奇人怪人俳人(四)
大本営参謀 秋山牧車(ぼくしゃ)
今井 聖
「街 no.82 」(2010.4)より転載
1994年(平成6年)4.22と日付の入った葉書が我家に届いた。加藤楸邨没の翌年のことである。
「病院にて 秋山」と表にある。牧車さんだ。
仰臥したまま書いたのであろう。文字が震え乱れている。
その文面。
小生、病院に編集長を呼び「暖響」の活性化につき意見を申し述べましたが到底実行の見込みなしと悟り全部破棄の由矢島君に申し送りました。編集部に於いて適当の方策御研究下さい。「錚々」欄の代りに優秀作品を載せること(十二句位)。これはできるのではありませんか。 草々
文中、暖響(だんきょう)とは寒雷同人会のこと。編集長は当時矢島房利。錚々(そうそう)とは、同人欄の、特に句歴の長い重鎮のために別枠を設け、これを「錚々」欄と称した。
「錚々」欄は楸邨没後に設けられたもので、牧車さんは作品が停滞するとして、重鎮を別枠にすることに反対であった。何を破棄せよと言ったのかは記憶にないが、「重大提案」に編集長は乗らなかったのだ。そのため、一歩譲歩した案を編集部員である僕に提示してきたのである。
このとき牧車さん、95歳。
前年、七月に楸邨が亡くなり、葬儀委員長を務め、九月には同人総会に於いて、雑誌の存廃を論議し投票の上存続を決定。年明け二月には誌名継承を決定。
それらいずれの場面にも牧車さんは中心になって働いた。その疲れからか、三月に大動脈瘤で緊急入院、一時危篤状態になったが、それを脱してすぐの四月である。
「提案」の内容はともかく、文面に見られる「寒雷」に寄せる思いの激しさは、今その黄ばんだ葉書を読んでも鬼気迫るものを感じる。
牧車さんは1969年に70歳で同人会長に推され、爾来22年間その任にあり、'91年に辞任するが、一年置いて、'93年には再び同人会長に推される。その間、編集長は森澄雄、平井照敏、久保田月鈴子、矢島房利と変わったが牧車さんの存在は揺らぐことはなかった。
会長になる前も、「寒雷」に同人会の発足した'62年から副会長(会長は清水清山)を務めていたので、牧車さんは寒雷同人会の代名詞といってもよかった。
牧車さんは、終戦の年に休刊となった「寒雷」の復刊に奔走し、翌年に復刊を果たす。それから五年後の1951年に「寒雷」は現在の住所に発行所を定めるが、それまでは場所を豊島区と中央区の二箇所を転々とする。
復刊から、この間の運営に牧車さんの私財が投じられたと聞いている。
誌面の校正の日には杖をつきながら会場に出向き、帰りにはポケットマネーの中から担当の人たちに酒食をふるまった。僕もそうだが、牧車さんにご馳走になった人は多い。
「寒雷」運営に対して物心両面にわたっての貢献をかくも長きにわたってつづけた牧車さん。95歳になっても、危篤状態を脱してすぐ枕頭に編集長を呼び編集の提案をする。これを老人の妄執というべきだろうか。否な、牧車さんには後半生を賭してそうしなければどうしても気の済まない理由があったのである。
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1946年、太平洋戦争終戦の翌年、加藤楸邨は、「俳句研究」誌上で、中村草田男から「楸邨氏への手紙」と題された公開質問状を示される。
終戦直後から芸術、文学ジャンルにおいても戦争責任を問う論調が盛んになり、高村光太郎、火野葦平、吉川英治、山本有三、斎藤茂吉等が指弾を受けた。
俳人においては、高濱虚子、山口青邨、水原秋桜子、小野蕪子、富安風生等、大政翼賛会文学報国会俳句部会に所属した俳人の名前が挙がった。
草田男の公開質問はそういう風潮を受けて、楸邨の戦争責任を問うものであった。
