2010-08-29

中学生が読む新撰21 第5回 九堂夜想・中村安伸

高校生が読む新撰21 
第5回 九堂夜想・中村安伸……山口萌人・青木ともじ

開成学園俳句部月報「紫雁」より転載

九堂夜想論……山口萌人

   古る街へサフランライスさらさらす

九堂夜想氏の句を一読して、まず表記としてカタカナと難読漢字がとにかく多く、難解であるという印象を受けた。「安井浩司風」、と評されることもあるようだが、僕には安井浩司よりも難解である。同書の合評座談会では誰も句を完全に解剖することができず、気迫のようなものだけが場に残されたのも印象深い。

上句はそういった中では景が見えやすい。少しくたびれた東京の市街を思った。窓辺の席に座って本格カレーかパエリアか何かを食べているのか。ライスのぱさぱさした感じが、無機的な街の悲哀をどことなく感じさせている。オノマトペが下五に置かれていることで、なぜか街までもさらさら崩れそうな気がしてしまう。

言葉同士が意味上の関連をもたずに一七音に詰め込まれたときの、新たなイメージの繋がり。言葉と言葉の衝突の連続する百句を、これから見ていこうと思う。




 土器や魚の裸体を黄昏れて (「土器」に「かわらけ」とルビ)
 日を離ればなれの鳥や石室や (「石室」に「いわむろ」とルビ)

一句目、土器に描かれた魚を思うというよりは、それが使われていた時に盛られたであろう魚を思いたい。二句目、石舞台のような石室。それに向かって「日を離れ」て鳥が飛来する。言葉にしてみると、景色そのものは単純で、素材の形容をしていないのにも関わらず、読み手が読み手なりに実景を想像できる。

しかし、恐らくその景には人の姿は見てとれないだろう(見ている人間の視点さえも)。こう感じるのは主観が句に介在しないからではないか。土器が「茶色い」のか「固い」のか、石室が「大きい」のか「重そう」なのか。掲句にはそういった描写がなされていない。それは必要ないから描写しないのだ。

つまり、これらの句群においては人間固有の言語や思想や感覚などというものはあまり重要でないし、特定の景を確定する必要もないということだろう。

しかし、確定されなくても、掲句からはどこか静謐な、それでいて強い力を感じる。それは素材の選び方に起因するのだと思う。土器や石室、それらは遥か昔の人間の生産物である。そこから感じられる時間の流れや悠久さというものは、誰がどう読もうとも(そしてどんな景を思おうとも)揺らぐことはないのだ。

結局、技法や描き方・景色の形容以前に、作者は言葉が持っているイメージを満遍なく取り入れ、それを押し出しているということではなかろうか。


 九九を唱え止まず常夜の六六魚
 起上り小法師ふしぶし朧朧し

言葉遊びと言ってしまえばそこまでなのかもしれないが、果たして本当に字面の面白さだけを追求した句だと言えるだろうか。

九九と鯉、起上り小法師と朧。それらを一つの空間に置くことで、ただ鯉を描いたときの「泳ぎ方の様子や色を描く」ことや、ただ起上り小法師を描いたときの「形や動きからの連想」を描くこと、そういった類型を脱し、素材の新たな一面を感じ取ることができるのだと思う。これは冒頭の〈古る町へ〉にも言えることではなかろうか。「さらさら」がなければ「古る街」に対して冒頭に述べたような鑑賞はできまい。

ここでも前章で述べた「言葉の持つ本来のイメージ」が重要なのだ。一つ一つの語感やイメージが呼応していることによって、今度はその「イメージ」を曲げようとしているのだと感じた。

九堂氏の句の主となる描き方は、一七文字に(文脈上の)関連性のないものを押しこみ、さらにはそれらの形容を限りなく削ぎ落として並べる方法である。そのモノとモノとの単純なぶつかり合いから、それぞれの素材がどういった側面を見せるのかというところに主眼を置いて読んでみた。

本来、伝統系の俳句において、句の言葉やイメージに色を加えるものは季語であった。しかし、九堂氏は季語を離れて作句していることが少なくない。そのときに季語の代わりに句に色彩を与えるのが、このような「言葉本来のイメージの重視」という形となったのだろう。「季語のイメージに甘んじて決まった類想に陥ってしまうこと」を「有季定型の限界」とするならば、九堂氏はそれを脱却しようとしているのではないだろうか。

