2010-04-18

【週俳3月の俳句・川柳を読む】斉藤斎藤

【週俳3月の俳句・川柳を読む】
穴について……斉藤斎藤


わたしは短歌をつくっている。つくっているとぶっちゃけ、五七五七まで出来て、さて残りの七音どうしましょう、という穴埋め問題になることがある。で、どこかから七音を持ってくるのだけれど、穴埋めしたのがバレないように、三十一文字がおのずからあふれました、みたいな顔をするのがふつうである。

 はっきりと思い出せない猿の足   樋口由紀子

わからないのが、この「猿の足」。

 はっきりと思い出せない[ A ]

という穴埋め問題に、

 はっきりと思い出せない[猿の足]

と答えました、という句に見える。わざとカッコが消されていないように見えるのだ。ここで連想するのは

 瑪瑙ばかりの日を恋人にさげすまれつまり翡翠の日日だと思ふ
                 荻原裕幸

で、この短歌もカッコが消されていないけれど、

 [ 瑪瑙 ]ばかりの日を恋人にさげすまれつまり[ 翡翠 ]の日日だと思ふ

カッコと瑪瑙のあいだにすき間がある。わたしのくらしに言葉でうまく言えない穴が空いていて、その穴に瑪瑙や翡翠をつっこんではみたが塞がらず、すきまから風が吹いてくる。うまく穴埋めできない切実さを感じるのだが、樋口の句は、現実に穴が空いていることが所与の前提になってる気がする。現実の穴との親しさが、[ ]を消さない文体にあらわれているのではないか。

 わたくしと安全ピンは無関係    樋口由紀子

この安全ピンも括弧で括られているが、「無関係」によって安全ピンは括弧から取り出され、

 わたくしと[   ]は無関係 安全ピン

となる。すると

 うしろ頭のうつろの中にお賽銭   広瀬ちえみ

の構造と似ている。句の中で、穴のむこうに穴がひらいて、現実の手ざわりが奪い返されているような、うつろな力強さにはげまされる。

 一般的に言えばかわいいくそじじい  石田柊馬

なんだかひどくはげまされる。

 鹿肉を食べた体を出ることば     広瀬ちえみ

 出口へと明るき肉を曲がりけり    山田耕司

どちらも好きな句なのだが、「出」ている感じがするのは広瀬のほうだ。ことばの先の、息のただよい出る空間が、とりとめもなく想像される。対して山田の句の「出口」は、扉が開きそうにない。曲がった人が出口を出て行く先を、想像しようと思われない。長谷川方式を導入すると、

 鹿肉を食べた体を出ることば

と、

 /出口へと明るき肉を曲がりけり/

の違いである。。句の前後が堰きとめられ、「曲がりけり」が「出口」へと接続する循環構造によって、「明るき肉を曲がる」というクビレが、くっきりと輝く。

 精肉のひとつを名付け買はざりき    山田耕司

安全ピンの句に似て、この句の真ん中にも[ ]があるのだが、その穴は句の外側につながっている感じがしない。名付けられなかった名前は句の外側に流れ出さず、られなかったことによってむしろ肉は、句の外側で肉の現実をとりもどす。「買はざりき」の堰きとめが利いているからだろうか。

寺山修司は短歌を、回帰的な自己肯定と相性のいい詩型だと指摘した。俳句はどうも、循環的な現実肯定と相性のいい詩型なのではないか、という気がする。俳句の内容とか韻律とかが現実肯定的だとかいうことではなく、一句一句がその背後からいったん切れ、ぽっかり浮かび上がることでかえって、句の背後に連続する現実を想定し、肯定する機能を果たすのかもしれない。川柳の場合、句の中や前後の穴は現実につながってしまうから、句に穴を開けることは、現実の穴と親しくなってとりとめのなさに耐えること、もしくは現実の穴を直視して無頼に生きることのどちらかを意味するのかな、とか思ったのだが、だいぶ思いつきを急ぎすぎましたね。〆切なので送ります。


川柳作品
石部 明 格子戸の奥 7句 ≫読む
石田柊馬 キャラ  7句 ≫読む
渡辺隆  ゴテゴテ川柳  7句 ≫読む
樋口由紀子 ないないづくし 7句 ≫読む
小池正博 起動力 7句 ≫読む
広瀬ちえみ 鹿肉を食べた 7句 ≫読む

曾根 毅 神域 10句 ≫読む
山下つばさ 春は沖縄 10句 ≫読む
石嶌 岳 紅 10句 ≫読む
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山田耕司 長崎屋桐生店地下食品売場吟行記 10句 ≫読む

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