質問の内容は、大別して二つ。
第一は、楸邨と「寒雷」が軍部から便宜を受けたのではないかという指摘。
第二は、楸邨の俳句における創作理念についての疑問。
第一の点がここでのテーマに関わってくる。
草田男の指摘を要約すると、「戦時中或る俳壇指導者たちは国家権力を後ろ盾にして影響力を行使してきた。楸邨は戦争初期は自分(草田男)と同じ受難者の立場であったが、戦争後期には上層部から与えられた便宜を受けて便乗的になったのでないか」というもの。
上層部とは、当時、「寒雷」に投句していた軍高官を指している。「しかも、その高官を戦後も結社員として優遇しているのは何故か」とも問うている。
草田男のいう戦争後期の「便宜」とは、ひとつは1944年に時局逼迫ということで行われた俳誌の統合があり、多くの俳誌が廃刊になる中で、残った十六誌の中に「寒雷」があったという事実。
もうひとつは同年に改造社嘱託、及び陸軍嘱託として中国大陸に取材する目的で、楸邨と土屋文明、朝日新聞社社員の石川信雄の三人が派遣されたということ。このときの楸邨の紀行文と句は『沙漠の鶴』に見ることができる。このふたつの決定に軍高官の便宜、つまり牧車さんの力がはたらいていたに違いない。これは便宜というべきであろうという問いである。
楸邨はこの質問の半年後、同じ雑誌に「俳句と人間に就いて」と題して草田男への返事を載せている。
「戦死者のことを考えると何かすまない気持でいっぱいである。戦争中はやはり勝ちたいと思い、勝てないまでも負けないで欲しいと願った。戦いの実相を見抜けなかった点は不明であった」と前置きを置いて、
軍の高官が「寒雷」にいたのは「寒雷」発刊以前の「馬酔木」での仲間で、自分の先輩や年長者であり、「寒雷」に参加してくれたのをむしろうれしいこととして、親愛できる人としてつきあってきた。軍人であり、権力者であるからつきあったのではない。ただし、俳誌統合の際、「寒雷」が残ったのは辞退すべきだったかも知れない。責任は自分の聡明ならざるところ、弱いところにある。戦争末期の改造社特派としての大陸行は、草田男氏始め数氏がその計画に入っていると聞いて、大陸の地で俳句を生かす道を考えて引き受けた。先発のつもりでいたのに戦局悪化のため後が流れてしまった。
と応えている。
文学者の戦争責任の問題については、責任を追及する側の論理の欺瞞について吉本隆明と花田清輝の論争などがあるが、ここでそれを論ずるには紙幅がない。ただ、草田男の問に対して楸邨は謙虚に真摯に応えていると思う。
戦時中に「寒雷」には三人の「軍高官」が所属していた。
清水清山(せいざん)陸軍中将、本田功陸軍中佐、そして大本営陸軍報道部員(情報参謀)秋山邦雄少佐(牧車さん)である。
清水中将は「寒雷」創刊に際し「馬酔木」時代の楸邨の先輩として参加。本田中佐は牧車さんの兄(養子に入ったために姓が異なる)で、やはり「馬酔木」を辞しての参加である。
牧車さんは兄の功の誘いに従って1942年に「寒雷」に入会している。
牧車さんは三人兄弟の三番目。長兄は秋山輝男海軍中将で43年に水雷戦隊司令官として旗艦「新月」上で戦死。三兄弟ともに軍人であった。
当時の軍人の社会的地位と階級について、戦後生まれの人間は理解が困難になってきている。私の父(仙台の砲兵隊所属の獣医少尉であった)などから聞いた片々を思い起こしてみよう。
父が戦後鳥取県庁に勤めた折、部下に内海(うつみ)さんという方がいて、その方の父親は鳥取連隊の連隊長(大佐)だったそうな。
俺は連隊長の息子を部下に持っていると、父がたいそうなことのように言うものだから、僕が、そんなに連隊長って偉いのと聞くと、一つの県に連隊は一つ、連隊長はそのトップ。要するに県行政のトップである知事と同格だと父は応えた。
