2010-11-28

【句集を読む】彌榮浩樹『鶏』を読む……上田信治

【句集を読む】
最もドライかつウェット 
彌榮浩樹『鶏』
(2010年9月・ふらんす堂刊)を読む 

上田信治











字面の印象的なお名前は、「俳句研究賞」の予選通過の常連として、記憶していました。2005年、対中いづみさんが受賞した年の選考座談会では、選考委員の中原道夫さんが、何句かを引いて、作品を取りあげています。

 霧島躑躅きりしまやファスナー付きの眼で笑ふ
 青空にはねあがる泥花胡瓜
 背広着て鶏の顔して冷房車
 萍や古都ことんと置きし洗面器
(「俳句研究」2005年11月号)



その翌々年、「澤」の「澤特別作品賞」という結社内の賞に応募した「滋賀銀行」15句が、小林恭二の強い推薦で佳作に入っています。

小林 とにかく「鶴帰る滋賀銀行の灯りけり」はいい句だと思いました。何がいいのかと言われてもちょっと困るのですが、ことばのバランスだけでできている句なんです。でもことばの快楽のある句でした。

 山火事や万年筆の胴光り
 移動階段(エスカレーター)春の瀧よりうつくしく
 ひとの子を抱いて朧の山降りる
 焼そばの蘖(もやし)の上の落花かな
(「澤」2007年7月号)

人の目を引く、いわゆる「キャラクターのある」作者です。

小誌「週刊俳句」には、95号185号に、10句作品でご登場いただきました。

今年の9月刊の第一句集『鶏』についても、すでに好意的な評が、何本も出ています。 ≫〔評判録〕



ところがですね、この句集、自分の周囲で、意外と評が分れる、ということがあったのですよ。

本を手に入れた人が、筆者(上田)に「この作家、好きでしたよね」と言って見せてくれながら、ちょっと首をひねっている。帯裏に並んでいる自選句が、すでに納得がいかないらしい。

 よく糊のききたる空や梅の花
 鶯の声なり左曲がりなり
 バンダナを巻かぬ鶏紅葉山
 鶴帰る滋賀銀行の灯りけり

その人は「固有名詞をほりこむような面白さや、唐突な二物衝撃、ポップな題材には、それぞれ既視感があって、も一つ面白くない」と言うのです。同席していた、自分の信頼する読み手も、あまり支持していないかんじ(〈スポンジとたはしと冬の二条城〉はよい、と言っていました)。

そういえば堀本吟さんも、「俳句樹」のコメント欄で、好意的に述べつつ、〈恋猫の通るミックスナッツかな〉〈鶴帰る滋賀銀行の灯りけり〉〈雪の日の薤(らつきよう)ひかるカレーかな〉などの句については「機知はありますがあまり巧みなではないように思います。(…)余人のものにも似たものがいくつもあり。取り合わせの何を見せ所にするかが判るので私にはあまり面白くありません」と、留保を置いています。



自分は、どの句もまずは良作と思いましたので、ややとまどいつつ、しかし不支持の人の真意も正確には測りかねるので、とりあえず、これと思った句を読みながら、不支持者の説得を試みることにします。



 秋風や三角に切る応募券

いわゆる二物衝撃は、しばしば、あるあるネタ+季語という形で、共感と驚異を同時に提示する方法をとります。

集中には、その手法で〈冬の禽かならず齢を若く言ふ〉のような、ややローブローに思える人事句も見受けられますが、掲句の場合。「秋風に吹きさらわれそうな応募券に、小さな希望を託す、寄る辺ない人の心…」と言ってしまうと〈冬の禽〉と変わらなくなってしまいますが、(1)その書きぶりのあまりの素っ気なさと、それの表す不熱心さ、(2)小さな紙の三角形の鋭角の質感、(3)季語の伝統的美意識にあほらしいほど寄り添っていることの批評性、といった複数の要素が、些事を、俳句に、あるいは美しい冗談に、昇華させていると思います。

 スポンジとたはしと冬の二条城

水で洗うための道具二つと、お城を、ぶつけました。クイック・クイック・スロー、あるいは「ジュンでーす、長作でーす、三波春夫でございます」のようなもので、三つめが、はっきりと「オチ」になっています。一句でいちばん目立つところが、この句の場合「構造」で、その構造は、どうやら単に「面白いこと」を志向している。

