週刊俳句時評 第1回
世代論ふたたび
神野紗希
はじめに
さいばら天気さんのお宅の、サンドイッチパーティーにお呼ばれしたときのこと。テーブルにはパンと具が別々に用意されてあって、それぞれが好きな具をパンにはさんで食べるという趣向だった。洋風手巻きずしのようなものだ。半分に切ったパンに、エビやハムを載せて頬張りながら、私は、週刊俳句にも時評があったらいい、といった旨のことを提案した。
ネットの利点は、紙媒体に比べてタイムラグが少ないことだから、時評に向いている、それに、総合誌・結社誌の時評やネット上の記事の中には、優れた指摘のあるものがたくさんあるけれど、それらはたいがい書かれて終わりだ、もっと議論が深まるような反応や応酬があってもいいし、週刊俳句がそういう場のひとつになればいいなと思う、豈weeklyも終刊になってしまうことだし、いい機会だ、といったようなことを言った。
じゃあ、紗希さん書いてよ、と、その場に居合わせた上田信治さんが言ったので、今こうやって書き始めるはめになっている。1人で書くのはこころもとないし、いろんな意見が書かれるほうがよいと思ったので、その場に居合わせた山口優夢くんにも参加してもらうことにした。数回は彼と交代で書き、その後もう1人を加えて、3人でまわしていく予定にしている。
時評を書く際、特にポリシーはないので、少し変だなと思ったことから、素晴らしい句集を読んだというところまで、とりあえず気楽に書いていきたい。世の中にあふれる、投げかけられるばかりの問いを、ひとつずつではあるが、拾って、応じていきたいと思う。
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1.
世代論に首を突っ込むと面倒だということは分かっているのだが、当該世代の1人として違和感を覚えたので、感想という程度のものを、少し書いてみたいと思った。
山口優夢氏が書き継いできた「新撰21の20人を読む」最終回が、週刊俳句166号に掲載された。タイトルは「抒情なき世代 私は世界とどう向き合うか」。彼は、この文章で、『新撰21』の俳人たちの世代論を書こうとしている。切り口は、季語的な世界観との距離の取り方と、抒情の変質という二つ。後者は、小川軽舟によって「昭和30年世代」と括られた俳人たちと比べ、抒情の質が変わってきているのではないかという指摘だった。
その結論部分、なぜ抒情の変質が起こったのかという考察が、以下である。
このドラマツルギーに対するそらぞらしさこそが、この新撰21世代が根っこのところで持っている感情ではないか。「婚活」や「エコカー」といった解決策に対して、そらぞらしい、と思って乗りきれない感じ。それこそがこの世代で起きていることなのだ、と思うと、僕自身の実感としてはしっくりくるのだが、どうであろう。(中略)もしもこのようなしらけ方が真実だとすれば、確かにそこから抒情は生れようがないのではなかろうか。
この認識は、ちょっと古いな、と思った。同じような言い方は、それこそ、昭和30年世代の体験した「バブル景気」のころからある。
「明るい豊かな未来」を築くためにひたすら「真理探究の道」に励んでみたり、企業社会のモラルに自己を同一化させて「奮励努力」してみたり、あるいはまた「革命の大義」とやらに目覚めて「盲目なる大衆」を領導せんとしてみたりするよりは、シラケることによってそうした既成の文脈一切から身を引き離し、一度すべてを相対化してみる方がずっといい。繰り返すが、ぼくはこうした時代の感性を信じている。(中略) 対象と深くかかわり全面的に没入すると同時に、対象を容赦なく突き放し切って捨てること。同化と異化のこの鋭い緊張こそ、真に知と呼ぶに値するすぐれてクリティカルな体験の境位であることは、いまさら言うまでもない。簡単に言ってしまえば、シラケつつノリ、ノリつつシラケること、これである。
(浅田彰『構造と力―記号論を超えて―』1983年 勁草書房)
要するに、80年代から、しらけたくなるような社会状況はずっと続いている。そんな社会状況に対して、どのように対応するのか、その対応の仕方が、世代によっておそらく違う、その差が世代の差になる、ということだろうか。
2.