大佐が知事と同格なら、中将なんかは大臣クラスだ。
そういえば、阿部みどり女が陸軍中将の娘で、育ちのいい屈託のなさが句風だと、そういう家風がイメージできるくらい高い階級なのだ。
清水中将は「寒雷」の句会に従卒に引かせた馬に乗ってやってきたと古い「寒雷」の文章にあった。しかし、清水中将と本田中佐は主計。要する経理畑の任であったが、牧車さんは大本営陸軍部の参謀である。
大本営参謀というのは軍のエリート中のエリート。ノモンハン事件の辻政信やガダルカナル戦の瀬島龍三、沖縄戦の八原博道らのごとく大本営からの派遣の参謀が階級は佐官でありながら実際は重大作戦の立案を為したことからも分るように、現地の軍司令官はいわば担がれる神輿のような存在であり、大本営の参謀は、事実上は将官以上の権限を有していた。
現在に置き換えてみると、例えば地方の知事が上京したとき省庁の課長クラスが面会をし陳情を受ける。事実上税の交付を差配するのはこの中央官庁の課長クラスである。そんな関係に似てはいまいか。
牧車さんはとにかく軍でも別格の存在であった。大陸派遣の件については、確かに牧車さんが背景にいた。
「楸邨のあとは草田男ということで決まっていた」と僕は直接牧車さんから聞いた。ただ、それが何か戦意高揚を目的としたルポを書けということでなかったことは『沙漠の鶴』を見てもわかる。
俳誌の統廃合は用紙不足の事情が中心にあったので、特に左翼系と目される俳誌を潰す目的で行われたのではない。また廃刊を命じたのではなくて、「統合」を示唆したわけであるから、各地域の事情に沿って各誌の話し合いで行われた面もある。
この件に牧車さんが具体的にどう関わったかは分らない。氏も特にそのことについての発言はなかったように記憶している。ただ、陸軍報道部長が所属していたことが憶測を生んだことも事実である。楸邨が言うように辞退すべきだったのかもしれない。
しかし、当時の「寒雷」には赤城さかえや古澤太穂などのコミュニストもいたのだ。「寒雷」には軍人も学者も農民も機関士も囚人も警官もコミュニストもいた。大陸派遣の件も含め意図的に楸邨と牧車さんの関係を越後屋と悪代官に見立てるのは冷静な議論ではない。
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ともかく、戦争責任追及の嵐が吹き荒れる中で、楸邨も追及される側のひとりとなった。このときの楸邨の悲憤慷慨は第七句集『野哭』のテーマとなっている。
この句集の後記に楸邨は「人間としての自分の人間悪、自己の身を置く社会の社会悪、かういふものの中で本当の声をどうして生かしてゆくか、これが今の私の課題だ。」と書く。
楸邨の傷痕のほどはこの言葉からも明白だが、楸邨糾弾の「原因」となった「軍高官」の側の苦しみは想像を絶する。
自分が非難されるのなら身の処しようもあろうが、名を挙げずとも「秋山牧車」と誰もがわかる書き方で書かれ、そのことで師が責任を追及されているのである。はらわたの捩れるような思いであっただろう。
その時から牧車さんは、楸邨と「寒雷」を支えるために鬼となった。
牧車さんの気がかりはもうひとつ。戦争で亡くなった部下の家族を支えることである。この二つのために牧車さんの戦後の人生はあったといっても過言ではない。
しかし、牧車さんの楸邨を支える気持は、決して盲従の弟子になることではなかった。牧車さんいわく「社会的常識に欠けるあの男(楸邨)のために周囲が見守ってやらねばならない」という考え方である。
「常識」に欠けるというのは、楸邨の生き方が、作風と同じで求心的で一途であり、現実的な対処ができないことを差している。