しかし、その構造のおかげで、きれいに「二物衝撃」が起こって、その質感の対比や大きさの飛躍に快感があり、しかも「洗うんか!」と突っ込まざるを得ないところで、「冬」が効いて(!)いる。キレイで、凝っていて、しかもばかばかしい。

 鶴帰る滋賀銀行の灯りけり

〈滋賀銀行〉は、「近江」に全体重をもって拠りつつ、賛成しないという、アクロバティックな態度で、その情緒を宙吊りにしている。そして、その宙吊り感が、見えもしない〈鶴〉と、きれいに釣り合って揺れている、そういうモビールのようなバランスで成り立っている句。

しかも、その見えるわけのない滋賀県の暮れ方が、朦朧とした水墨画のような景であるような、気がしてくる、という、みょうな展開力のあるイメージ。



ふらんす堂のHPの企画「昼寝の国の人」で、彌榮浩樹が、田中裕明の「天道蟲宵の電車の明るくて」について書いた短い鑑賞文は、同シリーズの中で、出色のものだったと思う。

その文中の「俳句のかたちをしているが俳句とは全く別種の」あるいは「生活と俳句表現(あるいは俳句形式)とのあいだの距離、そして、(俳句を形成している)言葉と彼との距離」「いろいろ考えてみたが、あらゆる季語のなかで、(俳句として受け取ろうとしたときに)いちばん気色悪くなる季語」といった言葉。

あるいは、同じページの自己紹介のような小文の「30歳を超えたある日、自分でも俳句がつくれるんじゃないか、とふと思いつき」しかし「ほんとうに僕がつくりたいのは、自分でも…つくれるんじゃないか、と思うような俳句ではない」という言葉。

ああ、もう、語るべきことは、作家本人の手によって、ずいぶん率直に書かれていたようです。



この人は「俳句」が書きたいのだが、それは、すでにある「その俳句」ではない。人がそこにお稽古ごと以上のものを見出そうとするなら、それは当然のことです。

もっと言ってしまえば、この人は、もともと「冗談」が言いたかったのだと思うが、それは「その冗談」ではなく、何と言うか、もっと美しいはずのものだった。

 河骨や錻力をたたく雨の音
 湖を煙とおもふ立葵
 雨ののち自転車がゆく曼珠沙華

冗談を抜けば、こんなふうに、俳句らしい俳句を、書くことも出来るこの人ですが、

 いつまでもいつまでも昼つばくらめ
 随筆エッセイ)や冬菜を人のやうに煮て
 弟を風呂に誘へば兜蟲
 ふるさとは牛がまつくろ秋の山
 本日の珈琲は之(これ)鳥渡る
 学校にいまも兎のゐるぽん酢
 
上に挙げた〈滋賀銀行〉や〈二条城〉の句と並んで、これら、冗談と、詩の交点にあるような俳句が、「俳句の形はしているが俳句とは別種の」何かとして、この人にとってもっとも親密なものなのではないかと、想像される。

(この句集に乗れなかった人は、そこの不徹底が気になったのかもしれない。俳句のつもりなら、面白がりすぎじゃないか、とか。冗談にしては、強度が足りない、とか)

それにしても〈学校にいまも兎のゐるぽん酢〉の、ぽん酢とは。

あの「しあわせ〜って、なんだ〜っけなんだ〜っけ♪」というCMソングのそれなのだろうか。まさか、と思って、あわててそれを打ち消すと〈学校にいまも兎のゐるぽん酢〉となり、それでは、まるで、人のひどくプライベートでデリケートなものを打ち消してしまったようで、後ろめたい。

どうも、この〈ぽん酢〉は、言葉に尽くしがたい切なさを、無理矢理、物(ブツ)にしてしまった痕跡であって、要するに、言おうにも言えないから〈ぽん酢〉ということなのではないか。



ああでもなければ、こうでもない、という、そのこと自体を言おうとしている人というのは、もともと、失語症ぎみに引き裂かれているのかもしれず、そういう人が選択する、笑いという方法は、最もドライかつウェットなものであり、そして、それはひじょうに俳句的なものなんじゃあないか、ということを強弁して、ご挨拶に代えたいと思います。

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