私は、『新撰21』を読んだとき、30代と20代とでは、句のタイプが大きく違う、と思った。以下、各世代の俳人の句から、話題に上がりやすい句を引いてみる。ついでに、40~50代の「昭和30年世代」からも、代表句を挙げてみる。世代の移ろいが、なんとなく感じられるかもしれない。
昭和30年世代
白魚のさかなたること略しけり 中原道夫
水の地球すこしはなれて春の月 正木ゆう子
まだもののかたちに雪の積もりをり 片山由美子
春の水とは濡れてゐるみづのこと 長谷川櫂
夏芝居監物某出てすぐ死 小澤實
てぬぐひの如く大きく花菖蒲 岸本尚毅
30代から
美しい僕が咥えている死鼠 中村安伸
雪・躰・雪・躰・雪 跪く 田中亜美
吊るされて切り岸を呼ぶピアノかな 九堂夜想
小鳥来て姉と名乗りぬ飼ひにけり 関悦史
いきものは凧からのびてくる糸か 鴇田智哉
20代から
今日は晴れトマトおいしいとか言って 越智友亮
泳がねど先生水着笛を吹き 藤田哲史
心臓はひかりを知らず雪解川 山口優夢
少女みな紺の水着を絞りけり 佐藤文香
春風や古墳と言い張って聞かぬ 谷雄介
まず、昭和30年世代。白魚、雪、春の水、夏芝居、花菖蒲といった季語を、なまなましい形で捉え直そうとしている。これらの句において、全ての言葉は季語のためにあるといっても過言ではなく(たとえば「てぬぐひ」はここで「花菖蒲」という季語の質感を新鮮に捉え直すために、季語に奉仕する立場にある)、彼らの他の作品を見ても、おもな主題は季語にあることが多い。この中では、正木ゆう子の句が、季語である春の月よりも、宇宙・惑星といった大きな景色を詠むことを主眼としている点で、例外的だろうか。
続いて、30代。この世代は、言葉に負荷をかけ、言葉の象徴性を非常に高くして、詩性を生み出そうとしているようだ。「美しい僕が咥えている死鼠」は、「美しい」が「僕」にかかっているのか「死鼠」にかかっているのか一読分からない。この句の楽しみ方は、イケメンが鼠の死骸をくわえている情景を実際に思い浮かべるということよりも、どの言葉が何を意味するのかを読者が逡巡しながら、混沌とした言葉の世界をさまよい歩く、その道程にあるのだろう。そのほかの句も、句の中の言葉たちが普段の意味接続とはかなり遠い位置に存在していて、それらの絡まり合いが、どこか幻想的な空間を生み出す効果をもっている。この世代、現代俳句協会系の俳人が多いからそのような作風になるのだ、というよりは、そのような作風に惹かれる世代だから、現代俳句協会に所属する人が多いのだ、と考えたほうが自然だろう。
最後に20代。一読、明快であるところは、昭和30年世代と似通っているが、季語をどう扱っているかという点からみると、彼らにとっての季語は、主題となり得ることが少ないようだ。1句目は、ある晴れた日をはしゃぐ屈託のなさをいうために、トマトという明るく健康的な季語が、道具立てとして効果を発揮している。2句目と4句目は、どちらも水泳の授業を詠んだ句。2句目は学校というトポスの独特な雰囲気を表現しており、「泳がねど」という言い方が異和感を表している。4句目は、少女期の眩しさをものするひとつの場面として水着を絞るという季語の景色が採用されている。3句目は、みずからの暗部ではたらく心臓に思いを馳せている。目の前の雪解川の勢いが、自らの血脈と呼応することで、命のもつエネルギーを感じることのできる句だ。5句目、春風は、古墳と言い張ってきかない誰かに、いじらしさと明るさを与える、感情の意味付けの役割を果たしている。彼らにとって、季語は、主題でも象徴でもない。いってみれば、小道具(もちろん、大切な、ではある)のようなものだろうか。
『新撰21』の若い順に取り上げたが、ここに挙げた作者は、みな、俳句甲子園出身者だ。集う場が違えば、自ずと世代の差も出てくる、ということは、あるだろう。
3.
ここでは代表的なものを挙げたが、全体的な印象として、昭和30年世代は季語を真っ向から捉えた作風、30代作家はどこか西洋文学の匂いのする幻想的で象徴性の高い作風、20代作家はあっけらかんとした明快な句風であるようだ。
これらの傾向から、対読者戦略を考えたとき、季語を題の主に据えることの多い昭和30年世代の俳句を読むには、まずもって季語への理解が前提となる。彼らにとって望ましい読者は、俳句(季語)に関してある程度の知識をもつ読者、ということになるだろうか。そして、30代の作家たちの俳句は、言葉の象徴性が高いぶん、読者の読みの行為に過大な期待をかけなければいけない。片方は季語、片方は高い象徴性によって、読者との密な関係性を必要とする傾向にある。
俳句をはじめて、そんな上の世代を見て、私が思ったのは、人はそんなに優しくしてくれないんじゃないのかな、ということだった。だから、自分が俳句をつくるときには、もっと分かりやすく、しかし飽きられず、タフで、なおかつ繊細な美しさも持つ、もっともっと強い句を目指さなければいけないような、そんな予感がした。
4.