例えば一般投句欄の「寒雷集」の選句は作品本位ということを徹底して、何年も同人を出さない。句歴や社会的地位など作品以外のことをまったく無視。当然といえば当然だがこれはなかなか徹底できないことである。
首相時代の中曽根康弘や作家吉屋信子が一句欄にいた。あまりに厳選であるために会員が減っていく。「誌代を上げなければやっていけません」と編集部が音を上げると「次からガリ刷りでやりましょう」と平然と言う。
句会で何かが癇に障り「今日かぎり僕は「寒雷」をやめさせてもらいます」と席を立つ。等々。
そのたびに牧車さんが事態を収拾してきた。楸邨に厳しく直言し、第三者に向かっては楸邨夫人を知世子(ちよこ)と呼び捨てで呼んだ。夫人への周囲の配慮が度を越すと思うときは「我々は楸邨の弟子だが知世子の弟子ではない。」と公言した。
句碑嫌いで通した楸邨が、晩年周囲の頼みを断り切れず、しぶしぶ句碑建立を了解しようとしたときも最後まで反対した。あまりに激しく直言するものだから、楸邨は牧車さんを煙たがっていたふうもある。思うところがあると楸邨を電話に呼び出し、絶対あとにはひかないのだから。
はっきりとは言わなかったが牧車さんの最大の望みは楸邨が文化勲章を受章することではなかったかと僕は思う。どこかで牧車さんが「賞というものは風のそよぎでも逃げていくものだから」と書いていたのを覚えている。師には行動を慎重にしてもらわねばならないという意味である。
句碑建立というような「名誉」を嫌がる楸邨を支持した牧車さんが、文化勲章という「名誉」を願うとは矛盾しているように思うし、楸邨の俳句が国家から授与される勲章で価値づけられるものではないと僕など思う。
でも矛盾を超えてこの牧車さんの願い自体はわかる気がする。
戦争責任を問われることで始まった楸邨と牧車さんの戦後は、詰まるところ国家の始めた戦争によって引き起こされた不名誉であったのだから、国家が文化面に於ける最高勲章でもって、その名誉を回復させるべきだと。
牧車さんは自分が引き起こした楸邨の不名誉の真の回復を願っていたのだ。
楸邨自身にはそんな願いは微塵もなかった。というよりも国家との関わりを云々されることにはこりごりという意識がみえた。
'89年に楸邨が芸術院会員に推挙された直後の句会で、古参同人が立ち上がって「先生が芸術院会員になられたことをここでお慶び申し上げたいと思います」と述べたところ、即座に楸邨が険しい表情で立ち上がって「私をよく知る方の言とも思えません」と応じ句会会場が気まずい空気になったことを覚えている。
本当は本人は受けたくないのだと僕など思うが、受けなければ受けないで何か言われる。静かにしといてくれというのが楸邨の本音だったのだろう。
このあたり、同じ根から発した傷痕でありながら、両者の思いが異なるところに、むしろこの問題の深さ、深刻さが思われるのである。
牧車さんの願いはかなわず、'93年に楸邨は他界する。
僕は、楸邨は文化勲章など貰わなくてよかったとこころから思う。現実を見つめ、自分の中の真の声を聴くという楸邨の理念は文学の本質そのものであり、それは必然的に反体制的なものだと思うから。牧車さんには悪いけど。
「軍高官」についてもうひとつ言っておきたい。
軍高官を戦後も結社員として優遇しているのは何故かという草田男の問いかけに既述のごとく応えたあと、楸邨は「陸軍中将」から一市民に戻った清水清山の「結社員」としての実績を評価して「清山賞」を年間の同人賞として設立。同時に清水清山を同人会長に任じている。副会長は牧車さん。
