的社会人の憂鬱を抱えているかもしれないなぁ、なんてこの論を読んで思いました。
>この連載を書く上での自分ルールは、「この作者の今後に期待したい」という一言だけは死んでも吐かないこと。たとえ新撰21がこの中の誰かにとって遺句集になったとしても、この句集に意味があったのだということをこの鑑賞を通じて見だしたい。
ありがとうございます。
でも今後に期待していますので、是非文章も懲りずにお書きくださいね。
(文章を書く時に自分の例を安易に持ち出さないほうが誤解が少ないのかもしれません)
野村麻美さま
お久しぶりです。その節はいろいろとお世話になりました。
コメントをいただきましてありがとうございます。
どんどん、それはもう、どんどん、コメントしてください。そうしていただけると、書く意欲がますます湧いてきますから。
>越智さんがあの年代の(もちろん性格にも寄るでしょうが)なんとなく公約数的俳句をおつくりになられているとしたら、鴇田さんはこの年代の最大公約数的社会人の憂鬱を抱えているかもしれないなぁ、なんてこの論を読んで思いました。
なるほど、私はまだ鴇田さんの年まで生きていないし社会に出ていないので実感として分からなかったことを、フォローしていただき、嬉しく思います。ありがとうございます。そう考えると、この二人はやはりそれぞれの年代をある意味で代表するところがあるのかもしれないですね。
「今後に期待」、は僕が使わない、というだけなので、期待していただけるのはとてもありがたいです。
今後ともよろしくお願いいたします。
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