それぞれの素材の持つ言葉と言葉が関係性を失って、そしてその結果生まれた新たな側面、それを楽しむという読み方が適切なのだろうか。まだまだ考える余地はありそうである。

(注)句は邑書林「新撰21」による。ルビも同書に従った。


中村安伸論……青木ともじ

   とつくにのひとのあくびとなるなだれ

彼の句を見ていて思うことのひとつにはその比喩の多さがある。この句は百句のはじめの句であるが、すべてひらがなというインパクトがまず良い。二物の間の感覚的なつながりだけで作っているように思えて私としては思わず頷いてしまう魅力がある。しかし偏に感覚的とも言い切れないようである。例えば、

   殺さないでください夜どおし桜散る

青山茂根氏の「中村安伸小論」には

…満開の桜の木に雪姫という美女が素足で縛られ、降りしきる花びらを足で集める、これは『祇園祭礼信仰記』四段目「金閣寺」の一場面。古典芸能に造詣が深い作者を思えば、まずこの舞台への連想がはたらく…

とあるから、彼の句にはなにかしらの背景があるのかもしれない。私は知識が浅い故になんともいえないのだが、その背景があるゆえの魅力はあるのだろう。しかし、私は背景がわからずともその句からある種の世界観を感じるのである。それは中村氏の表現力であり、彼の考えのなかにある景色に対する実に忠実な写生の賜物なのであろう。それ故、その世界は背景にある世界をもとにしていながらそれはもとの世界ではなく、彼のもつ世界観を全面に表しているのである。

   馬は夏野を十五ページも走ったか
   炎しずかに葡萄畑を風にする
   雪の日の浅草はお菓子のつもり

などは前半において好きだったものである。一句目、夏野の草が風に靡いている様子をページを繰る様子にたとえたのであろう。風の音まで聞こえてきそうな句である。二句目、全体的にやわらかな感じがあってなんともお洒落な句ではないか。この句は特に好きである。三句目、私は人形焼の五重塔などを思った。読者それぞれに色色な想像をさせてくれる句である。

具体的な句の話になってしまったので話をもどす。彼の句はとても感覚的な印象を受けるものの、それは共感できないものではない。感覚と実感を結ぶものは比喩の面白さであったり音韻上の面白さであったりするが、それを彼は上手く使っている。読者が実感できなくなる一線とつまらないと感じる一線の間の微妙な加減を使い分けているのでおもわず笑ってしまうような愉快さもあるし、どこかで感じたことのあるような実感を思うこともあるのである。

 
   少女みな写真のなかへ夕桜

彼の百句の後半には比較的実景の見える句が多い。この句も比喩のようでして景は見えてくる。夕桜を持ってきたことで人影の薄くなる感じを受ける。それを写真の中へ、と表現したのはとても上手い。

   夏草を科学忍者は軽く踏み
   冬ぬくしバターは紙に包まれて

なかにはこれらのような写生句もある。一句目、科学忍者というものが斬新であるし、それが夏草を踏むのが軽いというのは実感がある。もっとも私は科学忍者が何かは知らないのだが…。二句目、喫茶店などでトーストを頼んだときなどに出されるバターを思った。冬の日に喫茶店で温まっている気分をバターを通して描いたところが良い。百句のなかでも特に好きな句の一つである。

全体的に彼の句ではその比喩の魅力が引きたっている。繰り返しになるが、そこには面白さがあり、思わず笑ってしまう。また、彼の句にあるのは、言葉だけでの斬新さではなく発想の斬新さなのである。実際、前半に挙げた句も意味深な言葉は一つも無い。それが読者を引き込むことのできる所以であり、中村氏の発想の斬新さを裏づけする理由でもあるのである。





邑書林ホームページでも購入可能。>

4 comments:

葉月 さんのコメント...

>科学忍者というものが斬新であるし、

ある世代には科学忍者はまったく斬新ではありません。普通の雑誌ではこういうところに編集者のチェックが入るのでしょうが、ノーチェックで載る辺りが「週刊俳句」の良いところだと思います。

tenki さんのコメント...

通常でもチェックは入りませんよ。

斬新かどうかは見解ですから。

見解に(編集なり校閲なりの)フィルターが要るなら、書き手が書き手である意味がありません。

葉月 さんのコメント...

なるほど。
そげですか。

青山茂根 さんのコメント...

青木ともじ様

拙文を引用くださりありがとうございます。

歌舞伎、面白いですので、「知識」などとおっしゃらずに、ぜひご自分でチケットを買って、ご覧になってみてくださいね。楽しいものです。