軍高官と名指しで非難された二人を、ふつうなら「寒雷」から遠ざけてもいいところである。このあたりに楸邨の反骨と強い意地をみる。草田男の指摘は当たっていない、自分は戦中彼らを特別扱いした覚えはない、だから戦後彼らを「寒雷」から放逐する理由もない。作品本位の評価に戦中も戦後も軍高官も元軍人もくそもないという意志表示である。この扱いによって牧車さんが、より恩義と責任を感じたことも納得がいくのである。
ここで、牧車さんの作品にも触れておきたい。
句集は生涯で二冊、『山岳州』('74年刊)と『合掌』('81年刊)。
牧車さんは戦争末期、南方総軍報道部長としてマニラに赴任。山下奉文大将のもと、フィリピンの山に籠って抗戦するがそのまま終戦となり山を下りる。
そのときの句が『山岳州』に収められている。
前書き(十二月三十一日終日冷雨、早暁収容所を出て無蓋貨車によりマニラに入る。投石の中に銅貨あり。缶詰、煙草も降り来しと)
しぐるる街ざわめく声は罵り来
ああ、これが戦争の真実だと思う。
廊下の奥に立っている戦争、いっせいに柱の燃える戦争、それは勧善懲悪の類型的戦争だ。悪と善、加害と被害のはっきりした観念だ。「投石の中に銅貨あり。缶詰、煙草も降り来しと」。すぐれたドラマと凡庸なドラマの違いはここにある。
凡庸な、見て来たような嘘は、悪い敗者への投石しか設定できない。石と煙草が両方飛んでくるのがすぐれたドラマ。割り切れない現実のリアルだ。
戦中何もしないで戦後、反戦句をウリにしている俳人はこういう描写をこそしっかりと学ぶべきだ。
ぜんまいの渦の中にも砲の音
二日月訣れ短く言い馴れし
蟻さわぐ土堀りあげて友を置く
砲弾の合間の鵙を聞きにけり
(牧車さんは『山岳州』を現代仮名遣いで編んだ)
余談だが、十数年前だろうか、テレビでの財宝探しの特別番組が流行したことがあった。
徳川埋蔵金だの、沈没船の宝探しだのの番組の一連の中に山下財宝を探すというのがあった。山下奉文大将はイギリス軍を破ってマニラを陥落させた猛将であったから、戦争末期最後の抵抗をするときに、接収した財宝を山中のどこかに埋めたのではないかという推理での番組である。
UFO特集などと並ぶ娯楽番組としてあほらしいと思いつつボーッと観ていると当時の要人にインタビューするという場面に、牧車さんが出てきて驚いた。牧車さんは大本営から派遣された参謀であったので、取材を受けたのだ。
現地派遣になる前に大本営から山下軍に財宝になるようなものを送りましたかという問いに牧車さんはまじめに答えていた。
「林檎の木箱一杯の金貨を送りましたね」
こんな話題で牧車さんが現れようとは。牧車さんがいかに日本陸軍の中枢にいたかがよく分った。
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牧車さんは、1899年に熊本市で生まれた。楸邨に長ずること六年。
父親は旧制済々黌中学の漢文教師。1920年陸軍士官学校卒業。'22年に陸軍戸山学校終了。'26年に東京外国語学校(現東京外国語大学)英文科卒業。陸軍参謀本部付となる。
以後陸軍の報道畑を歩むわけだが、陸士、陸軍大学が陸軍における超エリートのコースなのに牧車さんはちょっとずれて自ら志願して軍籍のまま外国語学校に学んだ。
そのあたりに軍人でありながら、文学や外国に目をひらく嗜好が出ているように思う。そのせいだろう。牧車さんの長男邦晴氏は早大の仏文科を出て音楽評論家になった。奥方はピアニストの高橋アキさん。次男はNHKのアナウンサーとして人気のあった邦博氏。邦博氏は父の母校でもある外語大のロシア語学科を出ている。
「寒雷」1996年2月号は秋山牧車追悼特集号となった。そこに二人のご子息が寄稿している。
