週刊俳句時評第38回
その後の仁義なき震災俳句
関悦史
宮城県多賀城市に発行所を置く「小熊座」(高野ムツオ主宰)の7月号が出た。
以前から投稿及び募金の呼びかけを行なっていた東日本大震災の緊急特集号で、「作品20句」の欄に51名、「作品10句+エッセイ」欄に7名、「エッセイ」欄に11名、「小エッセイ」欄に25名が寄稿し募金を寄せている。
集まった義援金は全部で43万6千円となり、全額が日本赤十字社とあしなが育英会に送られるという。
以下「作品20句」欄から印象に残った句を抄出する。
春潮や瓦礫の奥に水平線 池田紀子
勤務せし三校流されたりと春 大澤保子
ジャスミンの風に揺るるを余震かと 菊池ゆう子
三月の甘納豆支援品にあり 黒田利男
一湾は光の器知子の死 越髙飛騨男
昼顔や明暗分けしものは何 さがあとり
Tシャツの少年黙り込む瓦礫 関根かな
生者我初夏の朝日に抉られて 高野ムツオ
避難所のアンパン百個冴返る 土屋遊蛍
大津波見つつ飯食ふ人非人 八島岳洋
大地震の箱庭縮む日なりけり 渡辺誠一郎
1句目、《春潮や瓦礫の奥に水平線 池田紀子》は瓦礫の描写ばかりに気を取られず、瓦礫をもたらした今は平穏な海を垣間見て、その永遠の相の非情さに触れる。非人情というより、人の隣につねにありながら、人情とそもそも無関係な、単なる厖大な質量としての自然の相。
2句目、《勤務せし三校流されたりと春 大澤保子》はその地で生活している人ならではの句で、最後の「春」が有季の約束事を満たすためだけの投げ込みとも、またのどかに過ぎて情調を狂わせているとも一見見えるが、あの学校たちがみな消えてしまったのかという現実感の狂い、乖離感に対応しているようでもある。
3句目、《ジャスミンの風に揺るるを余震かと 菊池ゆう子》は内心の脅えにのみ焦点を当て、それを風に揺れる花の明るさとの対比で示した。これも陳腐な一般論化を免れる方途の一つだろうと思う。
4句目、《三月の甘納豆支援品にあり 黒田利男》は、言うまでもなく《三月の甘納豆のうふふふふ 坪内稔典》を踏まえている。おそらくは避難所における意外な出会いを描いていて、言葉遊びのなかの「甘納豆」が、災害の衝撃に弾かれて不意に現実に現われ出たような、浮薄でないユーモアがある。
5句目、《一湾は光の器知子の死 越髙飛騨男》。「知子」は津波で亡くなった「小熊座」同人の大森知子氏を指す。「一湾は光の器」は自然の非情さ、横死の無念さと、その審美化による荘厳・哀悼とがせめぎ合い、一体となった緊張感あふれるフレーズ。
6句目、《昼顔や明暗分けしものは何 さがあとり》は、答えのない問いと「昼顔」との、直截なというより、何か抜き差しならぬ取り合わせを見せる。この季語「昼顔」は震災詠に無理に割り込んでいる感じがない。
7句目、《Tシャツの少年黙り込む瓦礫 関根かな》は、即物的・日常的な「Tシャツ」と「黙り込む」の対比で少年の内面が浮上し、その衝撃の深さが迫ってくる。希望の象徴としての子供でもなければ、報道番組によくあるお涙頂戴の具でもない、ただ単なる人間として「瓦礫」に向き合わされる「少年」。
8句目、《生者我初夏の朝日に抉られて 高野ムツオ》。 「抉られて」は死者たちに対する生き残った者の罪責感情だけではなく(同じ20句の中に、見えない数多の死者を想い描いた《泥中に開く目玉あり聖五月》もある)、衝撃と損害を負って生きなければならなくなった己への、呆然たる、心情ならぬ心情にも触れているような気がする。呆然としている間に季節は勝手にどんどん進み、もう「初夏の朝日」を投げつけてくる。
9句目、《避難所のアンパン百個冴返る 土屋遊蛍》。「アンパン」も平時とは異なる相を示す。感情移入のしようがない、冴え返る物量としてのアンパンが現実からの乖離感をうっすら漂わせているようでもある。たとえ空腹であり、目の前に並べられていたとしても勝手に手にとって食べるわけにはいかない状況下の「アンパン」。疎外感を放射しつつも、それ自体としてはやはり懐かしみのある異化された物件としての「アンパン」が災害を照らし返す。
10句目、《大津波見つつ飯食ふ人非人 八島岳洋》は無季句であり、「人非人」という思い切った言葉を使う。今実際に大津波が見えている場所で飯を食っているとは考えにくいから、テレビ映像のことと思う。災害報道のたびに視聴者が負わされる罪責感情を正面から斬っているが、この「人非人」が句の作中主体当人のこととも、被災者の立場から視聴者に罵声を発しているとも取れ、それが悪しき曖昧さではなく、大災害を見てしまった者たち全員に迫る普遍性へと通じている。
