【週刊俳句時評第35回】
世代論ふたたび
生駒大祐
〇.
4月も末のことであったが、twitter上での
昭和30年世代と私は地続きの存在のような気がしていたが、彼らの中でtwitterをやっている人が(おそらく)だれもいないという点を持って彼らと私は「隔絶」している、と、昭和30年世代botを見て思う。
という今思えば的外れかつ大変不用意な僕の発言を発端にしたtwitterにおけるやりとりがあった。
そのやりとりは、世代で俳句・俳人を区切り、論ずることへの可否についてであったが、僕の考察力不足もあり、議論は僕によって一方的に打ち切られることになってしまった。
よってある程度冷静になった今、世代論とはなんなのかについて少し遠回りしつつもう一度考えてみたいと思う。
一.
この一ヶ月以上も前のことを思い出させるきっかけとなったのは、「円錐」第49号の澤好摩氏による時評、「主題喪失の時代とは」を読んだことであった。好摩氏は「豈」51号の「特集・第二次新人(U-50)論」に対して
「第二次新人」も、それを論じる人々も含めて、現在の俳句状況や俳句観というものを見ていると、昭和の頃には確かにあった視点が、今日では欠落しているような、そんな気がしてならないのである。
と述べる。
続いて好摩氏は「主題喪失」というキーワードに対して
ところで主題とは、表現内容のことよりも、俳句形式を通して何を期待するか、俳句を書くための、その書き手に一貫する方法論に及ぶものであろう。感動やテーマが先にあって、それを俳句を書く場合もあろうが、逆に、惹かれる言葉があって、言葉と言葉の関わりに注視しつつ、書き込んでいって、のちにこれが自らの書きたかったものだったと追認する書き方もあるのだ。これをも「主題喪失」として括るのは、間違いだと言わざるを得ない。
と記す。
そして結びの言葉として好摩氏は
(前略)『新撰21』『超新撰21』をはじめ、若手俳人の登場と、その後の状況を見ていると、総合誌に名エディターの不在が影響してか、誰も交通整理が出来ずに、それぞれが気儘に発言し、作品を書いている。同世代の他人と自分の差異にのみ目を奪われ、実は真に競い立たねばならないはずの先達の作品や俳句認識への配慮に欠けている気がする。それは、誰も過去の作家の作品や評論を読んでいるのだろうが、その中で誰が優れた仕事をし、誰が最もその時代、時代にあって状況を切り開いてきたか、に対する検証が足りない気がする。いつの時代もそういう人が主流だったと言えばそうなのだが、混沌とした時代の雰囲気の中で、過去の検証を行うことで今後のとるべき道を示唆することのできる真のリーダーの登場が望まれる。
と稿を締めくくっている。
この文章は「豈」51号の特集に対して述べられているものなので、結びの言葉が一般論の体をとっていながらその矛先は特集の書き手に対して強く述べられていると読むのは自然だ。ここで「豈」51号の特集を実際に読んでみると、確かに「第二次新人(U-50)論」と銘打っているものの、50歳以下の俳人の作品に対して何か新しい包括的な議論を行うことに成功している書き手は少なく、その世代の作家・作品を触媒とした各論的俳句論、個々の作家及び作品に対する議論・問題提起やこの世代の持つ文化的背景について随筆的に述べた論で占められているように思えた。
もちろんそれらはそれぞれ読み応えがある論であり、特集の目的が包括的な世代論にあったのかも不明ではあるが、僕にはこの特集が世代論の難しさを象徴しているのではないかと感じられた。そして、はたして世代論から好摩氏が述べるような「今後のとるべき道を示唆すること」ができるのだろうかという疑問を持った。
「主題喪失」という問題も非常に興味深くはあるが、本稿では俳句の世代論の可否について今一度考えてみたいと思う。
二.