牧車さんがフィリピンの戦場から栄養失調で一時帰国したときに、邦晴氏は早大仏文科に行きたいと告げる。父はあっさり了承してくれたと書いている。子供の頃、ディズニーのアニメ映画を観に連れて行ってくれたこと。ドイツのハーゲンベック・サーカスが来日したときやレオナルド・ダヴィンチ科学博覧会に二人を連れて行ってくれたこと。英語を学ぶことの大切さをいつも説いていたとも。
僕は牧車さんとは、祖父と孫ほどの年齢差があったけれども、男の志というものがどういうものか、信義というものがどんなに大切なものかを教えて貰った気がする。
秋山牧車二十句 (今井 聖・撰)
(一月九日米軍上陸し激戦続く。十日の夕焼雲俄かに一面の弾幕、わが特攻なり)
夕焼けの褪むるまで帽つかみ居り
弾道や静かに暮るる松の花
(敵の主攻撃正面となる。我に重機一軽機二)
残れとは死ねとなり月夜また月夜
(昭和二十年五月パレテ方面激戦中)
ぜんまいの渦の中にも砲の音
蟻さわぐ土堀りあげて友を置く
(八月十四日終日砲弾なり)
砲弾の合間の鵙を聞きにけり
(八月十五日停戦、敵の砲弾止みはるかに我が山砲の音あり。悔やし泣きなり)
岐谷(まただに)に霧あふれ来ていくさ止む
(部下たりし人の墓前にて)
冬帽を脱ぎておのれも杭となる
雲の峰音たてて貨車つながりぬ
颱風や呂栄(ルソン)の雲に墓のこす
雨の桜の花びら付きぬ同期生
(戦死せる兄を思う)
雲の峰兄は海底鎮座せり
天の川骨拾い合うすべもなし
鬨のごときくしゃみあたりは烏瓜
(大正九年和歌山にて少尉任官)
渦の上紀伊霞むかの帽の星
こおろぎよ怒りを噛むに歯一本
ヘッドライト霧を月山筍くだる
冬の青はらからはみな隠れけり
大年の鼾なりしがふっと止む
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「街」俳句の会 (主宰・今井聖)サイト ≫見る
2 comments:
私は本田絢美と申します。 祖父は本田功、本田邦雄の兄にあたります。 私は現在米国 テキサス州で暮らしており 本ブログで邦雄叔父の事を読ませていただき 大変感謝しております。 自分の知らなかったことを教えていただいた気がいたします。 ありがとございました。
本田絢美さま
コメントをいただきうれしく存じます。本田功さま、秋山邦雄さん(牧車さんと呼んでおりました)の思い出は尽きません。
軍人三兄弟。長兄はたしか海軍中将で海戦で水雷戦隊を率いて戦死。次兄が功さま、三番目が牧車さんだったと記憶しております。功さまが陸軍主計中佐、牧車さんが大本営の陸軍少佐。まさに軍人のエリートでありながら、尊大な感じのかけらもないお二人でした。
功さんにお目にかかったのは二度ほど。何かの泊りがけの寒雷吟行会の折、食事のあとで、「これから今日の句について僕の部屋で語りましょう」と笑顔でおっしゃった記憶があります。
実に闊達な印象でした。牧車さんにはずっとお世話になりました。小文に書きました通り、楸邨には厳しく、ときには一歩も引かずに諫言されました。それもこれも師を誰よりも愛するゆえであることは当時から皆わかっておりました。寒雷の校正の折などは90歳を超えてからも杖をつきながら毎回出てこられみなに食事をふるまわれました。
牧車さんには個人的にもお世話になりました。息子さんの音楽評論家秋山邦晴さんにも会わせていただきましたし、その奥様のピアニスト高橋アキさんのコンサートにも行く機会を与えていただきました。そのご縁で、アキさんのお兄様高橋悠治さんのコンサートにも通うようになりました。まだまだたくさん申し上げたい思い出があります。お目にかかる機会でもありますれば、その折に。どうぞお元気でお過ごしください。
今井 聖拝
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