11句目、《大地震の箱庭縮む日なりけり 渡辺誠一郎》は3句目の「ジャスミン」と同じく、大地に揺さぶられることによる感覚の変容に触れていると思しいが、思索が一枚挟まっているというか、縮む「箱庭」が、人の営為全体の虚しさ、頼りなさの感覚に通じているようでもあり、その何やら急によそよそしい雰囲気をまとうようになってしまった営為のひとつに「俳句」自体も含み込まれているのではないかという気もする。
尋常でないスケールの災害を詠もうとすればおのずと対象から距離を取ることとなり、容易に他人事じみた一般論に落ちることにもなる。以上の句はそれを何とか避け得ている例として挙げたが、復興の決意表明や惨状の報告に終始する句も少なくはなく、大震災と原発事故という表象の臨界に圧倒されながら、それをいかに、どのような水準で、言語でもって彫り上げ返すかが内省される時期に入ってきたのかもしれない。それは作り手自身の魂鎮めにも直結する。
大災害の際に反射的に巻き起こる「被災地への励ましの1句」の時期を通り過ぎて、同人誌各誌も、根源的な大構えの特集テーマが目につくようになってきた気がする。
「LOTUS」第19号が《俳句と自然》、「らん」第54号が《現実と非現実》、「第二次 未定」第92号が《多行形式における改行の意義》等である。
これらの特集には直接震災に触れている論考もいくつかあるが、それよりもこうしたテーマ設定自体が、震災・原発事故に対する一種の「戦後文学」的な雰囲気を漂わせはじめている。
その一方、「昔から繰り返される天災が、日本人に自然への畏敬の念を植え付けた」として「自然」と「季節」を曖昧にとけあわせ、今回の大震災の威力をも「自然」を詠む「俳句」への権威付けに転用するかのような黛まどかのような立場もある。http://sankei.jp.msn.com/life/news/110502/art11050207370002-n1.htmこちらは表象不可能なものに向き合わされた場合、俳句を含めた言語表現はそれどう受け止めるべきかといった問題設定をもやりすごすことができる(ほかに突然短歌を詠み始めた長谷川櫂のケースもあるが、これも俳句表現の問題に直接には関係しない)。
有季定型を絶対視する立場には、表象不可能な巨大なものとしての自然に、季語を通じて帰依しているように自分自身にも思わせつつ、その実、かえって自然の暴威を想像的に馴化してしまうといった操作があらかじめ組み込まれているのではないか。
こうした立場は例えば、富澤赤黄男の《蝶墜ちて大音響の結氷期》と高柳重信の《身をそらす虹の/絶巓/處刑臺》を引きつつ以下のように述べる田辺恭臣とはかみ合わない。
《……金剛の強度と思われ、神彩を放っていると感じられた言語構造のそれ、一字空白表記の端緒たる由縁も多行形式が開示した磁場の牽引力も、あれ(引用者註・東日本大震災)の出現の酷烈を前にしては、なべて無力色褪せ、ただただ索漠たる白けた活字の羅列に思われ、想像を絶した眼前事象に匹敵しうる俳句言語の構築は、まったく新たな想像力の組み直し、有機的な改行の理由を模索するしか届いていかないように思われた》田辺恭臣「多行形式における私の改行の理由―未曾有未出現の甚大事象の顕現のさなかに―」(「第二次 未定」第92号)
●
ここで、最近出た高橋修宏の第一評論集『真昼の花火 現代俳句論集』(草子舎・非売品)に目を向けたい。
この本で論じられているのは宗田安正、和田悟郎、津沢マサ子、柿本多映、小川双々子、久保純夫、佐藤鬼房、三橋敏雄、林桂、攝津幸彦、高柳重信、西川徹郎、安井浩司といった作家たちであり、これら歳時記的世界観から踏み出すことを要請する作家の並びに対して高橋修宏は、神話的、歴史以前的な古層から捉えようと試みているようだ。
その方針自体は妥当と思うが、こうしたアプローチはしばしばユングや全体論に接近することになる。
実際、本書のなかにもユングに言及した箇所がないわけではないのだが、しかし文芸批評でユングを持ち出されると、論じる対象の固有性を出来合いの原型や集合無意識という全体に還元し、何ら新たな構造化やパースペクティヴを得ることもないままに、何らかの由緒付けが得られたように錯覚してしまうといった事態がしばしば見られもするのであり、本書もその弊をまぬがれきってはいない。
それよりも本書でこの際注目したいのは、高橋修宏自身の師・鈴木六林男に関する論考の数々である。本書の前半、分量にして約4分の1は六林男論に当てられているのだ。
そして本書に収められた論考の全てが大震災発生前に発表されているにもかかわらず、この一連の六林男論は、表象不可能な事態とそれがもたらす大きな傷に対して、俳句形式はいかなる身振りでもって答えることができるか・できたかという問いに対して極めて示唆に富むのである。
