〔俳句総合誌を読む〕
むむー
『俳句』2010年7月 号を読む 上田信治
先月は「若手俳人の季語意識」という、いっちょやったろう、という意識の見える特集があったわけですが、今月は、平常運転に戻ってしまった? 角川『俳句』です。
●モノから読み解く江戸俳諧の黄金時代 伊藤善隆 p.50-
連載第七回は「「点取俳諧」の経済的側面」と題し、大名が主催した句会に、宗匠が批点を依頼された場合の、謝礼はいくらぐらいだったか、という話。百韻一巻につき、今のお金で二万円くらいだった。句会への出張指導は、七万円弱。
大名って、今で言うと、細川護煕とかカルロス・ゴーンくらいの感じですか? だとしたら、お座敷かかって七万円は、ちょっとお安いかんじ。
●特集「先人たちに学ぶ俳句の「個性」」 p.73-
この特集は、狙いが分かりにくいんだなあ。
いつもの入門特集のフォーマットにはめるなら、「類想を脱する「自分の言葉」の生かし方」とでもなるんでしょうか。とりあえず、五七五を並べられるようになった人が、どう書けば「自分らしい」句が書けるようになるか、みたいな・・・。
それは、きっともう、さんざんやってるから、今回は、作家研究のかたちでいってみたんだと思うんですよ。
とりあげたのは、子規、虚子、秋桜子、誓子、草田男、楸邨、波郷の七人。
もともと作家と呼ばれる資格があるのは、個有性を、作品に刻印することができた人で、この七人なんかは、どこを切っても個有性みたいな、作品どころか俳句史にその個有性を刻印しちゃった、という、そこらの俳人や、愛好家のレベルから見たら化け物みたいな人たちで、そういう人たちが、どう個性的だったかを論じても、あまり参考にならないような・・・
むしろ、こういう大作家達が、指導者として、彼らに続く作家たちの「個性」を、どう評価し伸ばしていったか、みたいな話が読みたかったかな。
型や季語の習得は、前座の修行。そこからどう「個性化」していくかが、作家修行だと思ってるんで。
なかでは、岸本尚毅が、〈しんしんと寒さがたのし歩みゆく 星野立子〉=〈その辺を一廻りしてただ寒し 虚子〉のように、他の作家と虚子の、似たモチーフの句をカップリングして数組並べてみせたうえで、虚子の「雑音のような小主観を消し去った後に残る、のっぺりとした能面のような俳句」について書いているところが、いつもながら、面白かったです。
●現代俳句の挑戦(7) 髙柳克弘 p.168
現代では結社が「教える場所」として機能している。そこでは、俳句はどのようなものかについて「答え」を出さなくてはならない。だが、そのように安易に俳句に「答え」を出してしまうことが、むしろ俳句の命を殺している。
「現代詩手帖」六月号の特集で、髙柳が、結社は「読み」を伝承していく役割を果たすべき、と発言していることとつながっている。
佐藤文香が、俳句甲子園に出場する高校生を指導する上で、「「詠み方」を教えたことは本当に少なくて、「読み方」と、「読んでみたらいいかもしれない句集」を提示してきました」と言っていたこととも、つながっている。
●今号、お、読まなきゃと思わせる作家多し。
手わけして睡蓮が咲き出してゐる 鈴木章和
地の中に土竜嗅ぎあふ茂りかな 相子智恵
土用波ひきゆく石がからからから 安倍真理子
牡丹の一つ雪崩れてしまひけり 浅生田圭史
新橋で降りて歩いて生姜市 星野高士『顔』自選20句より
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2010-07-04
『俳句』2010年7月号を読む 上田信治
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