2010-09-12

【週俳8月の俳句を読む】馬場龍吉

【週俳8月の俳句を読む】
馬場龍吉
鳥は愛を奏で、俳人はことばを奏でる


鳥が鳴くのは年中だが、愛をうたうのは春のさえずりに限られる。対して俳句は四季をことばで奏でる。今月の俳人の俳句は夏を奏でていただろうか。


ブレーキ音二度鳴る夜の金魚玉  岡田一実

作品とは無関係なのだが、「二度鳴る」からは『郵便配達は二度ベルを鳴らす』のタイトルのフレーズが思い浮かんだ。単語は単語でしかないが言葉になったときそこに世界が生まれる。掲句には金魚玉には決して生じない「ブレーキ音」と「金魚玉」の配合による緊張感。〈金魚玉とり落しなば鋪道の花 波多野爽波〉とはまた一味違う夏の夜の緊張感だ。



野営して鳥の名前に疎きこと  松本てふこ

もちろん鳥の名に詳しくなくてもキャンプはできる。のだが詳しければそれに越したことはないだろう。声だけで姿も感じられるのだから。そう言うぼくは何度鳥の名や植物の名を聞いても覚えられない。鳥の名を覚えられなくても鳴き声が聞こえるだけでも、ま、いいか。松本さんもそんなふうに感じたのだろうか。

白樺の幹の湿りよ晩夏光  同

生きているものにはすべて湿りがある。したがってこの白樺にはいきいきとした葉が繁っていることだろう。白樺と晩夏光きれいすぎる。三文油絵の景色にありそうなものだ。しかし「幹の湿り」を言ったことで俄然俳句となった。


夏風邪や影の滴る弟と  小川楓子

「影の滴る」とはどういうことか。気になるところだ。わかるようなわからないような。ちょうど夏風邪を患って熱に浸っているアンニュイな景色でもあるような。

その窓に揚羽ばかりが来て困る  同

これはいい。その窓から見えるもので動くものはいつ見ても揚羽蝶しか見られない。そうしてある夏の日は終わってゆく。明日になったらもう揚羽は来てくれないかもしれない。「来て困る」にはちっとも困っていない小川さんの気持ちが垣間見える。



灯台の踏ん張つてゐる夏の果  小豆澤裕子

夏が終わる灯台は白いまま。白いまま灯台は秋に入る。いつも変らない姿で灯台は立っている。じりじりと灼ける日を耐えて立つ灯台を表すのに「踏ん張つてゐる」の措辞は夏でしかありえない。

饒舌な鳥と寡黙に星祭る  同

「饒舌」と「寡黙」の星祭りに「鳥」と「人」を配して詩を創った。ただそれだけのことだが。それだけのことがなかなか言えないのが俳句。

  

カーテンの折り目の固き帰省かな  岡本飛び地

いかにも上等な新調のカーテン。家族の自分を迎える言葉がそこにある。いや言葉だけではなく気持ちがある。それを感じる自分が家族だからだろう。

夕立にまず腿濡れる交差点  同

佇んでいるならば濡れるのは全体であり、頭部の濡れをいちばん感じる。腿が濡れるというのは走ってきたからだ。ずぶ濡れを感じて交差点で立ち止まってはじめて腿の濡れを発見したのだろう。こういう発見も大事だ。ただし報告では無いところ。



みづうみは織女の鏡かもしれず  しなだしん

水鏡は俳句でよく出てくるが、これは大きく出た。ガリバーの鏡かもしれないところが面白い。もっとも「織女」でなければ季語ではないが。



掬ふとき金魚もつとも濡れてゐる  たかぎちようこ

たしかにそうだ。水中に居るときの金魚は濡れているにもかかわらず、濡れているという認識はないのだが、水槽に移しかえるか金魚掬いであげられるときに濡れている様子をまざまざと知ることになる。

海見ゆる高さに吊りぬ金魚玉  同

読んでいるだけで涼しくなる。海はまるでエーゲ海であるような景で全体に明るさがある。金魚玉で泳いでいる金魚にも海で泳いでいるような。空で浮遊しているような気持ちよさがある。


岡田一実 銀の粉 10句 ≫読む
松本てふこ フジロックみやげ 12句 ≫読む
小豆澤裕子 踏ん張る 10句 ≫読む
小川楓子 その窓に 10句 ≫読む
しなだしん なんとなく 10句 ≫読む
岡本飛び地 病室 10句 ≫読む
たかぎちようこ めし 10句 ≫読む
高山れおな 昨日の明日のレッスン 46句 ≫読む
〔ウラハイ〕
松本てふこ コミケに行ってきました 10句 ≫読む
藤幹子 あれを好く コミケ想望句群 10句 ≫読む
〔投句作品〕
湊 圭史 ギンセンカ 8句  ≫読む
すずきみのる げげげ 10句  ≫読む
俳句飯 秋より遠 5句 ≫読む

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