それはまず高橋修宏が、戦後の六林男の営為を、戦闘を詠んだ第1句集『荒天』(1949年)の高い緊密度を誇る表現が、戦後の日常のなかで次第に弛緩していく過程としてではなく、内面的に深化していく過程として基本的に捉え、そこからアクチュアリティを引き出そうとしているからだ。
《六林男だけが「戦乱によって日常の自然感性を根こそぎ疑うこと」(吉本隆明)を強いられた戦後を視つめ、考え、書き、その「反動」に傷を負いながらも自己の内面に深く関わる表現をつづけてきた。》(p.19)
《鈴木六林男=〈戦争〉にこだわり続ける俳人という、いわば定式化した評価が肥大すればするほど、それに対し、どこか名づけようのない異和感を抱いてしまうのはなぜなのだろう。(中略)彼の六十余年にわたる句業、つまり表現史の中で〈戦争〉というモチーフは、いかに持続され、どのように変転をとげていったのか。そのような“持続と展開”のダイナミズムを、どこか見過ごされたまま、鈴木六林男は読まれてはいないだろうか。(中略)あくまで、作品を読むという行為は、〈現在〉に作品の可能性を連れ出すことである。》(p.27-28)
第6句集『王国』(1978年)について、六林男は《十年間の四季にかかわったことになる。しかし、発表するときは冬の一日に統一した。都合のいいように季語を入れ換えた。私の季語状況論の実践としてそれを行なった》(「定住者の思考」1979年)という。
群作という方法と、作中季節の自在な変更。
これも、たまたま発生したのが3月であったために機械的に「春の海」や「春の地震」とされて妙に緊張感のない表現に終始した震災俳句の数々との比較において、改めて目覚しい主張ではあるし、また後年六林男が、第1句集『荒天』について、《俳句を始めて二年ぐらいの筆力では、戦争は書けなかった。しかし戦闘なら書けるような気がした》(「『荒天』上梓のころ」1980年)と述べているのを引きつつ、高橋修宏が第4句集『櫻島』後半に頻出する「わが死後」というキーワードを引き出していることも興味深い。
母の死後わが死後も夏娼婦立つ
わが死後の乗換駅の潦
わが死後の改札口を出て散りゆく
これらの句から高橋修宏は「どこか尋常ではない心性」を読み取り、《六林男の〈死後〉とは、いわゆる「安保の時代」と名づけられた〈戦後〉という時空に対するアイロニカルな認識》(p.43)と解する。
前掲の「小熊座」の句、《生者我初夏の朝日に抉られて 高野ムツオ》にも「わが死後」の視座が含み込まれているが、これが「時制の遠近法」が「壊れた」特殊な心理状態というだけのことではなく、個人としてのリアリティを執拗に手放さないままで、時代・社会への批判に結びつける経路ともなり得ることが示されているわけである。
また第9句集『雨の時代』、第10句集『一九九九年九月』の時期になると有季句が増えるが、高橋修宏はそれらが現在形で書かれていながらも距離感を感じさせることに触れ、ことに『雨の時代』収録の次の句
花篝戦争の闇よみがえり
を引いて、《「花篝」という美しい〈季語〉と取り合わせられてしまうことで、一句は名づけようのない異和を抱えこんでしまっている。(中略)季語の安易な抒情性は締め出され、明らかに変質を迫られている光景といってよいだろう》(p.54)と述べる。
ここに現われているのは、六林男の内面と、季語という外界と、それらをぶつかりあわせ、歪ませていく時間の流れとの相克である。
表象の臨界に直面したとき、それを表現するには、取り込み、内面化するという過程をくぐり抜けなければならず、その過程は体験・外界を変質させるだけではなく、同時に作者にもはねかえって或る作用を及ぼすという事態、その一例がここに見られるように思う。
日常言語そのままで句に於いて人を励ましたり、復興を誓ったりしても、その心根は心根として、句の表現としてはおおむね虚しいものとなる。
表象の臨界において、なお表現すること。
それは外界や体験を、認識の深度を上げて再構築していくということだけではなく、おそらくは表現する主体の側にも或る「変身」を強いてくるものなのだ。
●
※高橋修宏『真昼の花火 現代俳句論集』は著者から、「小熊座」「LOTUS」「らん」「第二次 未定」は各編集部から寄贈を受けました。記して感謝します。
1 comments:
詩客 俳句時評 第13回 山田耕司・「わたし」という方法 に
関さんのこの記事が取り上げられています。
≫http://shikaryozanpaku.sitemix.jp/jihyo/jihyo_haiku/2011-07-22-1956.html
コメントを投稿