後記 ● 上田信治
ここのところ「現代詩手帖」の特集をめぐって、とりわけ「ゼロ年代の俳句100句選」について思うことが多かったのですが、先週の「豈weekly」のコメント欄に、冨田拓也さんの「また、俳句というものは1句だけ取り出して見てみると、思った以上に「あやうい」ところがあるんですよね」という言葉を発見して、驚き、かつ、ちょっと考えこんでしまった。
冨田さんに、そうまで言わせてしまうとは。あの「100句選」、なぜか「第二の「第二芸術論」」とでも呼びたくなる、インパクトを持っているようです。
おそらく鍵は「と比べて」「1句だけ取り出して」というところにあって、つまり、俳句は「それが俳句であることを前提とした特殊な読み」込みで成立していて、その「読み」の外側からの視線にはほとんど耐ええない、ということかもしれない。
いや、ほんとうにそうだろうか。
あの「100句選」は、ほんのすこしナイーブだっただけで、1句が(あるいは100句がかたまりとして)、外部の視線に効果的に対峙できるような、プレゼンテーションがあったのではないか、という気もするのです。
それは、おそらくきっと、外の世界の拒絶からはじめなければならない・・・ような気もする。
だから、まあ、その、ツンデレ?
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西村麒麟さんの「楽しい波郷」は、『季題別石田波郷全句集』(角川学芸出版2009.11刊)に初めて収録された、波郷の未発表句(村山古郷氏が収集したもので、これまで全集等にも収録されたことがない)を取り上げた記事です。
西村さんは、第1回石田波郷新人賞の受賞作家であります。
外部の視線もへったくれもあるか、という内容で、たいへん痛快です。
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それではまた、次の日曜日にお会いしましょう。
no.163/2010-6-6 profile
■鈴木不意 すずき・ふい
1952年新潟県生まれ。「なんぢや」「蒐」
■五十嵐義知 いがらし・よしとも
1975年秋田県生まれ。平成13年、「天為」入会。平成21年、「天為」同人。
共著に『新撰21』(邑書林、平成21年12月)。
■西村麒麟 にしむら・きりん
1983年生れ、「古志」所属。
■中嶋憲武 なかじま・のりたけ
1994年、 「炎環」入会とほぼ同時期に「豆の木」参加。2000年「炎環」同人。03年「炎環」退会。04年「炎環」入会。08年「炎環」同人。
■猫髭 ねこひげ
「きっこのハイヒー ル」所属。サイト「三畳の猫髭」
■小林苑を こばやし・そのを
1949年東京生 まれ。「里」「月天」所属。
■岡本飛び地 おかもと・とびち
1984 年、愛媛県生まれ。2007年4月7日、トーキョーハイクライターズクラブの句会に初参加。2010年10月30日、ステージに立ち、ジャグリングを披露 する予定。 「ジャグリングステージ チャンネルppqp」http://ppqp.web.fc2.com/hp/ppqp.html ブログ「それは、突然、アラスカのように」http://blog.goo.ne.jp/tobichi
■興梠 隆 こうろき・たかし
1962年鹿児島 県生まれ、東京都在住。「鶴」を経て現在「街」所属。俳人協会会員。twitter(https://twitter.com/radio_gagarin)
■三宅やよい みやけ・やよい
1955年神戸市 生まれ。現代俳句協会会員。「船団の会」会員、「豆の木」に参加。句集『玩具帳』『駱駝のあくび』。清水哲男『新・増殖する俳句歳時記』木曜日担当。
■五十嵐秀彦 いがらし・ひでひこ
1956年生 れ。札幌市在住。現代俳句協会会員、「藍生」会員、「雪華」同人、迅雷句会世話人。第23回(2003年度)現代俳句評論賞。サイト「無門」
■野口 裕 の ぐち・ゆたか
1952 年兵庫県尼崎市生まれ。二人誌「五七五定型」(小池正博・野口裕)は4月10日に第四号を発行。入手希望の方は、yutakanoguti@mail.goo.ne.jp まで。進呈します。 サイト「野口 家 の ホーム ページ」
■さいばら天気 さいばら・てんき1955年兵庫県生まれ。1997年「月天」句会で俳句を始める。1998~2007年「麦」在籍。現在「豆の木」会員。現代俳句協会会員。2003年「麦」新人 賞、05年、06年「豆の木賞」受賞。ブログ「俳句的日常」「七曜堂」 twitter