『新撰21』、『超新撰21』はそれぞれ40歳以下、50歳以下と縛りを設けて作られたアンソロジーで、世代論的な基準をもってして編まれているように見える。また、今回の特集や『澤』2007年7月号の(特集・二十代三十代の俳人)、さらにはこの稿の冒頭においても触れた小川軽舟著『現代俳句の海図 昭和三十年世代俳人たちの行方』など、世代によって俳人を選別し、特集する論には枚挙に暇がない。
特に、最後の「昭和三十年世代」というフレーズは僕の周りで影響力が大きかったように思える。それが冒頭の僕の発言にも繋がったわけであるが、そもそも世代論が効力を持っているように見えるのは「世代論」が「時代論」と等しい、すなわち同世代で作家をくくることで、共通の時代に生きていることによる同じ思想的・文化的背景を持った作家をまとめて論じることが出来るという前提に立っているからではないだろうか。
「時代論」は言論史の中で絶えず行われてきた行為だと言える。そして、同世代とは同時代を生きた者の集団であるために、世代論を時代論と同一視する(または世代論が時代論に含まれる)ことは当然のように思われているように感じる。
はたしてそうだろうか。
俳句における時代論はふたつあり、それらが混同されて論じられているのではないか。そしてそのことが俳句における世代論の難しさに繋がっているのではないかと僕は考える。そのふたつの時代論とは「俳句史に対する時代論」と「時代に対する時代論」である。
「俳句史に対する時代論」とはその時代にどの俳人が俳壇の中で活躍し、どんな作品を発表してきたかという論であり、好摩氏の言う「誰が最もその時代、時代にあって状況を切り開いてきたか、に対する検証」はここからなされるべきであろう。一方「時代に対する時代論」とはその時代がどんな文化の中にあり、どんな歴史的事実がそこに存在したかという論である。後者は世代論とほぼ同一視できるだろうかもしれないが、前者は決して世代論と交わることがない。なぜなら、世代とはあくまで「生きている」時代を表す言葉であり、俳句史の中でのその作家の立ち位置を定めるものではないからだ。
よって、例えば「俳句におけるフロンティアがその作家たちにとって存在したか」という問いは本来「俳句史に対する時代論」で語られるべきであり、「時代に対する時代論」≒「世代論」で語られるべきではない。「俳句史に対する時代論」における「世代論」に対応する言葉は「俳句遍歴論」とでも言えばよいだろうか。それは「現代俳句の海図」の巻末におかれた年表を見れば例えば分かる。それによれば俳句を始めた順という観点から考えれば「昭和三十年世代」としては最年少である岸本尚毅よりも最年長である中原道夫の方が後ということになるし、結社に所属した順ということで「昭和三十年世代」10人を並べてみると三村純也が『山茶花』に入会した昭和四七年から櫂未知子が『港』に入会する平成二年までは18年もの開きがあり、「海図」の基準であった10年というスパンを大きく逸脱していることになる。その観点から見れば、「海図」の「世代論」によって「俳句史」における包括的な論を洗い出すのは実際には困難であると考えられる。
誤解を招いたかもしれないが、僕はここから「海図」という本の価値を否定したいわけではない。僕が言いたいのは「海図」とは「時代に対する時代論」を元に俳句史における包括的な結論を「あえて」求めるとどうなるかという非常に実験的な本であり、「昭和三十年世代」とは常に括弧付きで語られるべき言葉であるということである。実際、軽舟氏は「海図」12章の中で一見「昭和三十年世代」に対して包括的な議論をしているようで、実際には数人ずつの似通った傾向をまとめて分類するという各論を展開している。「開拓すべきフロンティアは残されていなかった」という内容の言葉も、「昭和三十年世代」論というよりも、テーマのフロンティアに関しては日本の文化論として、形式のフロンティアに関しては金子兜太・高柳重信・摂津幸彦が古典となった後という「俳句史」的な論として語っていることがわかる。
一方、新撰シリーズに関しても似たことが言える。新撰シリーズはU-40・50という「世代論的」区切り方をなされたアンソロジーというように思われがちであるが、その真の価値は選定の基準である「二〇〇〇年以前には個人句集の出版および主要俳句賞の受賞のない俳人を対象に」するという点にある。この条項こそが「俳句史」的な意味での「新人」によるアンソロジーであることを明確に示唆している証拠であり、本質である。また、年齢による選別も、低年齢で区切れば区切るほど俳句暦がより狭い枠に収まりやすいという意味で「俳句史に対する時代論」的選別に近いと言える(例えばOver-80のアンソロジーを編んだとすれば、その所収俳人たちの俳句史的立ち位置はばらばらで収集が付かなくなることであろうことは想像に難くない)。その価値を見誤ってはならない。
三.
以上のように、世代論で俳人を包括する議論を行う困難さの原因を見てきたつもりであるが、次の疑問として浮かぶのが、では世代論に代わる俳句における傾向分析の議論の方法はどのような形をとるのかということだ。正直に言って、僕の現在の力(および考察における時間的な制約)では現代の俳句に対して有益な議論を行う自信はないのが実情である。その代わりといっては難であるが、傾向を見出すことのできる「かもしれない」方法論をいくつか示す。
Ⅰ:俳句形式と出会った契機と時期
俳句形式と出会うのには様々な方法がある。「純粋に俳句作品を読者として読んでいた人間が作品を作り出す」「カルチャーセンターなどで俳句をお稽古事として始める」「自己表現を模索していた人間が俳句形式を選ぶ」「俳句甲子園などにある、ゲーム性・仲間との交流など俳句の付随的な要素に引かれて始める」などなど。
Ⅱ:俳壇に認知された契機と時期
俳壇に認知されるにも様々な方法がある。「五十句競作、角川俳句賞、俳句研究賞などの新人賞を受賞する」「結社内で新人賞、同人となるなどの結社内での認知度が上昇するに従って徐々に俳壇に認知される」「発言力ある選者の目に留まる」「俳論者として注目される」「雑誌・同人誌を創刊する」などなど。
Ⅲ:発表媒体
俳句を読んでもらうにも様々な形式がある。「句集が注目される」「主宰誌を持つ」「同人誌に参加する」「同人として長く発表を続ける」などなど。
Ⅳ:師系
これはむしろ共通性よりも多様性の方を論じられるべきだろう。「海図」において小澤實、小川軽舟と出自を同じくする四ッ谷龍が論じられていないのも、おそらくその多様性を表面化させて論を複雑化させないための意図が軽舟氏にあったのだろうと推測される。
以上の「今後のとるべき道を示唆すること」のできる「可能性」を提示して今回の稿を閉じようと思う。世代論を更新する新たな論が出現することを期待すると同時に、自らがそれを考察し、文章化したいという願望をここに記しておく。
(了)
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1 comments:
山田耕司さんが俳句時評(『詩客』2011年06月24日号)で、この記事に触れていらっしゃいます。
≫「世代」論への疑問など。
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