2011-02-20

第130号~第139号より 湊圭史さんのオススメ記事

第130号~第139号より
湊圭史さんのオススメ記事


今回の企画にお誘いいただいて、創刊準備号から気になるタイトルの記事を拾い読みしてみました(いや、10号分が対象範囲、というところを見落としていただけですけど…)。で、気づいたのは、『週刊俳句』が2007年からのスタートだ、という、みなさまにとっては当たり前の事実。当方、俳句に興味を持ち始めて、どこかから週俳を読むようになって、何となくあって当たり前の存在だったので、すっかりもっと前からある気になっていたのです。

というのはさておき、いつも一番楽しみにしているのは、【俳誌を読む】のコーナー。私は俳句から現代川柳のほうへ逸れていった人間で、俳壇(?)に関わろうとかいう気は一切ないのだけれど、というか、だから、でしょうか、この「総合誌」に絡む部分がやじ馬的にとても楽しめる(しかし、「総合誌」という呼び方は一体なんなのでしょう。「商業誌」なら分かりますけどね)。

で、第130号~第139号で一番おもしろかった記事は、第132号(2009年11月1日)の

五十嵐秀彦 【俳誌を読む】新しい才能の発掘」という看板~角川俳句賞選考 『俳句』2009年11月号を読む  ≫読む

五十嵐さんの記事は「モノの味方」シリーズからずっと、しっかりとした視点と批評眼があり、しかもずばっと切れのある物言いで楽しめます。この記事でも、

実験作が出てきて欲しいと言いながら、実験作が受賞することはおそらく今後もないだろう。/実験作なのに完成度が高いなんて、まるで笑い話である。今現在という時代における完成度という概念を否定するからこそ実験作なのだから。[・・・]いつもいつも完成度か個性かと言いながら、結果的には現在の俳句の世界の「常識」に合致した作品に落ち着いて終わるという「お芝居」のようなものだ。
と、まあ先生方もいろいろあって、となあなあにされてきた、あるいは、みなさまが飲み会で愚痴をこぼすだけだったところを、ズバっと言い切ってくれています。内容は笑いごとではないですが、ここまで言ってもらえると笑えますね。笑えますが、ここで述べられていることがらは、角川俳句賞だけにとどまらず、創作のすべての分野を全面的におおっている傾向をとらえているのでは、とも思えてきます。まことにイタイです。

俳壇論ではなくて俳句論としては、第137号(2009年12月6日)掲載の

さいばら天気 〔俳誌拝読〕 『俳句空間−豈』第49号・特集「俳句の未来人は」を読む ピリオドの描き方 ≫読む

でしょうか。『俳句空間-豈』の特集記事の紹介ですが、若手俳人もいろいろ違った考えをもってやっている、という当たり前のことがよく分かります。一節だけ引くと、
社会性へとコミットしようとする俳句よりも、社会性にコミットされてしまう俳句のほうが、むしろ切実かもしれない。その意味では、俳句形式フェティシズムもまた、「社会性にコミットされてしまった俳句」なのだ(主題なき時代の産物)。
うまい下手の技術的なことの評価はおいて、批評にできることは「社会性にコミットされてしまった」部分を照らしだすことでしょうね。『豈』第49号の論のいくつかには、この目標の端緒になりそうな発想はありそうです。また、読み直さないとな。

他にも面白い記事がありましたが、第139号(2009年12月20日)掲載の

さいばら天気 幸せになれるって保証も約束もないんですよね 現俳協青年部勉強会「俳人とインターネット」 レポート 〔後篇〕 ≫読む

に引かれている四ッ谷龍さんの発言が印象に残りました。
■「情報発信」はすでに過剰
四ッ谷龍 今日の話は、どうやってコミュニケーションを活発化させるかということを問題としていると思うのだが、私の場合、この数年作った俳句をどこにも発表しないという状況が続いている。暴論とわかっていて言うのだが、「自分の俳句をそう簡単には他人に読ませてやらないぞ」という気持ちがある。これだけ俳句についての情報があふれかえっている時代に、「情報を発信しない」という考え方があっていいのではないか。こう言うと、たいてい「俳句は人に読まれてはじめて価値があるんでしょう」という正論を返されるのだが(笑)。勧めもあって近々句集を出す予定だが、そうたくさん印刷しなくてもいいかなあという思いがある。


≫既刊号の目次 121-140

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