■上田信治 うえだ・しんじ
1961 年生れ。「ハイクマシーン」「里」「豆の木」で俳句活動。ブログ「胃のかたち」
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2010-06-06
後記+プロフィール163
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6 comments:
私は素人に過ぎないのですが、「一句だけ取り出す」危うさはわかる気がします。というのも、句集の場合には連作ではないにせよ流れの中にある句を、ポンっと一句だけ提示する。あるいはある一塊の連作の中で、一句だけ提示することは、なかなか、そうですね。本当に「危うい」というか、わかってもらいにくい部分(共通部分の常識として、その句集を読んでいたり、その作者を知っていたりしないと、意味を大幅に取り違える可能性がある)があるとは思うのです。
高柳さんがよく頑張られたな~という印象は持っています。もちろん甘いところもあるというか、好みとかそういう以前の脇の甘さ(短詩系の中での100句推薦だという自覚がちょっと足りないのではないか、インパクトの面において)という気もしなくもないのですが、どうしても彼のあちこちでの原稿量の多さを見すぎていて(これは俳句読者なら誰でも過重労働じゃないの??品質落ちないか心配だよ、と思うと思います)、甘くともなんだともとりあえず頑張られたな~、もうちょっとお仕事少なくした方がいいんじゃないかな~(医師としての単なる心配)という気持ちが芽生えるので、えっと、品質はまぁあんなもんかな、と納得しています。(読者が思うほどに、原稿料が入っているわけではないですから、なんだか出版業界もボランティアに近いですよね~)。
上田さんも、トミタクも、野村さんも、意外や意外、ペシミスティックなのに驚いております。自分が如何に鈍感な猿かを再認識しました。ゼロ年代100句選改選版by鈍感猿を「豈weekly」の方にアップしましたのでお時間ある時にご覧ください。こんどは水分不足で堅め、になっているかもしれません。俳句らぶ、あなたも。
高山様
何なんですか、俳句らぶ、流行らそうとしてるんですかw
ネオ100句選、たいへんおもしろく拝読。
自家版100句選、ぜひやらせていただきます。でも、ま、ちょと時間は下さい。
上田信治様
わたくしはわたくしで、強度至上主義に傾いているところがあるのではないかと思います。またがらりと様子の違う百句が読めるのではないかと楽しみにお待ちいたします。
高山れおな拝
切り口や枠組が変わらなければ、選好を反映するに過ぎず、それは句会での選句が人それぞれであるのと同じではないかと思います。それで盛り上がってしまうのが俳人ですが。
あなごさんへ
「現代詩手帖」に「ゼロ年代の俳句一〇〇選」を掲げるという行為は、“句会での選句”と“同じ”ではありません。そこに選者(この場合には髙柳克弘氏)の“選好”が反映しているのは確かですが、だからといってそれらの句は選好のみによって選ばれたわけではありません。もし、髙柳氏が選好のみで選んだのだとしたら、彼はそれこそあなごさん並みに無自覚に振舞っていることになりますが、そんなことはほとんど有り得ないと思います。それは小生のアレンジ版にしても同じことです。小生としては、髙柳氏が過去十年間の俳句の表現史的水位がどこにあるかを彼なりに見極めようとしたと努力したはずだと信じますし(もちろんそればかりでなくジャーナリスティックな価値も勘案したでしょうが)、上田信治氏にしてもそれを信じているからこそ過剰に悲観的とも見える感想を漏らしているのでしょう。たかが一商業雑誌のお祭り企画と高をくくっているのかも知れませんが、たかが一雑誌の特集、たかが一新聞の連載、たかが一叢書の出版、それどころかたかが一論文によってさえも時に歴史は作られてしまうことがあります。その作られかねない歴史に対して違和感があれば、相対化の作業を怠るべきではないのではないでしょうか。“それで盛り上がってしまうのが俳人ですが”とずいぶんお詳しそうなご様子ですが、そもそもあなごさんは俳人なのですか?
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