2010-08-01

【柳誌・俳誌を読む】枠組みのようなものについての漠然とした話 さいばら天気

【柳誌・俳誌を読む】
枠組みのようなものについての漠然とした
『現代俳句』2010年8月号、『ににん』2010年夏号、『Leaf』第2号、『バックストローク』第31号を読む

さいばら天気


現代俳句』2010年8月号には、去る3月13日(土)に催された青年部シンポジウム「『俳句以後』の世界」についてのレビュー3本(関悦史、斉藤斎藤、神野紗希による)を掲載。

関悦史「近代文学が終り、俳句の揺動が始まった」は、まず宇井十間による基調発表「俳句の終わり」の眼目を解きほぐすことから始まる。

(宇井にとって)俳句は「終った」のか「終りそう」なのか「終ってほしい」のか、基本的な認識がパネリストにも会場にも共有されないままに終ってしまった。(関)
共有はされなかったが、宇井発言を探れば、その意図が見えるとするのが、関レビューの前半。
(…)(宇井は)多様性を認めさせるための地均しとして従来の俳句を終り得るものとしたかったようだ。つまり俳句というジャンルの消滅ではなく、〝政権交代〟請求運動である。(関)
「俳句の終り」といった、戦術としての煽動的な言い回しに向かって、終わっているか終わっていないかを議論してもさして意味のないことは、あらかじめ予想がつく。「俳句以後」にあるべきが、「俳句以外」ではなく、あくまで「俳句」であることは、俳人たちが語る以上、察しがつく。斉藤斎藤が指摘した「俳句以後の世界の話は俳句以後の俳句の話に(…)いつのまにか横滑り」(「について私が知らないいくつかの終り」)するのは、じつに「しょうがない」(同)ことなのだろう。

で、その、「俳句以後の世界」にあるべき俳句とは、「俳句のオルタナティブ(既存のものと取ってかわる新しいもの)」を換言したに過ぎず、それを「多様性」と呼んでしまっては、「八方丸く収まる」話の持っていき方にしか聞こえないが、宇井の真意はそこにあったのだろうか、と、読者たる私は思う。

ここは余談だが、ひとつ思うのは、既存の俳句秩序に領分を確保できないと考える作家群が、それぞれの領分を確保するために、「俳句の終り」を(いわゆるルサンチマン的に)希求するのであれば、あまり楽しい話ではない。

さて、関のレビューの後半は、橋本直の基調発表「俳句のはじまり」に触れ、子規こそがオルタナティブであったこと、また柄谷行人を引いて、子規の写生を俳諧的(笑い、カーニバル的世界感覚)とする箇所は、神野紗希「表現史の必要」の言う「サブカルチャーだったはずの俳句」と符合する。
もとは和歌に対する穿ちであった俳句が、いつのまにか日本の伝統を担い、美しい日本語の継承者としての役割を持ってしまったのである。そうした俳句は「役に立つもの」であり、それに携わるものは「日本語を守る者たち」という大義名分を手に入れることができる。(神野)
歴史の物差しはスライドするが、関と神野が別のことを言っているのではない。

関レビューに戻れば、子規以降の俳句120年史を、俳句と文学の位置関係という観点から素描。現在時点を次のように概括する。
「主題」復権をはじめとする俳句の外部性取り込みの動きは、いわば再び起こりつつある「俳句」から「文学」への越境・領略である。しかし当の「文学」はもはや世界への対抗を形成する機能を喪失してしまっている。(関)
ちょっと込み入った事情に立ちつくすしかない。これは「俳句」にとって大きな皮肉である。

(俳句さんの告白「せっかく文学さんに好かれようと、いろんなことを真似したのに、いまはもう、かつての文学さんじゃないって言うじゃありませんか。あんまりです:涙)

ともあれ、たいへん興味深いレビューが揃った『現代俳句』のこの号。いつもは読まずに捨てるという現代俳句協会会員にも一読をオススメ。非会員は入手にひと手間かかるが、やはりオススメ。



川柳誌『Leaf』は清水かおり、畑美樹、兵頭全部、吉澤久良による同人誌。2010年7月1日発行の第2号掲載の兵頭全部「『わかる』の理解」は、川柳で良しとされる「一読明解」に疑義を呈する。

「わかる」を重層的に捉え、というのはつまり、個々人のそれぞれ異なる経験を基盤にした、さまざまなわかり方があるはずで(いわば、豊かにさまざまな「わかる」が存在するということ)、それらの多くが「一読明解」というドグマ(兵頭はそれを指導のため便宜的に固定化された枠組みにすぎないとする)によって捨て去られてしまうのは、創作の可能性の限定であり、創作の放棄であるとする。
「一読明解」や「共感」という命題から、ひょっとすると「わかる」ということではなく「わかりあえる」句を目指そうとしていないだろうか。「わかりあえる」はこれまで考えてきた「わかる」とは全く意味が違う。それは伝達であり、連絡である。
俳句でもしばしばテーマとなる「理解」「了解」の問題を、川柳人の表現で読ませてもらい、また違った切り口が見えたような気分。