山口優夢氏の先述の連載の最終回に対して、さいばら天気氏がコメントをつけている。
翻って、『現代俳句の海図』で取り上げられた「昭和30年世代俳人たち」について、高山れおなさんがどこかで語っていたと思いますが、「好景気のなか良い大学を出て良い暮らしが出来ている、いわばプチ・エスタブリッシュメントとでも言うべき社会集団の心性」(表現はウロ覚えの再構築です)という括り方もできます。それとの対照で、現在の「アンダー40」=新撰21が、ポストバブル、長期不況時代の心性を、ゆるやかに共有しているのかどうか。そこには少し興味がわきます。
「しているのかどうか」という質問に先に答えるとするならば、私の実感としては「している」である。では、さいばら天気氏の言にある「ポストバブル、長期不況時代の心性」とは、どんなものなのか。たとえば、「ゼロ年代」という言葉を定着させた批評家、宇野常寛氏が、90年代・ゼロ年代にそれぞれ流行した漫画「新世紀エヴァンゲリオン」と「DEATH NOTE」を軸にまとめた「ポストバブル・長期不況時代」の見通しは、以下である。
「九〇年代の「古い想像力」――世界の不透明さ/無秩序に怯え内面に引きこもり、「~である」こと=自己像の承認を求める「引きこもり/心理主義」の碇シンジから、ゼロ年代の「現代の想像力」――世界の不透明さ/無秩序を前提として受け止めた上でその再構築を目指して立ち上がる、「~する」こと=自らの選択した価値観の正当化を目的にゲームを戦う「開き直り/決断主義」の夜神月へ――二〇〇一年を境界線として世界とその想像力は大きく変化した」
(宇野常寛『ゼロ年代の想像力』2008年7月 早川書房)
彼が90年代・ゼロ年代のターニングポイントとしてそれぞれ挙げるのは、前者はバブル崩壊と冷戦終結、後者は9.11と小泉政権フィーバー。アニメやテレビドラマ、小説や事件など様々な例を挙げながら、90年代は内面に向かう心性が現代的だった時代、ゼロ年代は、生き残るために開き直る決断主義の時代だった、とまとめている。90年代は、ちょうど30代俳人が青春期を過ごした時代、ゼロ年代は、20代俳人が青春期を迎えた時代だから、作風の点からも対応性があるのが面白い。
単純に「バブル」という点だけ抜き出してみても、昭和30年世代はバブル景気の恩寵を堪能した世代、30代俳人は20代の就職期にバブルが崩壊した世代、20代俳人は物ごころついたときからすでにバブルが崩壊していた世代、ということになる。(非常に簡単なまとめではあるが、それぞれの世代の心性に意外と大きく影響しているのではないかと思うところもある)
私が物心ついたころ(1983年生まれだから、90年代に入ったとき、私は7歳だった)、世界はすでに、こういう感じだった。あらかたの自然は失われ、郊外にはショッピングモールが建ち並び、景気は悪かった。でも、それしか知らないのだから、シラケるも何もない。私たちは今しか知らず、しかも、ここで生きていくしかない。だとすれば、貧しい時代だとしても、それが当たり前だと思って生きていくだけだ。別に自分たちが特別かわいそうだとも思わない。むしろ、目の前にあるものは、コンビニだろうが一本の木だろうが、等価に美しい。
だから、たとえば、角川俳句6月号の特集座談会「若手俳人の季語意識」の末尾、関さんの「季語が便利」という感想には、大きく共感した。文語/口語も、有季/無季も、私にとっては、俳句をはじめたときから、思想ではなくツールだった。ツールでいいじゃないか、それで1句がより力強くなるならばそのほうが大切だ、と、これも開き直りである。
5.
心臓は光を知らず雪解川 山口優夢
心臓は、からだの内側で、光を知らないまま、命が尽きるその日まではたらきつづける。一方で、彼の目の前には、大量の光の氾濫である雪解川。この眩しさを知らないものが、私の内側にある。別にかわいそうというわけでもよかったというわけでもなく、ただ、そうだ、というだけである。ここで心臓は、小市民の実ある生活を象徴するのではなく、切実な、誰にも等価の生を体現している。心臓は暗い場所ではたらくしかないが、それがマイナスではない、ただそういう存在なのだという事実が書かれているだけなのが心地よい。心臓は、美しい光を知らないが、その場所で必死に生きている。その心臓そのもののひたむきさに、シンプルに心打たれる。
20代俳人たちのこれからを考えたとき、たとえば山口氏のこの句に、未来をみたい。季語という歴史の後ろ盾もなく、言葉の象徴性も手放したとき、私たちはどうやって一句を一句としてたたしめるのか。そうするとやはり、どれだけ重要な主題を扱えるかというところがクローズアップされてくるように思う。20代俳人が、これからも季語や言葉の象徴性に対してある程度距離をとっていこうとするのであれば、俳句で何を表現したいかが、大きな鍵となってくるのではないだろうか。明快で直截な文体と、明るい精神に、命の重みが加わったとき、それは類をみない誠実な一行となる、そんな気がしている。
(終)
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2010-07-11
週刊俳句時評 第1回 世代論ふたたび
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1 comments:
U40の世代のテキストが『新撰21』のみということに物足りなさを感じます。
特に30代。
ああいった「言葉に負荷をかけ、言葉の象徴性を非常に高くして、詩性を生み出そうとしている」俳句実作者はむしろ世代的に少数派なのではないでしょうか。
1冊のテキストで世代を語ることに無理があると感じました。
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