川柳誌『バックストローク』第31号(2010年7月25日発行)は「第3回BSおかやま大会 記録」を掲載。詳細に4月10日当日を伝えるが、そのなかで、俳人として参加した佐藤文香がみずからの選評について記した「もっと反省」が興味深い。佐藤は、選句基準のひとつとしてを以下のように語る。
加えて、自分が選ぶときに大きな基準があることがわかりました。それは、その句がこの社会にどれだけ貢献しないか、ということです。風刺はともすると社会の役に立ってしまう。真面目にでも奔放にでも、遊び上手な作品に魅力を感じるいうことです。これは川柳であろうが俳句であろうが、変わらない。(…)
「社会に貢献しない」という視点は、とてもおもしろいと思った。



ににん』2010年夏号(2010年7月1日発行)掲載の清水哲男「自力出版の時代へ」は、情報端末「iPad」の登場に、俳人にとっての新しい情報発信の可能性を見る。すなわち、もっぱら自費出版だった句集も、自力出版へとシフトしていいのではないか、という提言。
(…)べつに他人の商売の邪魔をする気持ちはさらさらないけれど、いまの自費出版の費用はあまりにも高すぎると思うからである。(…)書籍の本来の役割は「物」としてのそれよりも、あくまで中身を他人に示すことなのである。
ここで思うのだが、紙の本という物を欲しがらなければ、iPadの登場を待たずとも、例えばインターネット上に俳句をアップロードすれば、「他人に示すこと」はできる(それがいいと言うのではない)。iPadは、物としての本のように読めるという点、同時にその簡便さが、従来の情報通信端末とは違うところである。

清水がiPadを歓迎し、またこれまで「ZouX」という「コンピュータで読む雑誌」を発行しているのは、「物」にこだわらずに、と提言しながらも、自身は、「物」とそれにともなう身体的な側面にこだわっていることの証左である(「ZouX」はページを繰る動作を伴う、つまりアナログな感触を伝えるウェブ雑誌である)。

だから、ポイントは、安価がもたらすメリットだろう。iPadによって、従来の本にまつわる経験とますます類似した経験を、安価にかなえることができるようになるのだ。

しかしながら、自費出版はまだまだ廃れないと思う。俳句愛好者の多くは、「他人に示すこと」も大事だが、「物」を贈ることも大事と考えている。



さて、川柳と俳句それぞれ2誌ずつを拝読し、それと関連するような、しないような、漠然とした思いを抱いたのだが、それは、新しい機運、従来のものに取って替わろうとするものの台頭、それらがあろうがなかろうが、さまざまな既存の枠組みが揺すぶられる契機は、いたるところにあるということ。

要領を得ない言い方のついでに、もっと曖昧な言い方をしてしまうと、ある枠組みのなかで、コンテンツ(アウトプットとしての作品を思ってもいいし、もっと広く「知」を思ってもよい)が常に更新されないかぎりは、枠組みの意義は薄い。

組織(結社であれ協会であれ同人であれ)、あるいはノウハウやドグマという枠組みのなかで、表現(作句)や理解(読み)が更新もされず延々と繰り返されるとすれば、そこに保存の機能こそあれ、生産の機能はない。

例えば、ある種の句誌(結社誌に多い)をめくっていると、そこに変化はあっても更新のない印象を受ける。例えば「師の教え」のなかで、俳句が、あるいは俳句でなくとも何かが更新されていくのであれば、それは枠組みとして生産的だが、そうでなければ、誰もが退屈するのではないか。一度読めばわかる交通規則の教本から、なにか愉しいことを引き出すのは難しい。

「いつまでも続くこと」が目的化してしまった継続に、はたして、どれほどの意義があるだろう。「週俳」に携わる者として、自戒もちょっと含めつつ。

とりとめなくなりました。このへんで。

4 comments:

ににん さんのコメント...

そうですね。iPadでもネットでも清水さんのような有名人には群がるでしょうが、われわれがそうしたものにUPしても読んでくれるのかどうか。それにiPadは付箋が貼れませんね(笑)。

tenki さんのコメント...

ににんさん、こんばんは。

媒体の選択肢が広がるのは、良いことではないでしょうか。

紙の句集、紙の俳誌は、これからも残るけれど、ほかの手もある、ということだと思います。ネットやデジタルに限らず。

sugiyama さんのコメント...

こんにちは。私はiPodTouchを使っていますが、Eメールに添付されたMSワード、PDFファイルがそのまま読めるので重宝しています。
俳句はネットとの相性がいいんですが、横書きを強いられるので、これまではネット上の俳句は見た目がイマイチでした。
MSワード、PDFだと「縦書き、均等割付」が出来るのがいいですね
(句が上手に見える^^;)

自分の作った句や所属句会の句を常に持ち歩きたい(データ用、自慢用)という人はいるはずで、その点でもiPadなどは結構いいんじゃないでしょうかね。

tenki さんのコメント...

sugiyama さん、こんばんは。

この週刊俳句は、一部縦組み(10句作品)。

あれって、携帯端末や携帯電話でどんなふうに見えるんでしょう?(見たことがないので、興味津々)